『天つ野』第29号から、職員の集合写真が掲載されるようになりました。昭和44年(1969年)3月5日発行のものです。
上のような感じです。個人情報もありますので、お写真だけ掲載します。
前年度末人事で、千村校長先生は、長野市立皐月高等学校長(現在の長野市立長野高校)として転出され、守屋新助校長先生が、屋代南高校長から着任されました。
守屋校長先生の、『天つ野』巻頭言は以下のとおりです。二葉祭についての記述もありますが、3年に一度開催されていた二葉祭も、昭和38年に第6回のあと、昭和41年に第7回が開催され、それ以降、毎年開催されるようになりました。
この昭和44年3月には、寄宿舎も廃止されています。
昭和43年8月の同窓会臨時総会で、「同窓会館建設案廃棄決定」とも、『写真でかたる二葉百年のあゆみ』にはありました。
守屋校長先生の新任職員プロフィールは、非常に考えさせられるものがありました。たぶん、年齢的に、大正の一けた台のお生まれだと思うのです。
出身は、旧高遠町片倉(現伊那市)ですから、家から通うわけにはいかず、旧制の諏訪中学校に進まれ、寮生活をされていますね。その後、山梨師範(山梨大学)、東京高等師範(その後、東京教育大学→筑波大学)と進まれるわけですね。旧制諏訪中学校では、あの三澤勝衛先生に教わったことも書かれていました。国語教師になったいきさつも、なんといいましょうか、レベルの高い話ですよね。
質問の2番目の答えなど、「立派な先生にめぐまれ、教職にあこがれを感じました」とありますよね。実はこれはとても大切なことだと思うのです。
私など、「高校教師になれば、好きな研究もできるにちがいない」と、単純に思っていましたから。
当時の修学旅行の日程表も掲載されていました。3月に行っていたんですね。4泊5日です。今なら、この行程なら、3泊4日で回れるはずです。
最後に、戦時中に学生時代を送った卒業生の手記を紹介します。今年は、戦後70年の年ですからね。読者の皆さんも、じっくり読んでみてください。
校内では、7時間授業後、学校安全衛生委員会を行いました。7月に先生方の勤務状況を把握しました。その実態を確認し、是正できる点があるかどうかを考え、職員会に報告する原案を作成しました。須田養護教諭、数学科の武田先生には、資料作りに際し大変お世話になりました。
また、7月に実施しました「匿名性を担保した授業評価」の集計が終わりましたので、「個人分、教科分、学校全体の3点セット」を用意し、今日から、それぞれの先生方を訪ねながら、渡し始めました。
腰原教頭先生には、夏休み中に、こつこつと集計作業を行っていただきました。ありがとうございました。
本校の先生方は、すでに生徒の授業評価は十分に高いのですが、個別の評価項目を真摯に受け止めて、さらなる授業改善を行っていただければ、校長として大変ありがたく思います。
「教師も成長が止まってはいけませんし、生徒と共に、学び続ける教師でなくてはいけない」と、私は考えています。