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ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

三文オペラ 再び

2023-02-18 16:35:12 | 芸術およびコミュニケーション
7月31日に『てなもんや三文オペラ』について書いたが
今回はピッコロ座プロデュースの『三文のオペラ』

結論から言うと、期待していたものとは違った。
私の期待するブレヒトからするとエネルギーが薄かった。

マックは盗賊。放火や殺人も犯す悪人だが、女好きでどこか魅力的でもある。
にもかかわらず、マックに色気も人としての魅力もあまり感じられない。
ピーチャムもマックに劣らず悪だ。けれどどこか哲学的でもある。
こなれていたけれど、もっと凄味やねちこさがあってもよかったかも。

パイプを組んだような装置を動かして場面転換をしていくアイデアは良かったが、場面転換を見せるのか見せないのか中途半端な感じが残念!
バイオリンの生演奏は良かった。
歌詞が字幕で出るのはよいのだけれど、セリフから歌のつなぎがぶつ切れになる。
それもあってかエネルギーが上がらない。

台本もこなれていない感じ。
最期のどんでん返しに「エエッ?」という驚きがない。
ここはこの国でもあるあるの出来事を彷彿とさせる仕掛けがあっても良かったかも。

各自はそこそこうまいのに、全体として仕上がり切っていない感じ。
あとちょっとの何かが足りない感じ。もったいないなあ。

ピッコロ座は始めて観た。
日本でおそらく唯一の公立劇団ということで、大いに期待していた。
期待が大きすぎたのかもしれない。
期待していないときは、「おっと、これはめっけものだった」と思ったりするから。

ポリーが良かった。
大阪弁にしたことを一番生かせていたのではないだろうか。
お嬢さんと姉御ぶりの同居がみごと!

観ながら、こんにゃく座のオペラを思い出していた。
林光の曲も、歌いやすそうなメロディーじゃない。
けれど、日本語にしっくりくる感じがある。
クルト・ヴァイルの曲は、日本語を乗せるには無理があるのだろうか。
「マック・ザ・ナイフ」はすっかり日本語でもおなじみになっているけれど。

『てなもんや三文オペラ』では、騒々しくてかえって歌詞が聞こえにくいというのがあったけれど、福井晶一のジェニーの歌唱は抜群だった。
日本語が乗らないと思うのは歌唱力の問題なのだろうか。
1981年の劇団青年座の公演の音楽はメロディーが違う曲が多かった。昨年の『てなもんや三文オペラ』と、今回でも曲が違っているように思った。編曲の違いか?翻案しているので歌詞のつけ方が違うのは当然としても。

「ブレヒトは難しい」ということを今回は認識した。
ああ!血沸き肉躍る『三文オペラ』が観たい!

記憶に残るお芝居、最近注目の俳優

2022-10-16 10:33:21 | 芸術およびコミュニケーション
昔に観て未だに忘れられない。

1.劇団民芸「ベニスの商人」
おなじみシェークスピアの。
シャイロック:滝沢修 アントーニオ:芦田伸介 バッサーニオ:米倉斉加年 ポーシャ:樫山文枝
このキャストでの第一回公演は1968年とある。
私は高校生の時にこのお芝居を観たように思うのだが。
滝沢修のシャイロックが圧巻で、『ベニスの商人』ってこんな話だったのか!と感動すると同時に、自分の解釈の浅さを思い知った。お芝居を観る面白さに目覚めるきっかけだった。
この話を40代の演劇人にしたら、「滝沢修?知らない」と言われびっくりしたけれど、考えてみたらそうかも。

2.劇団青年座「ミュージカル 三文オペラ」
ブレヒト
ストリーも楽しいが、曲がすぐに口ずさめそうで楽しくて、LPレコードを買った。
ブレヒトが好きになったきっかけ。
マックは大塚國夫さん、高畑淳子さんがポリーだった。
1981年公演? もう仕事についていた。長男が生まれる前年。
あるいは1973年に第28回芸術祭優秀賞を『三文オペラ』で受賞しているので、このころだろうか。
最近、夫が「いわし雲」という映画を借りてきて、そこに若き日の大塚國夫がいた。
マックの大塚さんは、ええおっさんになっていて、「ひとたらし」の役がめちゃはまっていた。

3.「父と暮らせば」
沖縄県浦添市のてだこホールで観た。おそらく2001年ぐらい。
映画よりは何年か前だった。劇団も配役も覚えていない。
沖縄の劇団ではなかったし、こまつ座でもなかった気がする。
幕が下りたとき、衝撃で立てなかった。
「これが戦争だ!これが原爆だ!」
その悲惨さや理不尽さは、破壊や死だけでは語れないことを知った。
それまでも「知って」いたはずなのに。
井上ひさしは偉大な劇作家だ。

最近観たお芝居では
「hanaー1970 コザが燃えた日」について2月6日に書いた。
7月31日にふれた「セールスマンの死」も良かった。林遣都が次男のハッピー役で出ていた。
これらは10年後(生きていたら)、どう響いているだろうか。

私が最近注目の役者は、榎本佑、生田斗真、林遣都、
そして何と言っても仲野太賀。
「コントが始まる」。これで出会ってしまった。
はじめは有村架純が見たくて見たのだが。
「拾われた男」「初恋の悪魔」と追っかけ。
「初恋の悪魔」は榎本佑、林遣都、仲野太賀、だもんね。
たまたま観た「オリバーな犬」にも出ていて、
さらに今日から「ジャパニーズスタイル」。
おいおい、大丈夫かい!働きすぎだろ!

私の好みは、竹野内豊や阿部寛だったはずだけれど。
仲野太賀はどこにでも居そうで、人が良さそうで、親近感が湧く。
上手い役者だと思う。
舞台も見てみたい。

コミュニケーションの共創モデルと「演じる」ということ

2022-09-02 09:36:24 | 芸術およびコミュニケーション
「演じること」と「教育」に関心をもつ若手研究者の交流に首をつっこんでいます。昨夜、ようやくメンバー4人の日程が合ってzoomで懇談。予定の90分は本当に楽しくて、あっという間でした。

2023年3月にWSをすることも決まりました。
これからは、まずはお互いWSでやりたいことを出してみることから。

何かいろいろ心に引っかかることが話されていたのに、録音しなかったことが本当に残念!
なので少しここに書いておきます。

*****
その話し合いで共創学会があると聞いて、HPを見た。
役員メンバーが多彩で、私はコミュニケーションの共創モデルについて、けっこう狭い理解でしかないのだろうな、と思った。
私の単純な頭ですっきり理解できる概念ではなさそうだ。
一方で共創という概念が確立していくのはこれからなのかも、とも思う。

演じるということの多相性(多層性)は、観られているということがどう関係するのか。
話し合う中で、その意識が登ってくる。
話し合う面白さがここにある。それまで見えてなかった視点が見えてくる。

見せること、観られていることを意識するのかどうかで、「演じること」の違った相(層)が現れる。

Kさんの、子どもたちの演技は親たちが観に来る本番にいつもと違う表現が現れる話。
あるいは、本人はマイクを持って立っているだけでも、まわりの状況によって「歌って楽しかった」と言えること。

Gさんの石になっている子どもの話。それは演技と言えるのか。他者によって「石になっている」と認識されたときにそれは演技と言えるようになるのか。

Kさんから、日常を「演じている」という話があった。演じているという意識があれば、それは演技なのだろうと思う。「むしろ日常と関係ない場が設定されて演じるときこそ、自分らしさが出せる」とすると、ここでも観ることと関係する 相(層) の違いというものがあるのかもしれない。

私自身の体験を思い出した。
5歳頃だろうか。引っ越したばかりで友達もなく、庭に積んだ小石で遊んでいた。
畑にするために、父が掘り起こした土から出たもの。

そこには小人が隠れていて、何やら私に話しかけてくるのだった。
友だちができてからは、小人と遊んだ記憶はない。
なぜ物覚えの悪い私が小人ごっこを覚えているかというと、絵日記を書いたから。
後に思い出す機会があったのだ。
この時の私は演じていたのだろうか。
小人が本当にいると思っていたわけではない。

子どもはごっこ遊びで役をとるが、そのときたいていやりとりする誰かがいる。
けれど、時には自分ひとりで何かになることに没頭しているときもある。
「演じる」とは、どういうことだろう。

私たちはドラマワークショップをするとき、場をどう形成するのかということにとても気を配る。それは、演じるということに、「それを受け止める人たち」が欠かせないからではないだろうか。「演じる」ということがその表現を受け止める人たちと無関係には存在しないことを、昨夜、改めて考えさせられた。

そして、私の狭い理解の範囲だが、共創モデルは表現を「受け止めたい」「受けとめてほしい
」という双方の思いなしには成立しないのではないか、とも思った。

先日、プレイバック・シアターの羽地朝和さん、コミュニケーション・アーツの岩橋由莉さん、津田塾大学の吉田真理子さんと4人で、zoomでそれぞれがどうして「演じる」ということに関わることになったのかを話したが、これもメチャクチャ面白かった。

その時、私は沖縄国際大学でドラマを用いて授業を始めたことを話したが、あの頃、特に最初の何年か、私自身が試行錯誤で手探りだったのに、学生たちはその授業を楽しんでくれた。自分たちが授業する番になると、夜中12時にバイトを終えてそれから集まって相談したりしていた。
立命に移ると、学生はメールなどでちゃちゃっと打ち合わせして、それでもちゃんと形にする。でも最初に立命の学生に出会っていたら、『学びの即興劇』の本は書けなかったかもしれない。
芸能に親しんでいる沖縄の学生たちのもつ文化の違いなどが影響しただろうけれど、「演じる」ことにたいする素直さが違う気がした。
それに対して羽地さんから、「自身が手探りだったことが良かったのではないか」という指摘があった。羽地さんも、リーダー研修1期生にはやはり講座を一緒に作ったという感じがある、と。私はその1期生だった。前例となるモデルがないこと、教師も権威者や経験者としてではなく迷いながら新しいものをつくろうとしていること。こういういわば対等な関係が、共創を生み出しやすいのかもしれない。

*****

共創が何かも良く分からないのに、そんなことを考えました。

「演じる」ことは、書き言葉や話し言葉だけではない体が伴う。そういった言語の広がりが意味を持つのかもしれません。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』で、異星人と出会った主人公ライランドが共通言語獲得していく過程は、まずお互いの動作を真似ることから始まる。
そして科学者同士として、同じ現象を同じように理解できるはずという唯物論と相手に対する信頼。
この過程は、共創モデルではないだろうか。

と、また共創に結びつけてしまう。知らないくせに。マイブームなんだなあ!

友と演劇を観る楽しみー充実の7月

2022-07-31 10:05:25 | 芸術およびコミュニケーション
7月8日金曜日「文学の夕べ」。
私が行ったのは夕べではなかったけれど。
篠田三郎と樫山文江の朗読。藤沢周平と山本周五郎。
Sさんと行った。

Sさんは藤沢周平、私は山本周五郎が好き。
主人公はどちらも女性。方や武家、方や庶民。
短くても観終わった後で、そんな話ができるのが楽しい。


7月17日日曜日「てなもんや三文オペラ」。
こちらはMさんと。
往復の電車とランチも含めて、Mさんとずいぶん話した。
Mさんは美術鑑賞が趣味で、5月には午前は美術館、午後は「あるセールスマンの死」と充実の一日を過ごした。
「あるセールスマンの死」は20代で観たが、よく分かっていなかった。今回断然良かった。

「てなもんや三文オペラ」は思っていたものとずいぶん違った。
もうブレヒトではなく、別の三文オペラになっていた。
マイクを通して大きな声が聞こえるのだが、私にはかえって意味がとりにくかった。

けれど、違った話と割り切れば面白かった。
こういう演劇を演じる中で、若い俳優たちは戦争や戦後について身をもって学ぶのだろう。
役者たちは良かった。ウエンツ瑛士のポール、福井晶一のジェニーがとくに印象に残る。
渡辺いっけいがセリフを忘れたのか「なんだったっけ」みたいなシーンがあったのだが、それも笑いに変えて舞台に取り込んでしまうのはさすがプロ。

マックの恋人であるポリーならぬポール、太ったルーシー。そこにマックの人としてのスケールがあるはず。それがあまり感じられなかったのは生田斗真の若さゆえか。戦争で死線をさまよった挙句大泥棒になったマックを演じるのはなかなかの力量を要求されるのだろう。テレビや映画での彼が好きだが、舞台での演技はまだこれからなのかも。

そんな話をしながら電車で帰れたのも嬉しい。
こういう友達は得難い。


7月18日月曜日「オペラ ファルスタッフ」。
夫と。
なんということもない喜歌劇だが、出演者の演技力や歌唱力で楽しむことができた。


7月23日土曜日「京舞と狂言」。
京舞はあまり意識して観たことがなかったが、5月に山海塾の「かげみ」が良かったこともあり、これまであまり接してこなかったものを観てみようと出かけた。
これはひとりで。

アフタートークを含めて、とても楽しめた。
井上安寿子の「弓流し物語」。初上演とのことだったが、その男踊りの美しさと力強さがとても良かった。
茂山忠三郎の「那須物語」。狂言にも語りという分野があることを初めて知ったし、ひとり三役を舞台上の場所を変えることで表し、まるで目に浮かぶように語るのはさすがだと思った。
今後はこういう分野も注目していきたい。


そして7月31日映画「アプローズ、アプローズ!」。
これも目からうろこの「ゴドーを待ちながら」だった。
訳の分からない「ゴドーを待ちながら」のなかでもとりわけ意味不明なラッキーの存在のリアルに衝撃。そして映画のラストには泣かずにはおれなかった。
演じることで人は変容するということは、いったいどういうことなのか。


演劇鑑賞サークルにも入っているが、せっかくのサークルなのに観た演劇についてそのサークルで語り合う機会がまるでない。これは残念。

芸術の鑑賞と創作ー短歌AIより

2022-07-06 07:36:06 | 芸術およびコミュニケーション
朝日新聞「俵万智さんが短歌AIを体験してみたら」

俵万智さんの短歌をAIに学習させて、上の句を入れるとAIが下の句を読んでくれる。
俵万智さんが「やられたな」と思うような短歌もある。

俵万智さんはいう。そもそも、人はなぜ歌を詠むのか。「歌をつくるということは、自分の心の揺れを見つめ、感じたことを味わい直すということ。AIは、よりよい表現を模索するための相棒になってくれそうだけれど、歌の種は人の心にあるわけで、歌を詠むのはあくまで自分ですから」

AIの短歌も、人の短歌の学習から生まれるので、人を感動させることができるだろう。

これを演劇に置いてみる。

AIロボットによる演劇が試みられている。
アニメーションという2次元でさえ、人は感情移入し感激するのだから、良くできたAIロボットによる鑑賞に堪える演劇をつくることは可能だろう。
商業的に成り立つかもしれない。

けれど、演じるという行為は、いや観劇という行為も、「自分の心の揺れを見つめ、感じたことを味わい直すということ」である。

派手できらびやかで楽しい舞台は、現実の憂さを一時忘れさせてくれるという意味で必要かもしれないが、そういう舞台を観たときに自分は「消費者」にすぎないと感じるときがある。楽しませてもらっている自分。積極的な関与がなく、受動的に終わってしまう舞台。

一流の演奏をCDで聴くより、二流の(といわれている)演奏をライブで聴くほうがはるかに感動することはままある。エネルギーが発揮される場を共有することで生まれる感動なのか。出かけていくという能動的行動をともなう鑑賞側の積極性なのか。

音楽にせよ美術にせよ、短歌にせよ俳句にせよ、演劇にせよ、元は自分の根源にあるものから生まれる表現であることを改めて考えさせられた。