ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

キマダラカメムシ

2024-09-18 20:09:22 | 子どもと学ぶ
孫のOちゃんと一緒に歩いていたら、Oちゃんが歩道に虫を発見。

写真検索をしようと試みるけれど、うまく写真が撮れない上に(検索)をタップしても効かない。
それで、「カメムシ 黒い点」で検索したら見事にヒット!
キマダラカメムシだった!

始めて見た。けれど江戸時代には日本に入って来ていて、今は都会では珍しく無いらしい。
だけど大量発生することがなく、他のカメムシに比べて目立ちにくいということだった。

「キマダラカメムシの海外の分布域は、東アジアから東南アジアにかけての地域です。日本で最初に見つかったのは江戸時代。その後150年間も見つかってこなかったのですが、1934年に長崎で再発見されました。2000年頃から急速に分布が拡大し、現在では関東より北の地域でも見つかるようになりました。南方系カメムシであるキマダラカメムシの拡大には、地球温暖化が影響している可能性が考えられます。」https://ccbio.jp/topics/t006 ですと。

今日見たのは幼虫。成虫を見てみたい。
Oちゃんのおかげで初めての虫に出会って、嬉しい日になりました。
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表現と芸術—何が芸術となるのか

2024-09-01 09:08:02 | 芸術およびコミュニケーション
俳句を始めて、表現と芸術について思うことがいろいろある。

これまで「演じる」ということに関わってきた。
プロが演じる芝居と、子どもたちが学ぶときに「何かになってみる体験」として演じることは、どこかで繋がってはいるものの、違うものと感じてきた。

俳句を始めて、その違いが明確になってきたように思う。

俳句はそれぞれ自分の体験や感性に基づいて表現される、その人にとって唯一無二のものである。
けれど17文字しかないので、自分の言いたいことをすべてそこに盛り込むことはできない。
伝わりにくい。
その17文字が芸術となるには、多くの人に共感を与えると同時に、作者ならではの創造性があることが求められる。
つまり芸術かどうかを決めるのは作者ではなく、それを見る他人だということ。

 古池や蛙飛び込む水の音

言わずと知れた芭蕉の名句。
中学校の国語の授業で習ったように思う。

この句を見ると、蛙の飛び込む水の音が聞こえ、古池の景色が浮かぶ。
それはお寺の庭かも知れない。そうでなくても木々に囲まれたそれほど大きくない池だろう。
日が照っているが、池には木漏れ日。
蛙の飛び込んだあたりは、どちらかといえばやや暗い。
蛙は池のふちから出ている石から飛び込んだに違いない。そんな音だ。
その音からかえって静寂が広がる。
落ち着いた穏やかない気持ちだが、少し寂しさもあるかもしれない。

この17文字から、情景のみならず心理までもが見えるように思える。
人によって思い描く情景は違うかもしれないが、多くの人にとって17文字以上のゆたかな情景が広がるのは間違いないだろう。
17文字しかないからこそ、共通点をもちながらも人によって異なる情景が味わえるとも言える。

これが名句と言われ、芸術になる。
しかし、もし多くの人が共感しても「ありきたり」であれば芸術とは言わない。
共感を呼ぶだけでなく、その人ならではの何か(創造性といわれるもの)がないと、芸術にはならない。

毎週、新聞に俳句が掲載され、それを読むのが楽しみになっている。
四人の選者がいるが、この四人が同じ人の句を取りあげることは少ない。あったとしても二人がたまに重なる程度。四人一致は見たことがない。
二人一致も短歌より頻度が少ない。短歌は35文字なので、俳句よりは省略が少ないから、同じ情景を描きやすいのだろう。

どの俳句が良いかは、自分の体験や感性によって異なる。
俳句の選者の中に、戦争体験や平和を願う俳句をよくとりあげる人がいる。その選者が幼少期に満州から引き揚げてきたということを知ると、なるほどと思う。

自分の体験、感性、思いを人に伝わるように句にする。
そのために技巧があり、技巧を知ると他の人の句も分かるようになってくる。
しかし、本質は技巧ではなく、伝わり受け止めてもらえるものがその句にあるかどうかなのだ。

私には言いたいことがあるが、それを句にして伝える力はまだあまりない。
でも、今の私にとってはまず表現してみることが大事。
表現してみることで分かることがある。
自分について、他人について、社会について。

言いたいことをとにかく句にしてみる。
それを句会で読んでもらう。
他の人からの感想を聴く。
どうしたらもっと伝わるかということを教わる。

それが大事。
だから毎回自分なりに冒険をしている。
「これは伝わらないかも」と思うことを敢えて句にして、どうすれば伝わるかを探っている。

「演じること」も表現ということでは同じだと思う。
稚拙に関係なく、自分の体や言葉使って表現するということが尊い。
そのためには、他人の表現を受け止める場をお互いつくることが必要だ。

演じる尊さと芸術であるかどうかは関係ない。
素人の「演じる」がどのようなものであれ、本人自身から出ている表現なら尊い。
けれど身内以外の人に訴える何かがなければ、芸術にはならない。

芸術かどうかは他人の評価。
ゴッホだって、作品を保管し、それを評価し、他に広めてくれる人がなければ、誰にも知られず埋もれていたかもしれないのだ。生前は1枚しか売れなかった。

ここでプロのお芝居に思考が跳ぶ。
プロのお芝居は芸術と言えるのか。
多くの人が、高いお金を払って観に行きたがるお芝居だからといって、必ずしも芸術ではないようにも思う。
逆に、人の入りは少ないけれど、これは絶品と思えるお芝居もある。

これについては、また別の日に書いてみたい。
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頭の中の警官ー子どもは囚われないのか

2024-08-28 08:19:54 | 芸術およびコミュニケーション
「頭の中の警官」と言ったのは、アウグスト・ボアールだったかキース・ジョンストンだったか。フォーラムシアターやインプロのWSでよく聞く。

大人は「頭の中に警官」がいて、自己規制してしまう。
それが日常になって、自己規制しているという意識すら希薄である。
そういうことに気づいて、自己規制を払っていくことで自由な表現が生まれるという。
だから子どものほうがのびのびと表現できる、と。

なら子どもに自己規制はないのか。
そんなことはない。

確かに多くの子どもは大人より自由だ。
自由なのは自分中心だからだ。
それは世界が狭いということでもある。

ドイツの2歳の子どもの絵に4300万円の値段が付いたことが話題になっていたが、
自由奔放なタッチは確かに素晴らしい。
使いたい色を使って、大きなキャンバスに、おもいっきり太い筆を叩きつけられる環境が、
どの子にもあればいいのにな、と思う。
たくさんの天才が生まれるだろう。

けれど子どもは子どもなりの自己規制がある。
年齢を追うにつれてそれは大きくなる。
2歳の時に手に負えなかった私の孫も、3歳を越え語彙が増えると、ずいぶん落ち着いてきた。
「やってはいけない」「自分のやったことで誰かが困っている」などを感じている。

一方で、世界は自分中心で回っているので、他人への配慮などは難しい。
平気で他人を傷つけることを言ったりしたりする。
ぶつかったときに、ようやく自分以外について認識し、自分の振舞いを変えることを学ぶ。
これまでは泣き喚いて自分の世界を貫こうとしていたのだが。

絵を描くと、意味不明だったものがだんだん形をもつようになるが、一方で花とか人とかステレオタイプになっていく。

子どもは子どもなりに自己規制している。
それが自由に見えるのは、子どもに見えている世界が狭いから。

自分の世界が広がることは、ある意味自由を獲得することであり、
別の意味では自己規制がより働くことにもなる。

人は自分の世界を広げながら、他人とともに暮らすために自己規制する。

私たちは(少なくとも私は)「自分が正しい」と信じ切っている人と共存しなければならないことに疲れる。
自己規制は社会で生きていく以上、必要だ。

しかし、不必要な自己規制に縛られていないか?
自分にそういう疑問を向けるのは、意味のあることだろう。

70歳を「従心(じゅうしん)」と言い、思い通りに行動しても道を踏み外さずに生きられるようになることだそうだが、70歳までにそうなるには、それまでの人生でよほどの修業が必要に違いない。

インプロはあるいはその修業の一つなのかも。
だとすれば、楽しい修行だ。

 打ち上げのジョッキ待つ間の夕焼雲 (再録)

インプロやプレイバックシアターのWS後の一杯はとりわけ美味しい!
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家電が壊れる

2024-08-22 10:48:04 | 日記・エッセイ・コラム
家を建て直して10年。

そのタイミングで買った洗濯機が先日壊れ、夏場は洗濯機がないと困るので近所の量販店にすぐ走りました。
これまでの洗濯機でも、毛布や薄布団を洗えたのでそのぐらいの容量は欲しいと思っていたけれど、慌てて買いに走ったので使っていた洗濯機の容量が分からず、7Kgを購入。
静音機能付きは若干高いのですが、負けてくれるというのでほぼ同値段。けれど色とデザインが気に食わなくて、結局静音機能は無しで。
一番単純な全自動。

翌々日に配送設置してもらったところ、やや前のより大きいけれどまあ気にならない程度。
前のは5Kgだった。
音は前のより静か。

前のは薄布団を洗っていて、脱水で無理して壊れた感じだったが、今回はかなり余裕で洗ってくれる。
ただ、問題は、洗濯ものの量の感知が適当な感じ。
前のもそうだったけれど、おかしいと思ったら自分で容量設定を変えることが可能だった。
今回のは洗濯前に変えておく必要があるようで、ということは洗濯前に量を量る?
そんな面倒な。

まあ、これにつきあって適当な方法を探っていくしかないけれど。


と、落ち着いたと思ったら今度はリビングのエアコンのリモコンが壊れた。
洗濯機と同時期に買ったもの。

私はリモコンに何の不自由も感じていなかったけれど、夫はリモコンが効きにくくなったと思ったようで、電池入れ替え。入れ替えた後、手順を踏まなければならなかったけれど、無視してスイッチを押したところ、壊れてしまった。
説明書をみてあれこれやってみるも、まったく動かず。
夫が手順を踏まなかったせいなのか、ちょうどそのタイミングが寿命だったのか、真実は分からない。
けれど、37℃という猛暑で、エアコン無しは辛い。
すぐにリモコンを買いに走るべし。だけれど、その元気もない。
結局これはネットで買う。
しかも汎用型の安いもの。
翌々日に到着。

前のリモコンのように複雑な機能はなく、電池さえ入れればすぐに動いた。
これで十分。

さて、次は何?
掃除機?これ15年使っているが、ほかにもあるので、壊れてもすぐには困らない。
炊飯器?これは15年ぐらい使っている。そろそろか。ま、無くても鍋でご飯は炊ける。
冷蔵庫?これも15年か。これは夏の必需品。
寝室のエアコンは、12年。これが一番怪しい。リビングのエアコンより古い。
テレビが一番古いかもしれないが、これはあまり見ていないから大丈夫そう。一度リモコンは買い替えた。

なんにせよ、早く涼しくなってほしいものだ。

 家も我も古びながらも猛暑耐え
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久々のハイキング

2024-08-17 14:38:50 | 日記・エッセイ・コラム
9時、山小屋出発

10時半、殿城山


11時半、車山頂上へは寄らず鞍部のTOP's360°でランチ ピザとクリームソーダ。
 残念ながら、今日は富士山は見えず


白樺湖を見ながら中央分水嶺トレイルを辿って山小屋へ


13時半、山小屋着
昨日、今日と二日続けて鹿を見ました。
鹿が増えているのかな?


 人声にダンサーのごと去る小鹿
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