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ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

表現と芸術—何が芸術となるのか

2024-09-01 09:08:02 | 芸術およびコミュニケーション
俳句を始めて、表現と芸術について思うことがいろいろある。

これまで「演じる」ということに関わってきた。
プロが演じる芝居と、子どもたちが学ぶときに「何かになってみる体験」として演じることは、どこかで繋がってはいるものの、違うものと感じてきた。

俳句を始めて、その違いが明確になってきたように思う。

俳句はそれぞれ自分の体験や感性に基づいて表現される、その人にとって唯一無二のものである。
けれど17文字しかないので、自分の言いたいことをすべてそこに盛り込むことはできない。
伝わりにくい。
その17文字が芸術となるには、多くの人に共感を与えると同時に、作者ならではの創造性があることが求められる。
つまり芸術かどうかを決めるのは作者ではなく、それを見る他人だということ。

 古池や蛙飛び込む水の音

言わずと知れた芭蕉の名句。
中学校の国語の授業で習ったように思う。

この句を見ると、蛙の飛び込む水の音が聞こえ、古池の景色が浮かぶ。
それはお寺の庭かも知れない。そうでなくても木々に囲まれたそれほど大きくない池だろう。
日が照っているが、池には木漏れ日。
蛙の飛び込んだあたりは、どちらかといえばやや暗い。
蛙は池のふちから出ている石から飛び込んだに違いない。そんな音だ。
その音からかえって静寂が広がる。
落ち着いた穏やかない気持ちだが、少し寂しさもあるかもしれない。

この17文字から、情景のみならず心理までもが見えるように思える。
人によって思い描く情景は違うかもしれないが、多くの人にとって17文字以上のゆたかな情景が広がるのは間違いないだろう。
17文字しかないからこそ、共通点をもちながらも人によって異なる情景が味わえるとも言える。

これが名句と言われ、芸術になる。
しかし、もし多くの人が共感しても「ありきたり」であれば芸術とは言わない。
共感を呼ぶだけでなく、その人ならではの何か(創造性といわれるもの)がないと、芸術にはならない。

毎週、新聞に俳句が掲載され、それを読むのが楽しみになっている。
四人の選者がいるが、この四人が同じ人の句を取りあげることは少ない。あったとしても二人がたまに重なる程度。四人一致は見たことがない。
二人一致も短歌より頻度が少ない。短歌は31文字なので、俳句よりは省略が少ないから、同じ情景を描きやすいのだろう。

どの俳句が良いかは、自分の体験や感性によって異なる。
俳句の選者の中に、戦争体験や平和を願う俳句をよくとりあげる人がいる。その選者が幼少期に満州から引き揚げてきたということを知ると、なるほどと思う。

自分の体験、感性、思いを人に伝わるように句にする。
そのために技巧があり、技巧を知ると他の人の句も分かるようになってくる。
しかし、本質は技巧ではなく、伝わり受け止めてもらえるものがその句にあるかどうかなのだ。

私には言いたいことがあるが、それを句にして伝える力はまだあまりない。
でも、今の私にとってはまず表現してみることが大事。
表現してみることで分かることがある。
自分について、他人について、社会について。

言いたいことをとにかく句にしてみる。
それを句会で読んでもらう。
他の人からの感想を聴く。
どうしたらもっと伝わるかということを教わる。

それが大事。
だから毎回自分なりに冒険をしている。
「これは伝わらないかも」と思うことを敢えて句にして、どうすれば伝わるかを探っている。

「演じること」も表現ということでは同じだと思う。
稚拙に関係なく、自分の体や言葉使って表現するということが尊い。
その尊さを表現するためには、他人の表現を受け止める場をお互いつくることが必要だ。

演じる尊さと芸術であるかどうかは関係ない。
素人の「演じる」がどのようなものであれ、本人自身から出ている表現なら尊い。
けれど身内以外の人に訴える何かがなければ、芸術にはならない。

芸術かどうかは他人の評価。
ゴッホだって、作品を保管し、それを評価し、他に広めてくれる人がなければ、誰にも知られず埋もれていたかもしれないのだ。生前は1枚しか売れなかった。

ここでプロのお芝居に思考が跳ぶ。
プロのお芝居は芸術と言えるのか。
多くの人が、高いお金を払って観に行きたがるお芝居だからといって、必ずしも芸術ではないようにも思う。
逆に、人の入りは少ないけれど、これは絶品と思えるお芝居もある。

これについては、また別の日に書いてみたい。

頭の中の警官ー子どもは囚われないのか

2024-08-28 08:19:54 | 芸術およびコミュニケーション
「頭の中の警官」と言ったのは、アウグスト・ボアールだったかキース・ジョンストンだったか。フォーラムシアターやインプロのWSでよく聞く。

大人は「頭の中に警官」がいて、自己規制してしまう。
それが日常になって、自己規制しているという意識すら希薄である。
そういうことに気づいて、自己規制を払っていくことで自由な表現が生まれるという。
だから子どものほうがのびのびと表現できる、と。

なら子どもに自己規制はないのか。
そんなことはない。

確かに多くの子どもは大人より自由だ。
自由なのは自分中心だからだ。
それは世界が狭いということでもある。

ドイツの2歳の子どもの絵に4300万円の値段が付いたことが話題になっていたが、
自由奔放なタッチは確かに素晴らしい。
使いたい色を使って、大きなキャンバスに、おもいっきり太い筆を叩きつけられる環境が、
どの子にもあればいいのにな、と思う。
たくさんの天才が生まれるだろう。

けれど子どもは子どもなりの自己規制がある。
年齢を追うにつれてそれは大きくなる。
2歳の時に手に負えなかった私の孫も、3歳を越え語彙が増えると、ずいぶん落ち着いてきた。
「やってはいけない」「自分のやったことで誰かが困っている」などを感じている。

一方で、世界は自分中心で回っているので、他人への配慮などは難しい。
平気で他人を傷つけることを言ったりしたりする。
ぶつかったときに、ようやく自分以外について認識し、自分の振舞いを変えることを学ぶ。
これまでは泣き喚いて自分の世界を貫こうとしていたのだが。

絵を描くと、意味不明だったものがだんだん形をもつようになるが、一方で花とか人とかステレオタイプになっていく。

子どもは子どもなりに自己規制している。
それが自由に見えるのは、子どもに見えている世界が狭いから。

自分の世界が広がることは、ある意味自由を獲得することであり、
別の意味では自己規制がより働くことにもなる。

人は自分の世界を広げながら、他人とともに暮らすために自己規制する。

私たちは(少なくとも私は)「自分が正しい」と信じ切っている人と共存しなければならないことに疲れる。
自己規制は社会で生きていく以上、必要だ。

しかし、不必要な自己規制に縛られていないか?
自分にそういう疑問を向けるのは、意味のあることだろう。

70歳を「従心(じゅうしん)」と言い、思い通りに行動しても道を踏み外さずに生きられるようになることだそうだが、70歳までにそうなるには、それまでの人生でよほどの修業が必要に違いない。

インプロはあるいはその修業の一つなのかも。
だとすれば、楽しい修行だ。

 打ち上げのジョッキ待つ間の夕焼雲 (再録)

インプロやプレイバックシアターのWS後の一杯はとりわけ美味しい!

俳句嵌ってます

2024-07-31 09:46:34 | 芸術およびコミュニケーション
これまでの人生、何か始めて続いたことがない。
高校教員15年、ダニの研究17年。
「教育と演じること」を実際にやっていたのが17年ほどか。これは関心は持ち続けているが、自分がワークショップをすることは、おそらくもうない。
お総菜の仕事は3年半。

継続中なのは福祉関係のボランティア。これまでに3年4か月。どこまで続くやら。
そして俳句が4か月。

今参加させてもらっている句会は、制約が多い。
五七五の原則はわりと厳しい。1字ぐらいは許容される感じ。
夏井先生は、上五は字余りが許されるというスタンスだが。

季重なりなどもよく指摘される。
内容よりも形式にこだわりがちのような気がしている。

けれど、何事も基本が大事。
今は、基本に忠実であることを心掛けたい。

これまで詩というものを敬遠してきた。
私には詩心がないと思う。
けれどこれまでに培ってきたインプロ精神で
表現することそのものが尊いと信じて
句をつくること自体を楽しみたい。

 打ち上げのジョッキ待つ間の夕焼雲

ビアガーデンでプロジェクトを達成した仲間との打ち上げ
ジョッキを待つ間さえ楽しい
そんな雰囲気が伝われば嬉しいのですが、

先生によると「ジョッキ待つ間の」ではせっかくのジョッキの映像が薄くなるので
「ジョッキに染まる」が良いのでは?という指摘でした。
確かにこうするとジョッキと夕焼雲がストレートに響き合いますね。

でも表現したいことが微妙に変わるような。

それに私だと「ジョッキを染める」としてしまって、単なる説明になってしまいがち。
う~ん、難しい!

俳句始めました

2024-05-23 10:11:23 | 芸術およびコミュニケーション
趣味は多いほど脳が活性化されるそうな

5月より俳句の会へ入会
作句というのは、本当に頭を使う

けり、ける、たり、たる
どれにするかで散々迷う

現代語ではなく古語でといわれるが
今までほんとど縁がなかったので
なかなか難しい

十薬は夏の季語
これを使った一句と思ったが、どうもうまくまとまらない
まとまらないときは執着せず新しい句を考える

パズルより良いのは、パズルは解いてしまえば終わりだが
作句はきりがない
いつまでも頭を使う
気もそぞろになってしまう時間が長いのは、考えものではあるけれど

着物も俳句もすばらしいと思う
けれど廃れるのは、制約が多すぎるからでは?

例えば着物
年齢、場所、季節によって限定される
好きなものを好きな時に、というわけにはいかない
観光客が貸衣装屋で借りた衣装で歩いているのを見て
「あんな着物」「あんな歩き方」と言うのはやめてほしい
もちろん、良いものを着てほしいけれど
高すぎるし
着ないより着てくれる方が良いのではないだろうか

夏井先生の俳句が良いのは
季語と十七音という俳句の柱を抑えつつ
他の俳句より自由度が高いこと
現代語も話し言葉も良ければ受け入れる

制約が多いのは自由度が低くて馴染めないと思うが
一方で兼題があるほうが
面白い俳句ができるようにも思う

日本人は制約のある中で工夫するのが好きな民族なのか?
なにやら人間観とも関わりそう

続くかどうかはまだ分からないが
しばらく作句を楽しみたい

こんぴら歌舞伎ーー贅沢香川旅行

2024-04-24 08:47:40 | 芸術およびコミュニケーション


高校の同級生3人で2泊3日の香川旅行
こんぴら歌舞伎が目的だった

こんぴら歌舞伎は二部仕立てで、プログラムは以下の通り

第一部 11時から
一、伊賀越道中双六 沼津
 沼津棒鼻の場
 平作住居の場
 千本松原の場
二、羽衣

第二部 15時から
一、松竹梅湯島掛額
 吉祥院お土砂の場
 四ツ木戸火の見櫓の場 浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」
二、教草吉原雀

私たちは電車の都合で、先に第二部を観て、第一部は翌日だった

第二部
お土砂の場は滑稽で笑いが溢れ、浄瑠璃の人形ぶりは美しく見事
市川染五郎の若武者ぶりが美しい
教草吉原雀の舞いは、盛大な桜吹雪が美しかった

第一部
伊賀越え道中は回り舞台があり、親子共演あり
一場で笑わせつつ、最後は泣かせる場面となる
羽衣の舞いでは、宙づりがあった
江戸時代そのままの小屋と合って、回り舞台も宙づりも人力で動かしているのがすごい!

小屋が小さいので観客と役者の距離が近く、役者たちも肩の力が抜けているように思えた
役者が観客の近くを歩いたりして、おおいに湧いた
芝居は、やはりこのような小さな規模が楽しい


ついでに旅行の日程も書いておこう
一日目
 高松商店街 香川県庁東館 栗林公園 琴電で琴平へ 琴参閣泊
実は、歌舞伎のチケットを手配してくれたのは、別の同級生
彼が香川駅まで迎えに来てくれて、商店街でうどんの昼食
県庁まで同行してくれた

県庁が観光スポットで、美術や建築、お庭が楽しめるとは!

栗林公園ではボランティアガイドを予約
これがとてもよかった
深く知ることができ、また行きたいと思った

二日目
 丸亀城 こんぴら歌舞伎第二部 紅梅亭泊
実は二日目はノープランだった
チケットの彼は猪熊玄一郎現代美術館を勧めてくれた
けれど友達は現代美術に興味がないという
中津万象園という案もあったが、
丸亀城になった

ふたりとも初めてではない
前日に味をしめて、ここでもボランティアガイドをお願いした
そのガイドさんが私たちに「奥さん」を連発するので
「私たちは奥さんじゃないの。その呼び方気になる」というと
「なんて呼べば」と言われてハタと困った
しばらく「奥さん」は影を潜めたけれど、そのうち戻っていた

ガイドさんが「これは自分の考えですが」と説を披露してくれた
その後、私たちの間では「これは自分の考えですが」と断りを入れるのが流行った

丸亀城の城主が京極家だったことに親近感を覚えた
『塞王の盾』を読んでいたから
ガイドさんが京極家の城の変遷やお市の方の三姉妹の話まで
豊富な知識を披露してくれた

観光スポットのボランティアガイドさんは最高!

その後、その日から参加の友だちと琴平で落ち合って
芝居小屋へ

三日目
 善通寺 こんぴら歌舞伎第一部 帰宅
第一部の前に善通寺へ行ったために、小屋に着いたのはぎりぎりの時刻だった
スマホを切るゆとりがなく、幕が予定より少し早く開いて、
私のアラームが11時に鳴るという失態をおかしてしまった
本当に申し訳ない

おまけに「伊賀越道中」が終わったときに、
友だちがスマホを善通寺駅のトイレに忘れたことを思い出し、
舞いどころではなく探しに行った
私たちは残って舞いを観ていたのだが気がきでなく、
一緒に探しに行けば良かった、と後悔した
幸いスマホはJR職員の連携で無事琴平駅へ戻ってきた

あるとき、「贅沢と思うのはどんなこと?」と訊かれたことがある
「上げ膳、据え膳、朝風呂」と即答した
加えて2回にわたる歌舞伎
ガイド付きの観光めぐり
気のおけない友達との何気ないおしゃべり
雨の天気予報もはずれ
最高の贅沢!

「また行こうね!」