何回か前の日記に書いたイスラエルの偽旗作戦について、その可能性について、及川さんが触れています
私には、現在ただ今のイスラエルのパレスチナ入植政策がパレスチナ側をとても怒らせていて挑発的に見えているので
この可能性が最も高いような気がしています
前回の日記まで、何度かユダヤ教とイスラム教について、深掘りをしてみましたが、あまり興味を持たれなかったようです
では、これまでの日記で私が何を言いたかったかというと
率直に言えば、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教は、元々同じ神を信じているということ
同じ神を信じる者でありながら、先にあるものが後からくるものを認めない。。。その理由は、人間の理解力の狭さからくるものだということ
そしてもう一つ、聖書の中で語っている神の、その言葉の中に、「異物が紛れ込んでいる」ということ
そういう理由で、同じく神を信じている者同士がいがみ合っているということ
ということです
それでは今日の本題に入ります
今回、旧約聖書を詳しく読んでいて、「実に面白いな」と、率直に感じました
何が面白いかというと、創世記や聖書には、「神の語られた言葉」というのが出てくるわけですが
その神の言葉を「誰が聞いているのか?、誰が語っているのか?」という事にフォーカスすると、色々と推測が成り立ってくるわけです
霊的なことにある程度理解ができてくると、神の言葉がどのような形で降ろされるのか、推測ができるようになります
例えば、明確な言葉として聞こえる場合もあれば、言葉はハッキリ聞こえなくても、強い思念がまるで塊のように落ちてくる感覚だったり
神降ろしをする人間の口を通して語られる場合もあれば、自動書記のような形で言葉が降りてくる場合もあります
私のつたない経験からですが、少しお話しすると、実はこうした霊的な啓示のようなものは、その本人に強い執着やこだわりがあると
その本人の執着やこだわりに引っ張られるような形の啓示が降りてくる場合が多くなってしまうのです
言い換えますと、「本人が望む方向の言葉が聞こえてきやすくなる」、ということです
例えば、前回の日記に書いたアブラハムの正妻サラは、最初は子供ができなかったので、アブラハムに妾を持つことを勧めたりしていましたが
いざ、自分の子供ができてしまうと、その自分自身の子がかわいくなってしまったようで
アブラハムに対し、長男である妾の子(イシュマエル)を廃嫡し、自分の子(イサク)を跡取りにするよう強く求めた、という記述があります
そういう「人間的な執着心」や「こだわり」が強くあった場合は、聞こえてくる霊的な声に、本来の神の声ではないものが紛れ込んでくるわけです
これが、霊的な啓示に混入してくる「異物」です
このことは、霊的な経験を積んでくると、そういうことは常に起こりえることなのだと、理解できるようになってくるように思います
そうしたことから、神の言葉を降ろす預言者には、「審神者(さにわ)」と呼ばれる
霊的な啓示が神から来たものであるかどうかを判断するための
まあいわば、判断役や審査役の人が補佐役として、つくことが多いわけです
神降ろしは多くの人々の幸不幸に関係するものであるので、非常に厳格な儀式として行う必要があったわけです
例えば、前述のアブラハムの正妻サラの場合
本来、アブラハムの跡取りとなるべき者は、霊的な素質が高く、また民衆の幸福を考えることのできる徳の高い人物が選ばれるべきですが
ところが、サラの「自分の子供を跡取りにしたい」という人間心が強く入ってきた場合、途端に神の声が聞こえなくなり、惑わしを受けるわけです
そのように惑わしを受けているかどうかをチェックし、判断する役目の人が審神者なのです
昔から、神の言葉を降ろすのは「巫女(みこ)」と呼ばれる、穢れが少ないとされる処女が選ばれるという習慣が多くありますが
シャーマンにも、長く生きていると心に穢れが生じてきて、我欲が過ぎてくると、神の言葉がストレートに降りなくなるわけです
もちろん、幼き子供にも少女にも心の穢れはありますし、神降ろしで最も大事なことは、「霊的な素養」なので
瞑想体質でない人。。。つまり、心がザワザワして静まることのないような方は、神降ろしや預言者には向かない方です
これらはいったいどういう事なのかというと、つまりですね。。。。人間の心は周波数とでも言いますか
常にその人その人特有の波長の電波(念波)のようなものを発信していて
その本人が発信している周波数に応じた電波(念波)を、霊的世界からも受け取りながら生活している、という事なのです
これを「波長同通の法則」と言います
その霊的なインスピレーションを。。。神々の世界からのインスピレーション念波を受け取る能力のある人を「預言者」というわけです
ここで一つ面白いことを申し上げましょう
イエスや仏陀のような人が語ったとされる言葉は、私が読んでいてもとても格調高く、心に光が入ってくるような言葉が多いわけですが
逆に、とても人間臭く、嫉妬や怒りなどの感情で、読むと心がざわざわするような神話や預言書などがあったりするわけです
例えば、日本の古事記などを読んでいると、とても人間臭く下世話なものが沢山あります
イザナギ、イザナミの神話などは、イザナギが死んだイザナミに会いたくなって黄泉の国へ行くと、とても醜いウジだらけの死体に変貌していて
それを見られて怒ったイザナミが追いかけてきたり、亡者たちが追いかけてきて、イザナギが桃を投げつけて追い払ったりしているわけです
こういうのを見ていると、神話とはいえ、神様の言動というより地獄の亡者の逸話であり、「日本昔話」にでてくるヤマンバの物語にも見えます
日本神道には、禊祓い(みそぎはらい)などの儀式もあり、心を清める、という教えがなくはないのですが
やや形式に堕していて、大麻(おおぬさ)もしくは祓串(はらえぐし)と呼ばれる神事の道具で薙げばお祓いができる、というような
儀式や形を重視するところがあります
しかしながら、本当のところは、その人の心を清め清浄にすることができなければ、本当の意味のお祓いにはならないわけです
仏教には八正道と呼ばれる、心を清めるための反省の教えがありますし、キリスト教には悔い改めの教えがあります
しかし日本神道にはそうした反省や悔い改めの教えが決定的に不足しているわけです
日本神道の話になってしまいましたが、実はこれはどのような神話や聖書であっても、こうした法則の下にあるわけで
ユダヤ教にも、その預言を受けた人の性格や心の状態によって、非常にムラがあり「ノイズ」が沢山入っているように思えるわけです
私が見ていて、特にユダヤ教徒には「選民思想」的傾向が強く見受けられます
同じ神を信仰している兄弟宗教であるという事を認めず、他を排斥する傾向が強い
これは彼らの心の糧になっている旧約聖書の中に、選民思想的な傾向を持つ預言者が多々いることを意味するのだろうと思います
そういう人が預言者となると、選民思想に近い教えを説き、その教えが薫習されることで、民族の傾向性として定着する
まあ、今回でユダヤ教に関する考察は終わりにします
何らかの参考になれば幸いです。。。ではまた
私には、現在ただ今のイスラエルのパレスチナ入植政策がパレスチナ側をとても怒らせていて挑発的に見えているので
この可能性が最も高いような気がしています
前回の日記まで、何度かユダヤ教とイスラム教について、深掘りをしてみましたが、あまり興味を持たれなかったようです
では、これまでの日記で私が何を言いたかったかというと
率直に言えば、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教は、元々同じ神を信じているということ
同じ神を信じる者でありながら、先にあるものが後からくるものを認めない。。。その理由は、人間の理解力の狭さからくるものだということ
そしてもう一つ、聖書の中で語っている神の、その言葉の中に、「異物が紛れ込んでいる」ということ
そういう理由で、同じく神を信じている者同士がいがみ合っているということ
ということです
それでは今日の本題に入ります
今回、旧約聖書を詳しく読んでいて、「実に面白いな」と、率直に感じました
何が面白いかというと、創世記や聖書には、「神の語られた言葉」というのが出てくるわけですが
その神の言葉を「誰が聞いているのか?、誰が語っているのか?」という事にフォーカスすると、色々と推測が成り立ってくるわけです
霊的なことにある程度理解ができてくると、神の言葉がどのような形で降ろされるのか、推測ができるようになります
例えば、明確な言葉として聞こえる場合もあれば、言葉はハッキリ聞こえなくても、強い思念がまるで塊のように落ちてくる感覚だったり
神降ろしをする人間の口を通して語られる場合もあれば、自動書記のような形で言葉が降りてくる場合もあります
私のつたない経験からですが、少しお話しすると、実はこうした霊的な啓示のようなものは、その本人に強い執着やこだわりがあると
その本人の執着やこだわりに引っ張られるような形の啓示が降りてくる場合が多くなってしまうのです
言い換えますと、「本人が望む方向の言葉が聞こえてきやすくなる」、ということです
例えば、前回の日記に書いたアブラハムの正妻サラは、最初は子供ができなかったので、アブラハムに妾を持つことを勧めたりしていましたが
いざ、自分の子供ができてしまうと、その自分自身の子がかわいくなってしまったようで
アブラハムに対し、長男である妾の子(イシュマエル)を廃嫡し、自分の子(イサク)を跡取りにするよう強く求めた、という記述があります
そういう「人間的な執着心」や「こだわり」が強くあった場合は、聞こえてくる霊的な声に、本来の神の声ではないものが紛れ込んでくるわけです
これが、霊的な啓示に混入してくる「異物」です
このことは、霊的な経験を積んでくると、そういうことは常に起こりえることなのだと、理解できるようになってくるように思います
そうしたことから、神の言葉を降ろす預言者には、「審神者(さにわ)」と呼ばれる
霊的な啓示が神から来たものであるかどうかを判断するための
まあいわば、判断役や審査役の人が補佐役として、つくことが多いわけです
神降ろしは多くの人々の幸不幸に関係するものであるので、非常に厳格な儀式として行う必要があったわけです
例えば、前述のアブラハムの正妻サラの場合
本来、アブラハムの跡取りとなるべき者は、霊的な素質が高く、また民衆の幸福を考えることのできる徳の高い人物が選ばれるべきですが
ところが、サラの「自分の子供を跡取りにしたい」という人間心が強く入ってきた場合、途端に神の声が聞こえなくなり、惑わしを受けるわけです
そのように惑わしを受けているかどうかをチェックし、判断する役目の人が審神者なのです
昔から、神の言葉を降ろすのは「巫女(みこ)」と呼ばれる、穢れが少ないとされる処女が選ばれるという習慣が多くありますが
シャーマンにも、長く生きていると心に穢れが生じてきて、我欲が過ぎてくると、神の言葉がストレートに降りなくなるわけです
もちろん、幼き子供にも少女にも心の穢れはありますし、神降ろしで最も大事なことは、「霊的な素養」なので
瞑想体質でない人。。。つまり、心がザワザワして静まることのないような方は、神降ろしや預言者には向かない方です
これらはいったいどういう事なのかというと、つまりですね。。。。人間の心は周波数とでも言いますか
常にその人その人特有の波長の電波(念波)のようなものを発信していて
その本人が発信している周波数に応じた電波(念波)を、霊的世界からも受け取りながら生活している、という事なのです
これを「波長同通の法則」と言います
その霊的なインスピレーションを。。。神々の世界からのインスピレーション念波を受け取る能力のある人を「預言者」というわけです
ここで一つ面白いことを申し上げましょう
イエスや仏陀のような人が語ったとされる言葉は、私が読んでいてもとても格調高く、心に光が入ってくるような言葉が多いわけですが
逆に、とても人間臭く、嫉妬や怒りなどの感情で、読むと心がざわざわするような神話や預言書などがあったりするわけです
例えば、日本の古事記などを読んでいると、とても人間臭く下世話なものが沢山あります
イザナギ、イザナミの神話などは、イザナギが死んだイザナミに会いたくなって黄泉の国へ行くと、とても醜いウジだらけの死体に変貌していて
それを見られて怒ったイザナミが追いかけてきたり、亡者たちが追いかけてきて、イザナギが桃を投げつけて追い払ったりしているわけです
こういうのを見ていると、神話とはいえ、神様の言動というより地獄の亡者の逸話であり、「日本昔話」にでてくるヤマンバの物語にも見えます
日本神道には、禊祓い(みそぎはらい)などの儀式もあり、心を清める、という教えがなくはないのですが
やや形式に堕していて、大麻(おおぬさ)もしくは祓串(はらえぐし)と呼ばれる神事の道具で薙げばお祓いができる、というような
儀式や形を重視するところがあります
しかしながら、本当のところは、その人の心を清め清浄にすることができなければ、本当の意味のお祓いにはならないわけです
仏教には八正道と呼ばれる、心を清めるための反省の教えがありますし、キリスト教には悔い改めの教えがあります
しかし日本神道にはそうした反省や悔い改めの教えが決定的に不足しているわけです
日本神道の話になってしまいましたが、実はこれはどのような神話や聖書であっても、こうした法則の下にあるわけで
ユダヤ教にも、その預言を受けた人の性格や心の状態によって、非常にムラがあり「ノイズ」が沢山入っているように思えるわけです
私が見ていて、特にユダヤ教徒には「選民思想」的傾向が強く見受けられます
同じ神を信仰している兄弟宗教であるという事を認めず、他を排斥する傾向が強い
これは彼らの心の糧になっている旧約聖書の中に、選民思想的な傾向を持つ預言者が多々いることを意味するのだろうと思います
そういう人が預言者となると、選民思想に近い教えを説き、その教えが薫習されることで、民族の傾向性として定着する
まあ、今回でユダヤ教に関する考察は終わりにします
何らかの参考になれば幸いです。。。ではまた
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