「自分の生活の基準となる思想」とは多神教的日本人にとってなんだったのか?
神様でも仏様でもイエス様でもなく孔子の教えだったのです。武士道精神もありますが武家階級も含めて維新前から日本人一般の倫理基準は儒教に置かれていたのです。特に論語です。3月1日付けのブログに書いた「大人の見識」168ページにこのような趣旨の記事がありました。
論語は世界最古の思想家といわれる孔子(紀元前552~前479)とその弟子たちの言行を記録したものですが、今、多くの言語に翻訳されて「聖書」とともに世界的に読み継がれています。
日本人一般の倫理基準にまでなったといわれる「論語」にもう一度接してみたいとの思いがあったところ、先日本屋でひょっこり、こんな本に出くわし、隣にあった「禅の言葉」と一緒に買ってきちゃいました。
「温故知新」とか「巧言令色、鮮(すく)なし仁」などは誰でも知っている言葉でしょうが、86個の珠玉の言葉に接することができ、感銘を受けながら毎日2~3個づつ読んでいます。
「徳は孤ならず、必ず鄰(となり)あり」
(徳のある者は決して孤立することはなく、必ず仲間が現れるものだ)
「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者にしかず」
(それを知っているというだけでは、それが好きな人間にかなわない。好きといういうだけでは、それを心から楽しんでいる人間にかなわない。」
「人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」
(人が自分の価値を知ってくれないことを気にかけるよりも、自分が人の価値を知らないことを気にかけなさい)
「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚ること勿れ」「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」
(人間に完璧なものはいない。誰でも過ちをおかすものだ。過ったらくよくよせずに改めなさい。改めようとしないことこそ過りなのだ)
「君子は諸れを己に求む、小人は諸れを人に求む」
(人格者というのは、何事も責任を自分に求める。ちっぽけな人間は、すぐ責任を他人に押し付けるものだ。)
子貢問うて曰く「一言にして以て終身これを行うべき者はありや。」
子曰く「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」
(子貢が先生に訪ねた。「一言で表せる生涯行うべきものがありますか?先生が言われた「それは「恕」(思いやり)だな。自分がして欲しくないことを、他人にもしないことだ)
自分を顧みるとき、ちっとも出来ていないと恥じるのみです。せめて過ちを改めるに憚るまいと思っています。
禅の言葉を一つ
「放下著」(ほうげじゃく)
(すべてを捨てよ。定年退職しても、前歴や肩書を背負ったままの人がたくさんいます。地位も財産も、ひと時あなたに与えられた仮の物にすぎません。せっかく荷を下ろす時が来たのですから、きれいに捨て去って第二の人生を楽しみましょう)
北通りのつつじも満開、わが世の春を謳歌して います。(白木蓮が咲いていたところです)