◆犬の散歩◆

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プロレスラー、橋本真也の死

2005年07月15日 03時32分44秒 | ノンジャンル
いまさらではあるが、橋本が死んだことについて記すことにする。

第一報を聞いたのは、半分寝ながらニュースを聞いていたときだった。最初は夢かと思っていたが、数分後飛び起きてネットを確認。事実だと知った。設立した団体を追われ、怪我のために手術、休養していたのは知っていたが、まさか死ぬとは、というのがそのときの印象だった。脳の病気というのは、まさにサイレントキラーである。体の丈夫さとはまた別のことなのだ。40前後の人は、とくに注意しなければならない。

冬木に続いて橋本までもか。冬木の場合は、ガンで余命幾ばくもないことがわかっていたから、壮絶な死というか、本人も周囲も覚悟が出来ていたと思う。その冬木と最後までともに活動していた橋本の死、なにやら運命じみたものを感じざるを得ない。あまりにばかげた考えではあるが、冬木が呼んだのだ、という風に感じてしまいがちである。

橋本の選手としての人生、これはいうまでもなくすばらしいものであった。自分はそれほどのファンというわけではなかったが、客観的に見て名レスラーなのはいうまでもない。彼のファイトスタイルは、攻撃も受けも真っ向から堂々としたものであった。まさに破壊王という名前にふさわしいものだった。あまりにまっすぐなので、思いっきり攻め込んでいたのに馳などにあっさり返し技で負けてしまったりもしていた。

私は彼が新日本で頭角をあらわし始めた当時、武藤のファンだった。アメリカ遠征から帰国して成長した武藤。テカテカのタイツをはいて、こぎみよい動き、空中でしっかり相手を見て、よけられたら自爆せずに立ってしまうムーンサルトプレスなど、まさにスター選手そのものだった。幼少のころだった佐山タイガーより印象深かった。今の武藤は足を悪くしているので、当時の動きは出来ないのが残念である。
同時に、橋本、蝶野もまた、新日本プロレスの若手の成長株であった。橋本はその後、IWGPタイトルを保持しつづけ、まさに新日本最強の名をほしいままにしていた。私はこのころ、大のプロレスファンだった。全日本はほとんど見なかった。新日本の活気というか熱さが大好きだったのだ。
橋本は、私がプロレスを大好きだったころ、一番プロレスが面白かった時代の名選手で、他団体のレスラーとは一線を画した存在だったのだ。彼が死んでからそれを再認識した。猪木、藤波、長州、三銃士、馳、健介・・・このあたりは自分にとっては重要な位置を占める選手だといえる。

その後、橋本は小川との因縁があり、引退を余儀なくされる。この辺の話はよくわからないのだが、周囲というか変なストーリーに組み込まれてしまったという感じがしてならない。別に小川なんかどうでもいいし、負けたからって引退するような義理はないと思うのだが。まあ、故障も多かったし、そういう扱いにされても仕方ないのかもしれない。
武藤も新日本を退団し、なぜか全日本の社長をやっている。蝶野は新日本に残っている。三銃士がバラバラになっているこの情勢、不思議なものだった。

橋本はその後ファンから復帰を望まれてゼロワンを設立。この時期(2000年前後)、私はプロレスはほとんど見ていなかった。それより少し前は全日本を見ていた。私が見ていたのは、馬場、鶴田が健在で、三沢、川田、小橋、田上、ハンセン、ウイリアムス、ゴディなどが激しい抗争を繰り広げていた頃だった。福沢のプロレスニュースは賛否両論だったが、私はとても好きだった。その後全日本は中継が深夜で30分となり、若林アナや福沢アナがいなくなってからは見なくなってしまった。ノアになってからはどういう情勢かすらもわからない。新日本はそれより前に見なくなっていた。多分、三銃士より下の世代に魅力を感じなかったからだと思う。それからはほとんどプロレスは見なくなっていた。格闘技のほうはテレビでやっていたら見るという感じだ。

橋本真也というレスラーは、いうまでもなくビッグネームであり、人気実力ともにトップレスラーであったが、一般的にはどうなんだろうか。新日本の一線から退いて久しいし、最近はとくに目立ったこともしていないから、そんなに知名度はないのかと思っていた。ところがそうでもなかった。訃報は一般ニュースでも繰り返し取り上げられていたし、新聞では第一報以外の記事にもなっていた。これはとてもすごいことだ。
プロレスというのはその性質上、一般スポーツとして扱われない。普通のスポーツニュースでは報じられない、いわば日陰の存在であった。ところが彼の訃報は一般ニュース扱い。名レスラーの早すぎる死として報じられている。橋本はプロレスという枠にありながら、それほどの知名度のあるビッグなレスラーであったことが再認識された。
その人柄も、報じられているところでは、子供っぽくていたずら好きであり、愛すべき人柄であったという。そのまっすぐな性格は、ファイトスタイルにもにじみ出ていたが、実際もそういう人だったようだ。スポーツ紙では弔問に訪れた関係者の悲痛な表情を追っている。彼にかかわるすべての人が本気で彼の死を悲しむ。そういう死に方が出来る人は幸せである。とくに橋本と袂を分かつたまま永遠の別れになってしまった大谷の無念さはひとしおだろう。
葬儀や追悼興行に行くかどうかはまだ決めていないが、彼の全盛時代の試合は、この際だから探して見てみたいと思う。とりあえず着メロで爆勝宣言を落としてみようか。大一番用のイントロのやつあるかなぁ。葬儀や追悼などにいかなくても、各自が心の中で敬意と哀悼の意を念じればそれでよいと思う。

ところで、ご冥福をお祈りします、という言葉は事務的で冷たい感じがするね。