風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

さぽーたー

2014年06月24日 | 徒然に日々のことを
東京芦孝会に所属し、教室を運営しながら、芦孝会の幹事の一員である私は、何かと忙しい。
中央会当日は、練習が始まる前に1時間、終わってからも一時間以上会議の連続である。

芦孝会の運営に、合議制を用い、100%会員の思いを汲み上げたいと考えている芦孝先生のもとに集まり物事を判断し、決めていかねばならない幹事団は、苦労ばかりである。

「鶴の一声」方式で行けば、幹事たちはどんなにか楽なことだろう。
それを承知で、長年幹事を務めてきた人たちは、やはり芦孝先生にそれぞれがそれぞれの思いで魅力を感じているからだと思う。

芦孝会では、会費はあくまで、運営のための必要経費であり、芦孝先生自身も会費を払っているのだ。
このことを知っているのは、幹事だけだろうねぇ。

だから、そのすべて公平という考えからすると、先生のもとに集う人たちは、弟子ではなく、あくまでも「芦孝会会員」という表現をするのだ。


芦孝会のトップの芦孝先生自ら、そうであるのだから、それに続く指導者は、同じ立場にある。

さらに、会の運営はは、中央会参加の会員の支払うたった1、000円でおこなっている。そのなかでは、幹事としての必要経費をどこまで、保障できるやら、できはしないのである。


幹事という仕事は、苦労して成功するのは当たり前、この上もなく会員のことを思って意見を出したとしてもそれがただ伝達方法が違うというだけで、叩かれる。そんな役割なのだ、まさに損な役割だ。

それでも、「やーめた」と言わない人たちが幹事団で、その端くれにいる私も、「やーめた」といえないのである。

この緻密な運営は、私にはまねのできないことで、それでも長く所属している間に、学ぶことが多い。
いつもそのご苦労に感動している。

幹事でありながら、他人事のように「感動している」なんて言う私は、幹事としていかがなものだろう。
それは、私の頭の悪さと理論的でないところ、そして、感性の違いにあるとは思うのだ。
ほとんどが男性の幹事団の中にいて、ちっともわからないことがおきる。いつも頭に???を冠にしている私をそれでも、メンバーとして認めていただいている。
ありがたいのか、迷惑なのか。



まだ、教室を持ち詩吟をおこがましくも教えている立場にあると、「おかげさま」「ありがとう」の言葉を頂く機会はあるのです。
それが、何よりものご褒美なのです。

しかし、幹事は、なかなか、おかげさまでと言ってもらうチャンスはない。
その苦労を、他に表明することもしないまじめな人ばかりだから、余計伝わらない。
こんな時、上手に愚痴をこぼすことのできる私は、必要なだけの理解と慰めをもらうことができている。


そうだ、私は、こんなことを書くつもりはなかったのだ。
忙しいのだの次に、書きたかったことは、


中央会の後、せっかく見学に来てくださった方、しかも、夢青葉にほど近い住まいの方なのに、会の後に続く幹事会のため、お誘いしてお茶、あるいはお酒に行くことができなかった。

「一緒に帰れなくてごめんなさい」とだけしか言えなくて、残念な思いをしていたのです。
そうしたら、さすがに学生吟の経験のある先生が、もうお一方の先生を伴って、歓迎のお酒に誘い、お話を伺って歓迎の意を表してくれたことを、翌日メールでお知らせを頂きました。

部活経験のない人であれば、予定外にしかも夕刻に誘われるのは、迷惑でしょうが、部活経験のある者は女性であっても、そのまま、何もなしに帰路に向かうのは、おそらく寂しく感じることでしょう。

忙しい幹事に代わって、歓迎をしてくださってありがとうと言いたいなぁ。

でも、その先生からすると、当たり前のことで、ありがとうなんていわれる筋合いのものではないとおっしゃることでしょう。

幹事会の結束は、非常に固く、それは芦孝会運営に当たっては、ゆるぎないものではあるけれど、幹事会に所属していない人たちとの、温度差はなるべく小さいものにしていかねば、独りよがりになってしまうかもしれない。

そのあたり、一般会員との間を埋めるのは、幹事になっていない指導者ができる最大のことだと思います。
今日は、その、良い例を見せてもらった感ありでした。

このようなねばならぬではなく自然に行われることの積み重ねが、よりよい芦孝会の未来を築くのだろうねぇ。

ブラジルで行われるサッカーシリーズは、異常なほどの盛り上がりだねぇ、ブラジルにまで、応援に行くサメ[ターの情熱はすごい。

お互いが、お互いのサメ[ターになって、立場の違いを理解しながら、詩吟を愛する一人の人として、芦孝会会員として、ほんの少し、温度をあげられたらなぁ。



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