12時出るはずが、出そびれた。
この時間は、昼食の準備をするかしないかの迷いがあると、出遅れる時間だ。
30分前につくように時間セットだわ、と思いながら、詩吟に関してはノーチェックで送り出してくれる夫に感謝だね。
さて、江戸川は、十分に声を出せるので、いつもすがすがしくスコーンと抜けた感覚で、心地良いのです。
それが道場のゆえんであるが、人数が増えると、肝心の吟の練習が各自1回だけとなってしまう。
効率よく、吟力アップの場にするには、ある程度吟がこなれてから場に臨むのが良いのだけれど。
なかなか、このコンセプトが呑み込めていないようで、通常の教室では、当たり前の風景が行われているのを、不思議と思っていない方がいることを残念に思う。
教室の特徴をよく理解して、上手に使う方法は、まず、謙虚さかなぁ。
そのうえで、得たいものをむしり取って行く、そのために時間が割かれていくのは、ちっとも惜しいとは思わない。
それらを、他人事と見ないで、自分に引き換えて、よく聴くなら、最大の効果をあげ得ると思う。
同じに席を並べていても、効果の上がり方はそれぞれ。
そのためには、なんだろう?なにをしたらよいのだろう?
この教室は、もっと、人気が出るような気がする。このまま、参加人数が増えると、特徴が生きてこないなぁ。もったいないなぁ。
今日は、本数を上げることにした人がいた。十分に声が出るのに、出し切れてないのが惜しい。
体は、低い本数の時の声の出し方を覚えていて、意識では、音を上げたつもりでも、体は反応してない。
負荷をかけて重くなった車に今までと同じアクセルのかけ方では、スピードは上がらないのと同じで、頭が理解しても、体の反応が前のままでは、丘は登れない。
車の運転だと、後ろから追い上げられて、目で確かめながら、スピードを感じられるが、声は、事故につながらないから、体は、怠け者で反応が遅いから、わかろうとしないのだ。
頭だけが、高い音を出しているつもりなのだ。
体のメンテナンスをして、素早い反応の楽器に仕上げなくてはならない。
ここまで上達したら、一言で直せるような問題は、もうないのだ。
いま以上に上達したかったら、少し時間のかかるテーマに取り組む覚悟がいるのだよ。
その反面、私の言ったことに、敏感に反応して、練習後に質問が出た人もいる。
せっかくなのに、言葉で説明できることなら、いくらでも立ち話でできるけれど、声を出して説明したいことは、練習場を出たら出来ないのです。
せっかく出た質問も、時がたてば、その時の生々しい実感は失われ、言葉遊びになってしまう。
その温度の失われたテーマに、もう一度取組み、やったねと言えるまでに改良するには、どういう方法があるだろう。
今日の私は、ゲストである。
私が、この教室について考える立場にはないけれど、将来、何が起こるかわからないから、どれもこれも、目新しい勉強である。
そして、今日の私は、「本能寺」の合吟の練習をさせていただきに来た。
かなっくの時の相棒さんも出席。もう一人のメンバーは、来週の江戸川に来るそうだ。
二人で、合吟を一吟のみ。そして、何のチェックも入らない。不満。
これが、つらいのである。なんでも,言ってよ。と、相棒と私は思う。
自分の吟は、わからないのである。
さて、さて。来週は、もう一人のメンバーが来て、また半端な練習になるなぁ。
一人一人が、十分に練習をして、顔を合わせるときは、つなぎのタイミングと、三人で合吟する箇所の微調整をすることになる。
来月の、江戸川は、三人揃いたいものだ。
満足のいく練習後の反省会(?)は、楽しい。
十分な発声は、下手なアルコールよりも、体に回る。
練習を終えて、ご飯を食べる場所に移動するときから、酩酊とまではいかなくても、心は全開に解放されている。誰よりも先に、酔っている。
この、瞬間も悪くない。
そして、他の人たちは、お店に入り、アルコールを飲み干して、やっと、私と同じ開放度に追いついてくるのである。
この時間は、昼食の準備をするかしないかの迷いがあると、出遅れる時間だ。
30分前につくように時間セットだわ、と思いながら、詩吟に関してはノーチェックで送り出してくれる夫に感謝だね。
さて、江戸川は、十分に声を出せるので、いつもすがすがしくスコーンと抜けた感覚で、心地良いのです。
それが道場のゆえんであるが、人数が増えると、肝心の吟の練習が各自1回だけとなってしまう。
効率よく、吟力アップの場にするには、ある程度吟がこなれてから場に臨むのが良いのだけれど。
なかなか、このコンセプトが呑み込めていないようで、通常の教室では、当たり前の風景が行われているのを、不思議と思っていない方がいることを残念に思う。
教室の特徴をよく理解して、上手に使う方法は、まず、謙虚さかなぁ。
そのうえで、得たいものをむしり取って行く、そのために時間が割かれていくのは、ちっとも惜しいとは思わない。
それらを、他人事と見ないで、自分に引き換えて、よく聴くなら、最大の効果をあげ得ると思う。
同じに席を並べていても、効果の上がり方はそれぞれ。
そのためには、なんだろう?なにをしたらよいのだろう?
この教室は、もっと、人気が出るような気がする。このまま、参加人数が増えると、特徴が生きてこないなぁ。もったいないなぁ。
今日は、本数を上げることにした人がいた。十分に声が出るのに、出し切れてないのが惜しい。
体は、低い本数の時の声の出し方を覚えていて、意識では、音を上げたつもりでも、体は反応してない。
負荷をかけて重くなった車に今までと同じアクセルのかけ方では、スピードは上がらないのと同じで、頭が理解しても、体の反応が前のままでは、丘は登れない。
車の運転だと、後ろから追い上げられて、目で確かめながら、スピードを感じられるが、声は、事故につながらないから、体は、怠け者で反応が遅いから、わかろうとしないのだ。
頭だけが、高い音を出しているつもりなのだ。
体のメンテナンスをして、素早い反応の楽器に仕上げなくてはならない。
ここまで上達したら、一言で直せるような問題は、もうないのだ。
いま以上に上達したかったら、少し時間のかかるテーマに取り組む覚悟がいるのだよ。
その反面、私の言ったことに、敏感に反応して、練習後に質問が出た人もいる。
せっかくなのに、言葉で説明できることなら、いくらでも立ち話でできるけれど、声を出して説明したいことは、練習場を出たら出来ないのです。
せっかく出た質問も、時がたてば、その時の生々しい実感は失われ、言葉遊びになってしまう。
その温度の失われたテーマに、もう一度取組み、やったねと言えるまでに改良するには、どういう方法があるだろう。
今日の私は、ゲストである。
私が、この教室について考える立場にはないけれど、将来、何が起こるかわからないから、どれもこれも、目新しい勉強である。
そして、今日の私は、「本能寺」の合吟の練習をさせていただきに来た。
かなっくの時の相棒さんも出席。もう一人のメンバーは、来週の江戸川に来るそうだ。
二人で、合吟を一吟のみ。そして、何のチェックも入らない。不満。
これが、つらいのである。なんでも,言ってよ。と、相棒と私は思う。
自分の吟は、わからないのである。
さて、さて。来週は、もう一人のメンバーが来て、また半端な練習になるなぁ。
一人一人が、十分に練習をして、顔を合わせるときは、つなぎのタイミングと、三人で合吟する箇所の微調整をすることになる。
来月の、江戸川は、三人揃いたいものだ。
満足のいく練習後の反省会(?)は、楽しい。
十分な発声は、下手なアルコールよりも、体に回る。
練習を終えて、ご飯を食べる場所に移動するときから、酩酊とまではいかなくても、心は全開に解放されている。誰よりも先に、酔っている。
この、瞬間も悪くない。
そして、他の人たちは、お店に入り、アルコールを飲み干して、やっと、私と同じ開放度に追いついてくるのである。