風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

センターまつり

2010年03月14日 | 徒然に日々のことを
今年度最後の詩舞のお手伝いで、横浜市神奈川地区センターまつりに参加しました。

「浜吟四季を詠う」は、12時30分に始まる予定でした。
着替えに11時30分から更衣室を提供していただきました。
ありがたいことに、姿見と寒い時のためと、着物が広げられるようにホットカーペットがおいてありました。

30分の着替えの時間を見ていれば、うまくいかなくても着直しが出来ます。当日は、スムーズに着付けが出来て、20分で完了でした。
回を重ねるごとに、着替えも手早く楽になり、紐や帯がきっちりと締まるようになりました。

打ち合わせで、吟者の並ぶ位置、踊る位置をきめている後ろ左方向で、ジャズのサークルのドラムセットが設置され、ちょっと興ざめでしたが、浜吟の次のプログラムはジャズグループだからしょうがないねぇ。

それで、舞う場所は、ドラムセットと吟者の間ではなく、吟者(浜吟全員)に真ん中に並んでもらって吟者と観客席にはさまれる位置のお客さんのすぐ前で舞うことになりました。
あまりに観客に近すぎるかと、途中で不安になりましたが、もしかしてドラムをなぎ唐オてはいけないので、気にせず舞うためには、そして、観客への訴える力においては、その決断が良かったかと。

さて、午後1番の浜吟の発表が始まろうとしたとき、ついさっきまで働いていた音響がうんともすんとも言わなくなるというハプニングに見舞われました。

約30分の遅れの後に始まりましたが、トップバッターの吟者はさすが人生の達人、臆することなくゆったりと吟じられました。

おかげで、つつがなく吟じ終わり、最後の私の詩舞の番になりました。
近くに住む後輩が見に来てくれていますから、彼女の前で、心意気を見せねばなりません。

40年前私は『鬼の田辺(私の旧姓)』と呼ばれていました。
現役部員のころは、大して期待も去れず優秀な4人の同期の後ろをしょぼしょぼとついていっていたのです。
卒業後、同じ市内に職を得た私は、気がついたら先輩と呼ばれ部室に大きな顔をして訪れ、指導に当たることになっていました。

現役の2年間に鈴木・永井の岡大最強の指導者コンビに叩き込まれた教えを、後輩に授けるべく私は、本来の私ではない私を発揮して、のちの5年間の間には、『鬼の田辺』と呼ばれるようになっていました。

そのときのことを彼女の口から「先輩(40年たった今も彼女は私のことを先輩とよぶのです)がボックス(部室)に来られたら、空気がかわったんですよ。」と聞きました。

私との部活が浮ュてたまらなかった彼女が、今になって私に親しみを持つようになったのは、あの時、本来の私ではない私が必死で、きつい思いをしながら後輩のためとがんばってくれていたということがいつしか理解できるようになったからだと。

詩吟と吟詩部の部活に大きなこだわりを持って、がんばっていた後ろには、佐藤鷺照先生がいてくださいました。先生のたおやかでいて芯の強い詩吟を毎週のように聞き教えを受け自然と私の体に蓄積されていったものが知らないうちに山となったのですねぇ。

部活としての男勝りの活動をことばを多用してたたき込んだ鈴木永井路線と、伊豆丸鷺州先生の薫陶を得た鷺照先生の語らない静かな指導とで、私の隠れていた能力を引っ張り出してくださったのです。

今は、詩吟のない生活は考えられませんが、吟詩部の部活と佐藤鷺照先生の教室と東京連絡所と呼ばれていた東京支部の前身のそのどれが欠けても、今の私はないわけです。

40年の時を超えて、会いに来てくれた後輩に感謝し、未熟ゆえに傷つけた人もいたことを思い、さまざまな思いが交錯する中で、打ち上げの席に向かいました。

彼女は、10年ほど前から、横浜で別の流派で詩吟を始めたそうです。
入会は無理としてもぜひ、遊びに来て欲しいものです。


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