goo blog サービス終了のお知らせ 

風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

知 仁の会

2015年01月08日 | 論語と
年の初めに、家持の和歌の吟詠から始まりました。
 
あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事                               
                               (いやしけよごと)


昨年もこの和歌で、年の初めの会が始まりました。

「新しい年の初め、この初春の、今日降る雪のように、良いことが皆様のもとに次々と積もることを祈ります。」
そして、須藤先生の新年の言葉は、「少欲知足

今年のことはじめは、詩吟ではなく、論語教室でした。
須藤先生に、お引き立ていただき、赤子が母親の愛情とやさしい言葉のシャワーを浴びながら、すくすくと育っていくそのような思いを体験する、論語教室です。

ニュースは、三年前の足利学校論語の翌日先生が末フ詩とともに読みといてくださった、菜根譚の講座が始まるということ。
言葉としては論語より難しいかもしれませんが、内容はわかりやすいそうです。

そして、吉田松陰について、すごい人なのだと、語られました。

エピソード1 暮れに妹にしたためた手紙に、「お正月は下らぬ遊びをしないで、本を読んでもらいなさい。」と書いたこと。

エピソード2 松陰は、たったの1年ほどしか講義をしていないのに、その弟子が本を1冊ものした。

今年の大河ドラマは、吉田松陰。





コメント

勇の会 はじめの一歩

2014年12月18日 | 論語と
勇の会とはじめの一歩。

はじめの一歩は、新しいメンバーを迎えました。詩吟の経験ありの存じ上げている人でした。

漢詩の読みについて、「偶成」「川中島」「春日山懐古」を須藤先生の説明で、レ点や一 二を付けていく。

漢詩を読み下し文ではなく、元の漢文で読めるようにとの願いからです。

その分、詩吟のスタートが後ろになりますが、これも大事なこと。
その時によって、詩吟の時間が変わりますが、それについての異議はいまのところない。

吟詠の時間が少ない中で、「初めの一歩」初参加の彼女は、どう思ったのか、気になるところでした。

どうやら、彼女は、一番前に陣取っただけあって、吟詠の時間の長短よりも、尺八の伴奏で行われた模範吟詠にとても興味を持ってくださったようでした。

「どこで息継ぎしているのか、必死で見たけどわかりませんでした!」と、目を輝かせてのの感想に、うれしい思いでいっぱいになりました。

超初心者向けの教室に、3年目になる彼女が練習に参加して、果たしてどうなるのか。
前向きの彼女には、それぞれの場所で、自分に引き寄せた学習の仕方ができるのだなぁと、その彼女の姿勢に感動。

「どんな時、どんなところでも学ぶところはある、たとえ、自分のテーマと違うところが取り上げられた練習であっても。」
いつもそう思ってきましたが、それをそのまま実践する人が初めて、私に向けての言葉を言って頂いた。ありがとう。

飲み会でも、いろいろと夢が語られて、実現するといいなぁと言って終わった忘年会モドキの集まりでした。




コメント

論語 知の会 仁の会

2014年12月04日 | 論語と
先月の第三木曜日の勇の会と始めの一歩が、会場の都合でお休みとなった。

すっかり、タイムスケジュールに組み込まれているので、お休みになるとなんだかひもじい思いがする。

1日に、2月の予約を入れたので、予約表見領収書を須藤先生にお渡しして、ほっと一息。
早めに行って7階のレストランさくらでのランチをいつものこととしていらっしゃるので、のぞきに行ってみました。
入り口から生徒さんの顔がみえて、とても楽しそうに話が弾んでいらっしゃる様子だったので、話の腰を折ってはと、入るのをやめました。

そっと5階へ降りてきたら、すでにベンチで座ってまっている方がいて、その方とのおしゃべりに花が咲いた。

次回から、もう少し早くいって、同時に食事が始まるようにしましょう。

足利学校刊「論語抄」を素読して、須藤先生の資料とでお話を聞く。

論語抄の15ページ「子日く、君子は、器ならず(子日 君子不器)」
君子は「器」であってはならない。その器を使いこなす人であれと。
老子の大器晩成は、4つの熟語の一つであって、晩は、遅いという意味ではなく「不」と同義であると説かれた。

先生のおっしゃるところの意味は、頭の中で限りなくイメージとして広がるのであるが、未消化ゆえに、言葉としてならず、ましてや、文章にして,他に伝えることがかなわないのである。

この章句についても、何度目かであるけれど、そのたびに私のイメージが膨らみ、遠くにあった言葉が、そのたびに近くなってくるのは感じるのですが、いまだ、近接ならず。


コメント

論語 知の会 仁の会

2014年11月06日 | 論語と
知の会は、元の育成論語。仁の会は、素読を元として、初心者向けの新しくできた講座。

二コマ続けての講義は、少々集中力に欠けてくるけれど、二コマ目のほうが、初級者向けなので、何とかついて行っている。

今日は、早めに学びピアについて、7階のさくらスカイレストランで、須藤先生がいtもランチをしていらっしゃるので、合流しました。
吟詩日本に投稿した、「論語と私」ーはじめの一歩ーの随想が掲載されたので、須藤先生にお読みいただこうと持参しました。

ランチをしながら、講義の時とは違う溢れる思いをお聞きしていると、このランチの時間の先生のお話も得がたいものと思います。

もう一人その場で合流した紳士は、理系の仕事だったので、リタイアまで論語を知ろうともしなかった。之を、現役の時に知っていればなぁと、先生のお話を聞きながらいつも思っていると、おっしゃいました。
さすがに、ピカイチの頭脳の持ち主ですから、数年の自習で、膨大な書籍がすっかり頭に入っていらっしゃる様子で、先生との質疑応答も、私には、少々難しいけれど、お話として聞いている分には、何とかついて行ける。
その、知識いっぱいのお話や、ちょっとひねった質問に応えていらっしゃる須藤先生の言葉は、私にもすんなりと入ってくるのが、不思議で、面白くてしょうがない。

孔子の思いが、そっくりそのまま体に入り、須藤先生なりの咀嚼をして育んでいるのだろうなぁ、とっつきにくいと感じる様な投げかけについて、須藤先生の応えて曰くの言葉は、初心者の私にも分かりやすく、上級者の質問者さんにも、過不足のない言葉が、どんどんと紡ぎだされてくる。
はぁ~~、感動。


楽しい時間を過ごし、意気揚々と教室に向かったのですが、さて、教室が始まるころから、急に体調の悪化があり、ほとんど内容が耳に入らず、先生に申し訳なく思うのでした。

何とか乗り切って、外に出ると雨。いつも入っているはずの傘がない。
駅まで、同輩との相合傘でやっとたどり着きました。
体調悪化は、家を出る時からすでに始まっていたらしい、雨模様と知りつつ、注意力散漫で、傘の確認もせず、出てきてしまって、その時、もうすでに下降線をたどっていたことを知る。


でも、あのランチの至福の時間は、代えがたいものがあり、できる限り、早めに行ってご一緒させていただきたいと、思うのです。









翌日、その様子をつぶさに見ていた人から、様子伺いの電話を頂きました。
やっぱり、悪かったのですねと、「もしもし」の第一声を聞いての素早い反応。
やさしい言葉を頂き、しおれていた体に、潤いが戻ってきて、元気をもらいました。

「どうですか?」の一言が、下降線をたどっていた体調にピリオドを打ち、起き上がって食べなくっちゃという気にならせてくれました。
ありがとう。

コメント

論語勇の会とはじめの一歩

2014年10月16日 | 論語と
論語の三つの教室に、それぞれ「知」「仁」「勇」の会と名前が付きました。
第三木曜日は、基礎講座改め「勇」の会。

今日の先生の講座は、パワフルで、いつになく速いスピードで進み、もういつまでも基礎講座ではないのよと言っているみたいだった。

途中まで、ついていった頭がギブアップしてしまったけれど、何とか一つでも、心に入れて帰らねばと、焦る。

事前の打ち合わせでは、初めの一歩に少し時間をいただくかもしれませんとのことだったのですが、時間内に終わったのはそういうことか。

うーん、困った。これから先もこのペースだったら、心せねば。


はじめの一歩は、先月に引き続き「川中島」口移しの練習は、少しずつ効果を上げて、みんなの声もそろってきて、パワーも備わりつつある。

相変わらず、教室の後ろの席から前に出てこない人たちがいるのだけれど、強力な助っ人のおかげで、ここまで届いてこない人の声を拾ってくれていた。

おかげ様。詩吟ではどこに行っても、助っ人がいてくれることが、ほんとにありがたい。

50人ほどの定員の教室に、14~15人が散らばって、座っているので、私のところまで声が届かないのです。

論語の教室からその延長での詩吟講座なので、みな、すでに座っていた席から動きたがらないのです。

楽しく自由には、どこに行っても変わらないけれど、ここは、特に自由だなぁ。
でも、自由だけれど、無秩序ではない。さすがに、論語の先輩たち。

そこが、うれしくて、その、自由さを心地よくとらえている。

この広い教室に私一人で、吟詠をしているなら、困ったことだけど、中間の席で、私が拾えない声を拾ってくれている人がいるから、自由が勝手気ままになっていないのだ。

ゆとりをもって教えられることが、詩吟や大きい声を出すことに少々抵抗のある人に、安心感を挙げていることになる。

おかげ様。
コメント

繋がってる

2014年10月15日 | 論語と
須藤先生とのメールのやり取りが、何か事があるとよきにつけあしきにつけ、何度かなされています。

勝手に書き散らすのと違って、お相手の一人の方に向けての手紙は、今まで、キャッチボールが続いたことがなく、すぐに沙汰やみとなってしまう、手紙下手の私です。

だんだんに、知り合いが増えてきて、ねばならぬ連絡も事務的にやり過ごすことで、ごまかしているのですが、須藤先生とは、先生の大きな包容力によって、続いているらしい。


今回も、ちょっとしたことが起こって、メールを頂きましたが、素直に心開けるおかげで、思いを伝えることができました。

誰かに怒りを伝えるのは簡単だけれど、それから先の失うものの大きさを考えたら、考える方向を転換したら、それが、なんでもなかったことに考え直すことができることを、学びました。

どうして、相手が須藤先生とお話をすると、こうもすんなりと、矛先を収めることができるのか、不思議なのです。

さて、明日は,勇の会とはじめの一歩。

明日は、漢詩鑑賞はお休みして、何か別のお話をしてくださるようです。

次回(11月は部屋が取れなくて、お休みになったので12月の第三木曜日)は、また、漢詩鑑賞をしてくださるようです。

また、メールでは、足利薪能と論語の二日目(私は、翌日の練成会のことを考えて、二日目の参加はしなかったので不在)素読の会の会長の経営するホテルに泊まると、朝6時には、論語の素読で始まるのが慣例です。
その、素読の前には、私たち詩吟仲間で行っている体操を取り入れてくださっていると教えていただきました。

お楽しみだけではなく知識や技術を伝えあって、輪が広がっています。

二日目の論語は、少人数で、和気あいあいと楽しく行えたそうです。
次回は、ゆっくりととまって、先生の論語を聞きたいものです。

やはり、先生の話は、朝の明晰な時間に聴くのが良いなぁ。長時間移動して、食事でおなかがいっぱいの時は、ちょっと私に学習はつらい。

さて、明日のはじめの一歩は、尺八さんが出席なさるだろうか、そして、伴奏をしていただいて、詩吟初心者の方たちに楽しんでいただけるだろうか。

コメント

論語と足利薪能

2014年10月11日 | 論語と
   鑁阿寺本堂国宝指定・足利文化協会設立40周年記念
               第30回足利薪能 


   







演目は、能   鶴亀      中村 裕
    狂言  末広かり    野村 万蔵
    半能  半蔀(はじとみ)梅若万三郎

鶴亀は、鶴と亀の祝福と大蛇の威風とを、舞歌によって表現した、明るく荘重な曲。

末広がりを何かも知らずに買いに都へ言った太郎冠者とすっぱ(詐欺師)の話。
だましてはいるけれど、その後の主従の悶着を慮って、そ解決策まで授けるという、現代の弱い者いじめの詐欺師とは、格が違ってるなぁと、詐欺師に格があるのかなぁと思いながら、笑ったのでした。

半蔀は、京都の紫野に住む僧の前に五条あたりで、夕顔の霊が現れ源氏とのことを語り、舞を舞い、明け方が近づくとまた半蔀戸の奥に消えて行きます。

その舞の美しさもさることながら、面をかぶった梅若万三郎の声が、胸元から響くのを、目を皿にして、耳をそばだてて聞きました。







足利薪能に合わせて、須藤先生の論語教室足利が開講されました。
講座は、足利遊学館にて行われました。
今日の資料は、「史跡足利学校発行の『論語抄』を読む資料として、先生がこの日に合わせるように、作成発行なさいました。

 


この資料で、午後1時より、講座が始まりました。
長旅と、おいしいお弁当で、緊張のゆるんだ体は、必死に目覚めようとする意志には勝てなくて、こっくりしながらになってしまいました。
幸せ気分で、聞く先生のおはなしは、心地よく胸に響いてしまいます。

まえがきに、「いつの世も、正しい言葉で、素直な学習を心がけたいものです。』と結ばれています。
「そして、縁あってこの冊子を手に取ってくださった方々とともに、学びあう幸せを、心から願っております。2014年10月11日  須藤明実」と。


この資料と先生はおっしゃるけれど、立派な研究書籍と私は思いました。
どうして、「資料」とおっしゃるのかなぁ。。。

さて、この本で、これから、足立論語の会で、何度にもわたって、先生が読みときをしてくださるとおっしゃっていました。
一度聞いただけでは、なかなか、私の堅い頭には届かないのですが、飽くことなく言葉と思いを届けてくださる須藤先生の導き方は、穏やかで温かく、月に2回の講座がますます楽しみになっています。




来年の足利薪能は、9月12日だそうです。寒くなくてよいね。
コメント

須藤先生油絵展

2014年09月24日 | 論語と
野田にある画材屋さん併設の喫茶店が、須藤先生のもう一つの論語教室。
今日は、先生の絵の展覧会がそのお店で開かれているので、鑑賞がてら、有機栽狽フしょくざいで作ってくれるランチを頂いて、その後、論語の解説といつもの段取りで、行われました。

今日は、先生の親交のある歌手の生前葬コンサートとコラボして、その歌のイメージを絵にしたものが掲げられていました。



そして、今日の論語は、下村湖人の論語物語から、「伯牛疾あり」のレクチャーです。
孔子の弟子の中でも特に徳行に優れた伯牛が、病を得た時の話。
孔子は余命いくばくもない伯牛を折に触れ訪ね絶望の淵にいた伯牛のこころを、自暴自棄から救い出し。

最後には、伯牛は「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり。」と言った孔子の深い言葉をじみじみと思いだし、あれほど荒れた気持ちが、何かしらすがすがしいものが流れているのを感じたのです。


あまりに端折りすぎて、意味不明かもしれませんが、論語を理解する手助けとして、「論語物語」は、面白い教材ですと、須藤先生の弁。

毎回手作りの教材を提供して、懇切な解説と素読をしてくださる「里仁」論語教室でした。




コメント

論語とはじめの一歩

2014年09月18日 | 論語と
「足利学校書き下し 論語」をテキストに、最初から素読をし、解説をしてくださった。

きょうは、先生の書いた「論語の教科書」の出番がなかったのは、ちょっと寂しい気がする。

九月からは、時間も30分早く開始されるようになり、三つに増えた教室は、それぞれ、知の会、仁の会,勇の会と命名されました。

知の会は、今までの育成論語(第1木曜日1時半から)、仁の会は新しく増えた素読実践をテーマとしてこちらでは先生著の教科書を使います(第1木曜日 3時15分から)。
勇の会は、今までの基礎論語 素読と各篇の章句解説。漢文学習。漢詩鑑賞。〈第3木曜日1時半)
それに引き続いて、詩吟の会。論語を漢字で読めるように、漢詩に親しむ第一歩として、漢詩を解説鑑賞をしましょうとの意向で、詩吟を習うことになり、はじめの第一歩と名付けられ、私が詩吟指導を担当しています。


論語の十章までは、論語のエキスとまで言われる重要で、誰でも知っている言葉や熟語が特にたくさん出てきます。
それだけに、何度おききしても新しく奥深さを感じます。

学ぶこと、習うこと、目上年上の者を敬うこと、当たり前で、難しいことが、短い言葉でかいてある。

須藤先生の、簡潔で奥深い表現の解説は、それを聞いているだけで、身が軽くなって爽快になる。

くどくどと言わないt頃が、潔い。素晴らしい先生に出会えた。

そして、そこで出会える仲間とのかかわりも、先生の影響を受けて、穏やかに輪を広げて行っている。

          おかげ様 ありがとうございます

コメント

基礎論語とはじめの一歩

2014年08月21日 | 論語と
尺八のK先生が、今日から論語仲間になります。
さっそく、今日から尺八持参で、きてくださり、論語のあとで、いつもなら新しい漢詩の解説をする時間に、吟詠を三題ご披露する時間を、須藤先生がくださいました。


まず最初は、抜き打ちではじめの一歩さんたちの「偶成」の合吟。
吟詠の時間の前ですから、声も全く出さないうちに、急に前に呼び出されて、並ばされて、ほいって感じで、やらされたのです。

絶対いや!といって抵抗する人が居るかと思ったのですが、ぞろぞろと言う感じではありますが、前に出て来てくださって、無事合吟が終わりました。

次は、Tさんの「山中問答」をご披露。
いつもは、アカペラでの模範吟ですが、今日は、尺八の伴奏つきで格調高く論語の方たちに、お聞きいただきました。

少し時間がずれこんでいたので、ご披露は二題までとしました。

全くの初心者が、今日で、5回目の練習で皆の前で合吟する機会ができたのも、ひとえに尺八さんのおかげです。

懸念した不都合は起きることなく、最後まで練習ができました。

Kさんありがとうございました。

論語仲間で、須藤先生の前ですから、さん付で呼ばせていただきました。
そんな、私の、小さなこだわりにも、いやな顔一つせず、尺八を全うしてくださり、こんなため口を聞くかのような扱いに、嫌気がさして、今日だけのお試しなんておっしゃって、次回は欠席なんて言うのではないかの懸念がありましたが、次回も参加されて、論語のテキストの注文をなさって帰られました。

あくまでも、須藤先生の論語の講座の構成メンバーとしてという考えは、ごもっともとおっしゃっていて、心配しすぎだったかもしれないと思うのです。


尺八の伴奏で、詩吟を気楽にできる機会なドめったにないわけですから、ひらひらと舞い上がって喜ぶところですが、今の立場では、単純に「やったー」と言ってしまえないところが、うらめしい。


それにしても、この私が「立場上」なんて言葉を使い、曲がりなりにも一歩先を考えているなんてねぇ。

教える立場になると、一挙にいろんなことを学び、いつの間にか身につけていることがあるものだわ。


   徳孤ならず、必ず隣あり。(通の九十一)


須藤先生の最近発覚した事件に関して、きっとこんなことを思っていらっしゃるのかなと思ったので、選びました。




今日は、講座の前にランチをなさっているはずなので、早めに7階のさくらレストランへ行ってみました。
お一人でランチしているところへ合流して、二人でおしゃべりです。

二人でなかなか話の弾まない私なので、実は、他に誰もいなかったらどうしようという恐れがあったのです。

全くの杞憂で、論語の開始時間を忘れてしまうくらい話し込んでいました。

一つは、7月の年に一回の三日間特別講座の公社側発行の新聞記事に、有り得ない記述があったことを先生からうかがいました。

うーん、これは問題。このような記事は、先生の名前で検索するとパソコン上にでてきてしまうのです。
受講生の感想ということで載せられたのなら、問題はないのですが、公社側の報告記事にこのような書き方をされてしまうのは、初心者の私でも、おかしいと思う。
内容はもとより、言葉の使い方、漢字の間違い。

この漢字の間違いと言うのは、日頃詩吟で最もその意味するところの最上の文字を選んで吟じている立場からは、この漢字を使うのは、先生に対する敬意もその伝えようとするところを悪意をもっているとしか思えない表現がされていました。

悪気はなかったと、いえるだろうか。その方がそのように先生の言わんとするところを、受け取ってしまうには、かなりの教養人であるはずのその方の署名記事であったということにも、何なのか受け取り難いことでした。
之は、記事のぼうりょくではないだろうか。身近な人に、こんなことが起きるなんて。

こういう書き方をするなら、自分に問い合わせてほしかったとおっしゃっている。
あるいは、原稿依頼を頂きたかったと。

先生の論語仲間であれば、これは何かの間違いで、須藤先生がこんなことを考え教えているはずがないと思うでしょうが、世界にばらまかれ、全くの論語初心者、あるいは初心者になっていない人、あるいは、悪意のある人には、論語自体、孔子に対する考え方を曲げてしまう。

恐ろしいことだと、日頃あっけらかんとしている須藤先生もさすがに、落ち込んでいらっしゃった。

唐の署名記事を書いた本人からの、先生のメールに対する返事はまだないとのこと。


コメント