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風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

論語基礎講座

2014年07月17日 | 論語と
今日の論語は、見学の方が、2名参加。
そのため、須藤先生は、予定していた講座内容を変更して、初めての人を引き入れるような講義をなさった。

論語の教科書も、惜しげなく貸し出して、懇切丁寧だった。

いつもは、論語の教科書の素読を31日分ノンストップで行うのですが、素読の前に、初心者に分かりやすい章句は、分かりやすく説明下さってからの、素読ということの繰り返しで、31日分を終えるのに、い時間以上もかかりました。

私にとっても、良い復習となりましたが、短い章句のそれぞれの言葉に、奥深い意味が、隠されていて、その段階に応じて、学ぶことがあります。

全く初めての1年前と、今では、なじみ方が違ってきているけれど、どこまでわかっていて、どこから、わかっていないのか、と考えると、言葉になじんだだけで、まだ、わかったとはいいがたいと思うのです。

その初めての人対応の内容で講座をなさったおかげで、長年お話を聞きに来ている人たちには、飽き足りない講義だったかも、今日予定していたことをお話すべきだあったかなぁと、先生ご自身がおっしゃっていた。

いつもいつも、振り返り、反省し、先のことを見通している須藤先生なのであります。



須藤先生は、初めて参加なさった方に、できる限り拒否感を持たせないように、好きになってもらえるようにと最大の心配りをなさる。
ありがたいことです。

この二人、先生にお借りした「論語の教科書」を丁寧に授業中扱ってくださっていました。
講義の最後には、その本を購入なさったのです。
この本は、この先たとえ講習に参加されなくても、手元において眺めているだけでも、価値のあるものです。

今日のお試し講座を受けて、どのように思われたか、来月も来てくださるのか、さて、、、、、



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7月論語育成講座

2014年07月03日 | 論語と
今日は、「徳」について、迫力のある講義でした。
    
   最初の章句は

子曰く、徳孤ならず、必ず隣あり


 
 

  正しいことを明言、実行する時、ときに孤立をしてしまうことがある。
  それでも、きっと日を置くと理解者が出てきます。
  そして、「朋」のある幸せを感じ、実感するのです。


徳があれば、そうなんだねぇ、いつまでも孤立しているのは、徳ではないってこと?



10余りの章句の解説ののち、もう終わり化と思ったら、最後に付け加えてとおっしゃったことが、心に残りました。


経済学の祖とされる管子の時代は、人民を飢えさせなければよかった。
それからわずか90年ほどの後にこの世に来た孔子は、「心」を意識し解き始めた。

「心」の存在を発見したとき、孔子はどういう思考回路だったんだろう。今までに、有っても、認識されなかったものに気づくのは、天才だ。


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須藤先生と詩吟

2014年06月29日 | 論語と
須藤先生からは、折々に長いメールを頂く。
最近のメールは、生涯学習センターでの、詩吟教室の可能性です。

先生としては、「初めの一歩」と同じ漢詩の解説と詩吟という形で、もう一コマ増やして続けたいと思ってくださっているのようです。
それが実現したら、なんてすばらしいことだろう。


先生とは、いわゆる女子の付き合いをしないでもよい。だけれども、女性としての感性を大事にしながら偏らないで、ご指導を頂き学んで行けるところに、大きな魅力がある。

さばさばとしながらも、綿密にたおやかに、このことは、私のこれからの命題であるよねぇ。




 
豊かな人生は、自分の心の中にある


(ある未開地医療に携わる医師の亡きお父上が彼女に残した言葉)



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足立基礎論語

2014年06月19日 | 論語と
須藤明実先生の基礎論語の6月講座の庇をお借りしてのはじめの一歩がきょうで、三回目。

須藤先生の「論語の教科書」

                          明徳出版社



18日目  →言葉で、そして言葉に責任をもって教える
       教→ 鞭をもって教える
               (為政第二より 通の三三)


さて、私は、鞭をもって教えてないか?
確かに知っていることを口にしているか、知らないということを確かに認識しているか。





論語の時間の中での漢詩の解説は、「鹿柴」王維作

       空山 人を見ず
       ただ 人語の響きを聞く
       返景 深林に入り
       復た照らす 青苔の上

「絵心のある王維だからこその世界。そして、かすかな音の存在がすべてを調和させている。」と須藤先生は、言いました。
ご自身も画家である先生の感覚と詩の選択と、感動。

その後の模範吟も、みなさんの興趣を惹いたことでしょう。


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論語基礎講座 & はじめの一歩

2014年05月15日 | 論語と
第三木曜日は、基礎講座のあと詩吟はじめの一歩

今月は、はじめの一歩二回目。

須藤先生の漢詩解説は、「絶句」

鮮やかな色のあるこの絶句は、画家でもある須藤先生のお気に入りの一つ。

須藤先生の手で、詩を書いた墨の黒から、鮮やかな色が立ち上ってくる。


鳥の白さは江の藍のような碧だからこそいよいよいっそう白くまばゆい
山は青々として緑濃く、紅の花は燃えるように映えて美しい
今年の春も移り過ぎようとしている。
いつになったら、故郷へ帰ることができるのだろうか   ≪須藤明実先生≫




はじめの一歩 漢詩の解説は毎回新しい詩を須藤先生のチョイスでおこなわれます。
詩吟の部は、一年をかけて一つの詩を吟じられるようにしようというのんびりとしたもの。

漢詩はいつも目にしていても、詩吟となるとこの講座に参加して初めて耳にする方がほとんど。
まず、耳に慣れることから始めよう。
 
それには、私が声を出して、耳になれて、様子をわかってもらう夢組方式が最良と思います。

二つの教室が始まった時のように、最初から最後まで私が声を出し続けることが大切。

なのに、この3か月というもの咳が出て止まらない状態が続いている。
ベストコンディションではない声で臨むのは申し訳ないけど、その足りない部分は、下手でもコンダクターを頼りに、何んとか音をつかんでもらおうとしています。

最初の一歩のためには、この咳は最悪なのですが、伸びやかな声を出すための試行錯誤中の私にとっては、喉に負担をかけないで発声をするための一つの手助けとなっているような気がしています。

声を出す人が喉の状態がよくないことも喜んでしまうことに、整体の山田先生と、『いつものプラス思考』と笑いあったことでした。

喉の調子の良いときは、気が付いたら喉に頼る発声をして、終わったらやっぱり嗄声になっているので、なかなか、喉に負担のない発声を実現しかねているのです。

一人であがいているのですが、今のコンディションを味方につけて、一歩前進といたしましょう。

さてと、話がそれましたが、ほんとに少しずつ、すこしずつ進めていきましょう。
参加のみなさんの明るい期待に満ちた表情を曇らせないように、聞いて聞いて聞いてもらおうかな。

そばで見ている人は、きっと歯がゆいことでしょう。

夢組が始まったときは、メンバーとは顔見知りで相当なコミュニケーションができていましたが、一歩は、これからです。

大体10人ほどの参加ということがわかってきたので、次回は、スクール形式の机の並びを変えてみなさんの顔が見える四角に机を並び替えて、やってみようと思います。

ゆっくり、ゆっくり。






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須藤明実講演会

2014年05月03日 | 論語と
足利へ、一人ででかける。
2時間の電車旅、かねてよりの宿題を携えて、心うきうき。

まず宇都宮木鶏クラブ主催 須藤明実先生の講演は、いつもと変わりのない語り口で、分かりやすく「徳」についての講演だった。
先生は、どんな場所でも手抜きをせず、相手を選ばず語ってくださることを、今日、はっきりと実感しました。



講演のあとは、ホテルの部屋で一人豊かに時が過ぎた。

開いた窓からは五月のさわやかな風が部屋を満たし、隣室の見ず知らずの人たちの会話さえ心地よく耳に入ってくる。

ホテルの女将はよく知った人だから、安心感もある。

そんな一人の時間は、宿題がはかどり、ちょうど終わったとき、つけたテレビからは女子卓球の日本の勝利を知らせていた。

祖の宿題とは、80周年で、再会した井先生におねだりして送っていただいた佐藤鷺照先生の資料や音源。
心待ちにしながら、受け取ってすぐには、手に取る気がしなくて、少し気持ちが落ち着くのを今か今かと待ち受けていたため、しばらくは封を切ったママになっていたものです。

こんな、何物にも解き放たれたときに、懐かしい佐藤鷺照先生のこと、改めて知ることができ、また、お声を聴いて、深く満足し、安らいだのです。
先生って、やはりすごいと思いました。

翌日は、6時から素読の会。
木鶏クラブのメンバーも歩いて15分の距離のホテルから20名近く参加なさった。
昨夜は、懇親会の後に二次会もありお酒も召し上がっていたのに、須藤先生と素読の会会長の一声で、早起きをなさったのです。

震えるくらいの寒さのなか、30分ほどの素読の声が渡良瀬川の川を渡って、広がっていく。

あー、心地よい。爽快。うれしい。

空気がおいしい。風が心地よい。ごはんがおいしい。

程々に人がいて、自由な時が過ごせるのはよいなぁ。


満足満足。またこようっと!

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論語育成講座 5月

2014年05月01日 | 論語と
久しぶりに落ち着いた気分で論語に参加。
早めに着いたので、資料を配るお手伝いもできたし、じたばたと時間にやっと間に合うのでは、先生の言葉もそうでなくても上の空になってしまうのに、今日は、ゆっくりと滑らかに入ってくる。

これは、須藤先生に慣れてきたということもあるのだろう。

教科書を見ると、書き込みからすでに講話を聞いていたはずというのを知り、人に語ることはできなくても、自分の中に少しずつ積もってきているような気がする。
これが重なれば、何かが残ってくるのだろう。

そして、その時の先生の思いが少しずつわかってきている気がする。

詩吟も耳慣れないメロディーに、なかなか覚えられないのだが、繰り返しているうちに、何んとなく口ずさめるようになり、だんだんに自分のものになっていくのと似ている。

まず、新しいものを増やすのではなく、繰り返すのが良い。
その時には、小難しく考えないで、素直に入ってくるものを受け入れていればよい。

今日のサブテーマは、「木鶏」

千代の山が、最後の負けた時、そして、白鵬が最近負けた時、「木鶏」に至らずと言った。
白鵬がこよなく日本を愛し学んでいることに思い至る。

そして、今日、少し理解が進んだと思えた言葉は、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。」

知ったかぶりをするのではないぞということと思っていたのですが、そうではなく、理解が進んでいるうちはよいが、理解が届かなくなった時、いずれわかるときが来ると保留にしないで、わからないことをはっきりと認識すること。
そこから、またさらに先へと理解が進んでいくのだよ。ということと、今日の私は、そう理解したのでした。

また違った日に、違った心持の時に、同じ須藤先生からとみ解いていただいたら、また、違った観点で、心が動くことでしょう。

今までは、ノートを見ても、先生の言葉を聞いているときは、なんとなくわかった気分になっていたのですが、ノートを見返したとき「あれ?なんだっけ」状態だったのが、たった一つでも、こうして書く言葉を持てたのは、大進歩だと思う。













    ☆ 「荘子」より木鶏(もくけい あるいは ぼくけい)☆

闘鶏を飼う名人の紀渻子は、王のために闘鶏を飼う。
十日にして、そろそろ戦わせてはと。
未だ、敵も見えていないのに、気の立つところがある。
十日にしてまた問う。
未だなり、相手の影が見えただけで、応戦しようとします。
十日にしてまた問う。
未だなり、相手に向かうところが強すぎて、己の気を蔵するに至りません。
十日にしてまた問う。
未だなり、他の鶏が鳴こうとも、少しも動かされところがありません。
一見すると木鶏のようである。
その徳は、完全なものになり、どんな鶏も相手にならず、逃げだすでしょう、と。




さて、須藤先生から、ご案内。

宇都宮木鶏クラブ主催 須藤明実講演会のお誘い

日時  平成26年5月3日 (土)14時30分 ~ 16時30分
場所  足利市駅前 ニューミヤコホテル
テーマ 『論語』に学ぶ、その基礎と姿勢
参加費 クラブ会員に準じて、3千円。

木鶏クラブは、致知出版社より出版されている月刊誌『致知』をもとに、人間学を学びあいたかめていくという目的を持ったクラブだ。北海道から沖縄、オセアニアやロサンゼルスにも、詩舞があり、活動している。

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育成論語

2014年04月03日 | 論語と
第一木曜日の今日、育成論語と夢松風が同じ日になりました。
午前10時から論語の新年度がスタート。
先生の作ったカレンダーを題材に、スタート。

その始める前に、先生が何度もおっしゃる「論語」とはどういう書物なのか。

2500年前、春秋時代の末期に講師と弟子や要人と交わされた対話の記録であるということ。
孔子は30歳で私塾を開校したが、授業で教えたのは、礼楽であり論語を教えたのではないのです。

「論語」とは、論じて語る、つまり、授業の合間や、日常の生活の折々にまた、旅先で何気なく話した言葉。孔子がなくなって、それら断片的な言葉を持ち寄ったものである。
孔子の弟子たちによって、書き集められたものであるということ。

孔子は三大聖人として数えられているますが、酒を飲み、詩を歌い、グルメで、おしゃれで、冗談も飛ばすし、粋なことも言う人であったそうな。
 
14年もの間の放浪と旅も、孔子のそばから離れなかった弟子たちの思いとは、孔子の人間味に寺領されていたといえるのでは。

                              ${藤 明実ー

先生のレジュメを丸写ししました。

今日の最初のお話は、「仁」まだ、自分の言葉で、書けることがなく、でも、先生の言葉の一つ一つは、特別むずかしいことではないのだけれでど、平易な言葉で表されるその内容は、とても深く、だからこそ、昨日今日末席にいる私と、何年も先生の授業を受け続けた人、そして、自分なりに学んで、10数年という方たちと肩を並べて教えを乞うことができる私塾なのであります。

須藤先生にお聞きしたことを、「あのね、、、」と語れるようになるには、まだまだ、先のこと。
育成講座は、論語のすべてを語れなくても、まず、自分の気に入った章句を一つ、自分なりの言葉で語れるようになるための、なってほしいと先生の願う講座なのであります。

さて、いつもは、育成論語のあとは、7階のさくらレストランで、ランチをしながら語り合うのは先生の言葉で、先生がさながら、孔子のようにエピソードを交えて楽しく語ってくださるのを聞くことのできる良き時を過ごせるのですが、今日は、松風と重なったので、終わり次第松戸へと向かうことになりました。


                  




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論語基礎講座㋂

2014年03月13日 | 論語と
今年度最後の論語基礎講座。

今日は集中力の欠如。

論語の前に、カラオケで1時間半。
花粉症モドキの風邪であちこちに迷惑をかけていましたが、何とか回復した模様。
電話の声は、だれも私とわからない声変りをして、頭がもうろうとして、集中力に欠ける状態だったので、16日の神戸には、欠席あるいは、大事な用事をピンチヒッターと交代か、という状態でした。

何とか、しゃべる声は元に戻ったので、カラオケに行って発声を確かめる。
こんな時、強力な助っ人がいることが、大きな安心。

一吟やってみて、大丈夫と思えた。

それは、私の吟に対してではなく、応援してくれる人がいるという実感で、そして、その実感が気力の充実をもたらし、当日の大事な役目をはたすことができると思えたのです。



そして、論語教室。前回の育成講座は、花粉症の全症状と冬から春へのデトックスが一時期に押し寄せて、ダウンしていました。
先生もお仲間にも心配をかけてしまい申し訳ありませんでした。

先生の講義のあとは、4月からの詩吟と漢詩の講座のコマーシャル。
一吟するほうがよかったのでしょうが、体操をして、体をほぐしてもらいました。
そして、いつも先生の言う、地球と宇宙とつながっているという言葉も入れて、素読によって慣れた発声にそのまま詩吟の法則を入れていけばいいのですというコメントをちょっと入れて、約5分。

今日は、4月からの詩吟が導入されることを聞いて参加してくださった方が、3人ほどいらっしゃったようです。

一人は、詩吟仲間、一人は論語仲間のお知り合いだった。

結局、15~6人の申し込みが須藤先生のほうに届いているとのこと。

須藤先生の論語教室のひさしをお借りしているという状態なので、先生の指示通りにしているわけで、こんな時、私は、どう動けばよいのだろうと考えてしまう。

今は、この流れに乗って、強力な手助けを得ながら行き着くところにいってみようと思う。






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育成論語

2014年01月09日 | 論語と
今年初めての、育成論語。

年の初めで、ちょっと、私には難しい部分も出てきて、「育成」の教室と言うことを改めて、思う。

昔の人は、良く論語をものしたのだなぁと、思う。
賢人、偉人の有名な言葉は、みな、論語から来ている者が多いということに気づく。

そして、それと知らずに、人と交わることにおいて、親から習ったことが、論語であったことがわかる。

いつの間にか知っていたことを、論語として読み解いて頂くと、さらに、深い意味があることを知り、論語ってすごいと思うのです。

須藤先生に読み解いて頂いているときは、よーく、わかったと思うのですが、いざ、先生の気の届かないところに離れると、ちんぷんかんぷんになってしまいます。

同じことを何度か聞いても、そのたびに新鮮に心に響くのです。

こよなく論語を愛する先生との出会いは、おだやかに、優しくその世界へと入って行きそうです。



4月からの詩吟の会・はじめの一歩の宣伝を兼ねて、今日は、富士山を吟じさせていただきました。
今日は、10分も時間を頂いて、体操とふた声発声をしてみました。

体操の後、体がほぐれていることもあったのですが、皆さん須藤先生と論語の素読をして腹に力の入った声を出しているので、「あーーー」と声を出してみてくださいの言葉に、迷うことなく全員から声が出て、またその声の響きのよいことと言ったら、驚くばかりでした。


全ての事は、こころとからだの結合から生まれる。

須藤先生の、飾らない教えを受けた者たちが、その教えの通りの気取らない声を出してくださったのには、驚き。 (1/11)



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