Re:SALOON & VBA

「恥多き人生」・・・「決め・分け論」㉝

こうして、誰が読んでくれるとも分からない文章
読者を想定できない文章を書くことは、この歳になって書くことは、
ある意味、一種、恥ずかしいことではある。
殊に、「価値観」に関するこういう独り善がりの文章は、極めて恥ずかしい。

恥多き文章と、言うべきなんだろうけど、
まあ、人生、ずっとそうだったような気もする、そういう自戒、自覚も含めて
恥多き「人生」というタイトルにした。

日本語の「恥」は、面白い言葉だ。
ちゃんと調べていう訳ではないが(調べてもそうだろうと思うけど)
「恥」は、「端」はじ、はしから来ていると思われる。
「外れ」はずれ。というのもある。
要は、中心からズレといて、周辺、異端、範囲内ギリギリ、あるいは外に出ていること
を言っている。
仲間、同じ、類ではない。
出てはいけないから、「恥ずかしい」という感情で警告している。
日本社会では、割と死活問題だと思う。

この「決め・分け論」では、
「決めたい」の極と、「分かりたい」の極を対極において、
どっちも、「端」に置いているけど、
「決めたい」の方は、どっちかというと真ん中指向で、
この極は、「決め」「極み」に通じている(「き」音の)言葉なので、
「恥ずかしさ」はないのかも知れない。
「き」は、勿論、「切る」に通じる。一部を選んで、他は捨てる。

幼少期、「恥ずかしい」という気持ちで、自分を抑制し、
周りに合わせることが、やはり、多かった。
同調圧力というか、皆が言うことが正しくて、それと違う自分は「変」と
朧気ながら、思っていた気がする。
長じて、「恥ずかしながら」自我が芽生え、
自分のアイデンティティ、何が自分なのかを考え出したとき、
「近代的自我」と言われる、それに、
「無理して周りに合わせる必要はない」のではないか、となり、
それで、力が抜けて、気が軽くなった。
但し、それで、理解してもらえないという「孤独」も引き受けざるを得なくなってしまった訳だが・・・

「分かりたい」は、突き詰めると、そうならざるを得ない気がする。
一見、「分かる」は、人と「共有化」の方向に進むように見えるけど、
どんどん、裾野を広げて行くのであるから、
一般的、常識的という暗黙に「決められた」限度を逸脱してしまう。

「決めたい」は、「他者を排除」することもあるだろうけど
王道は、中心・中核に向かい、「選ばれたい」になるのだから
ある意味、自分が「標準でありたい」の権現なのだから、
「恥」はない筈で、寧ろ「選ばれなかった」場合に「恥ずかしい」ということになるのではないか
と思う。

いろいろ、理屈を捏ねたけど、
詰まるところ、もう彼是、
半世紀、端っこにいて、そこで気付いたことを、こうして書いて来たのだから
これからも、「恥ずかしい」ことを書いて行くしかないワナ・・・と
今更、もう「恥ずかしい」ので、止めますとないワナ・・・と。

独自の用語とか、独自の言い回しとか、
まあ、噴飯もの、若気の至り(若くないけど)、穴があったら入りたい
状態なのだけど、どこかの偉いさんが、学術的に、同様のことをそれらしい用語で
述べていたとしても(そうあれば、理解してもらえる契機になるだろうかと思うけど)
つまり、既存の考え方かという、それを探す、根気もないので、
自分の幼稚な用語、表現で、これからも書くのだろうな・・・と

という、恥ずかしいので、言い訳です、今回は。

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