フレーベル少年合唱団 第50回記念定期演奏会 遥かなる航路のあてどに

2010-12-12 23:17:00 | 定期演奏会



フレーベル少年合唱団 第50回記念定期演奏会
2010年11月17日(水) すみだトリフォニーホール
開場 午後6時 / 開演 午後6時30分
全席指定2000円


第50回記念定演はどんな演奏会だったのか

昨年刷新されたフォーマットにのっとり、開幕のウエストミンスター・チャイムが団員代表のミューベルによって鳴らされた。今回はオルガンバルコニーではなく、ぐっと観客寄りの舞台面フロアでのスタンバイ。見栄えの良いコンソールステップから団員たちを観客本位のステージレベルに戻す試みは、今回の定演全体を通じて見られた傾向の一つだった。ベルのアサインメントは継承されていたが、担当メンバーの顔ぶれは昨年とは異なっていた。彼らはチャイムをつつがなくシェイクし終え、ベルキャストをカシドス・ネイビーのユニフォームの胸に沈めてぺこりとお辞儀する。リンガーとしての所作は申し分なかったが、聴衆は漠としたかすかな所在の無さを覚えた。昨年は確かに存在した「礼っ!」の号令を発する上級生が今年のチームには居なかったのである。コンサート開幕を告げるこの心許ないイメージの現出は実に象徴的な出来事だった。非常に大雑把で乱暴な言い方だが、フレーベル少年合唱団第50回記念定期演奏会というのは、呼号発声の任を解かれた一人の団員の進退をきっかけに、ここ3年間の彼らの合唱を読み解く実に有意義なひとときだったように思う。

2008年夏の日々。彼らは酷暑の中、未だ半袖シャツにXYサスペンダーを吊り、きっちりと首を絞めたリボンタイに、白ハイソを履いたまま玉の汗で歌っていた。彼らがMCで「小さい組」と一見(いちげん)の観客に紹介する出演用のAB組団員を流し込み、最後にフルメンバーを揃えると、全隊は3~4列にもなった。総勢45名を越す男の子らが六義園の緑深いアジサイの植栽の前にずらりと勢ぞろいした。だが学年構成は注視するまでもなく少年合唱団のメインクルーとして期待されているはずの高学年・中学生のベテラン団員の頼もしげな姿を決定的に欠いており、比較的体格の優位なアルトの一角を除いて全員がとても幼く頼り無さそうに見えた。内外の観客や関係者たちが「今は小ちゃい子たちしかいないから…」「低学年の子が中心で…」と率直に申し述べ、フラットフロアに立つ彼らは全員の背丈がまるで揃って矮小で、客席の床几からは奥の子の顔が殆ど見えてこなかった。それでもただ一つ、現在の私たちが彼らのことでよく知っているのは、若干の出入りはあったにせよ、今回の第50回定期演奏会を支えたのは2年後の彼らだったということだ。定演のステージ袖でスタンバイするアルト団員へ仮に総動員をかけ「2008年の夏に六義園のコンサートで歌ったお友だち?」と尋ねれば、「この子が?!」と思うような低学年の団員を含めて間違いなく全員の挙手があったはずだ。「僕はそのときは未だ入団していませんでした」という団員がほとんど居ないことに驚かされるはずである。着用ユニフォームは現行の夏のスタイルとまるで違っていたのに、あの夏の少年たちは今日ここで歌っていたのだった。

続いて2008年の秋口、そういう彼らにもついに転機が訪れた。優秀であるかもしれないがステージ経験が決して潤沢とは言えないひとりの男の子がソプラノ最上段左端角のエッジに配属され定位置についたのである。配置は体格を見込まれたものであったはずだが、声質はアクリリックで硬質な、セクション違いのメゾソプラノ系だった。本人がはたしてそれを望んでいたものなのか、「わが少年時代の全てを合唱に捧げて悔い無し」と思っていたのか、客席には判らない。腫れぼったい目をした鼻閉気味のスマートな少年が、そこそこの経験を積んだ僚友に混じり下級生や新入団員たちがわんさか群れていたソプラノ・パートのニューリーダーを期待されてそこに立った。こうして彼がレギュラー位置になる最後列のコーナーから団員たちのユニフォームの背中をまぶしそうな眼差しで見下ろし眺めまわしたとき、フレーベル少年合唱団に劇的な変容のときが訪れた。あたかもコーナーのキマったルービックキューブがカタカタと音をたて突如として完成して行くように、その人選がチームとしての合唱団を一挙に確固として魅力的なものへと止揚させていった。ソプラノ声部は安定を取り戻し、リードパートに必要で十分な声量を、我が世の春と充実を謳歌しはじめるアルト声部とのバランスの中で獲得した。たとえステージ経験は豊富でも外見上は小さな小学1年生というカルメン君を遊撃手としてソプラノからメゾまでのワイドレンジの中で使えるようになった。アルトの少年たちはパートのカラーとして押し付けられていた「ソプラノの顔つきをしたアルト」という不自然きわまりない立場から解放された。こうして彼らが少年らしい立ち姿で自分たちの歌を歌うようになると、団員各自の持ち味がステージ上で鮮やかに発現しはじめた。その日から2010年までの2年間、彼はくる日もそこに立ち続け、歌い続けた。フレーベル少年合唱団の歌声が、2008年の夏以降、格段に面白く魅力的になったのは当時の定演レポートにもはっきりと見て取れる。2008年定期演奏会も佳境にさしかかったパート3、ついに彼は期待の中、年を置いて復活したソロを担当した。精悍なボーイソプラノの立ち姿をマイクの前で披露し「すっかり面白くカッコよく変わったフレーベル」を客席へと印象づけた。記念すべきその曲は甘美な別離と追慕を歌いあげる『アリヴェデルチ・ローマ』だった。背後に控えた合唱団は「さようなら!ローマ!」と元気な嬌声をあげつつ、新しい航路へと舵を切ったのだった。

今夕、50回定期演奏会の開幕ベルチームにもはやアリヴェデルチ・ローマ君の姿は無かった。
きりっとした彼の呼号が聞けなかった理由は開演5分も経ず、明らかになる。定演オープニング恒例、フレーベル少年合唱団の「団歌」が演奏された後、年度リーダーのステータスに恥じない頼もしいきちんとした印象の一人の団員が毎年開会宣言のMCを担当する。当夜、ついに進み出てきたのはアリヴェデルチ・ローマ君だった。持ち味は不変だったが男の子の声は変調をきたしており、台詞が嗄声したり裏返ったりしないよう注意深く組み敷くがごとく留意して話す姿が印象に残った。メインキャストの数名の団員を1日にいくつもの役柄で重複して使う事の多い現在のフレーベル合唱団の中にあって、50回定演を通じ、彼が聴衆の前に一人で立ったのはこれ1回きりだった。

ボーイソプラノとしてのこの団員の姿は唯一、非売品『ファインプレーを君と一緒に~Go!Go!ジャイアンツ~』(2007 8164P-8164)のCDジャケットにほんのチビ団員同列の小さな扱いで写っているにすぎない。日本通運の環境CM『環境を守る仕事』篇の冒頭メインボーカルを担当したのはカルメン君の方だった。結局、彼のソロの歌声はCDにもCMにもならず市販されたものとしては全く残らなかった。だが、彼の率いていたチームの歌声は少年らしいひたむきさに溢れ底抜けに楽しく出色だった。この数年間、フレーベル少年合唱団が彼の先導によって勝ち得た「K君トーン」とも呼ぶべき先鋭的な音色は、ディズニー映画『魔法にかけられて』(日本語吹き替え版)の冒頭に歌われる「真実の愛のキス」や「デストロイオールヒューマンズ!日本版」のテーマソング(セガ)、実写版『ゲゲゲの鬼太郎:千年呪い歌』(松竹)主題歌のあたりから次第にハッキリとした形をとりはじめ、2009年発売のDVD『アンパンマンとはじめよう! お歌と体操』のシリーズで明確なものとなる。2008年制作のCM『CHARMY(チャーミー)泡のチカラExtraClean(エクストラ・クリーン)「ロボット篇」』(ライオン)に聞かれる極めて真摯でドラスチックな歌声は、ここ3年間のフレーベルのトーンで仕上げられた代表的な仕事である。アリヴェデルチ・ローマ君の声は今後いかに変わっても、彼が根幹を作り、率いた部隊の歌声は、こうしてカタチあるものとして「フレーベル少年合唱団」の名のもと、永久に残ったのである。


天馬と不死鳥と明日~厳しい局面の中から

2010年10月。定期演奏会の開催までついに1ヶ月の猶予をきり、例年秋口に少年たちがステージ上で繰り広げる定演の広報が今年は全く行われないことに、さすがのコンサートリピーターたちも首をかしげはじめた。野外コンサート等で配布される定演のチラシも一向に姿を見せず、そうこうしているうちに10月もおしつまってようやく会社のサイトにエフェメラのコピーが掲載され、英文タイトルに一見して判る誤植があったことから遅延が判明した。団員配当のチケッティングは11月にずれ込み、合唱団が出演ステージで初めて定演広報を打つのはカウントダウン2週前を切る11月5日のアルカキット錦糸町のクリスマスイルミネーション点灯式でのことになる。  
   
全てのことがらが滞っているように見えた。例年夏には仕上がっているはずのプログラムナンバーを、少年たちは秋になってもなお危なっかしく自信なさげに綿あめのような声量で歌っている。『君はペガサス(1991)』『フェニックス(1989)』『Let's search for Tomorrow(1989)』…今回パート1で歌われた曲群はそもそも昭和時代に学校教育を終えた人々には馴染みが薄いものである(最近の中学校の合唱祭プログラムのようだ(笑))。ブツ切れでピッチに不安を残す子どもらの歌を最後まで聞き届ける気になれない六義園の聴衆は途中から次々と歩き去ってしまう。夏の段階で合同練習のため現役団員たちの歌声を聞かされたOB諸氏は(1980年代末からの危機的状況の中で少年たちに寄沿って歌った経験を持っていてさえもなお)、今回「…これはちょっとマズいことになった」と焦慮したに違いない。…『ハレルヤ・コーラス』?OBは蚊の鳴くような現役諸君の声にどう対峙するつもりなのだろう?いっそのこと『アヴェ・ヴェルム』『大地讃頌』も四部合唱に?…トンデも無い!危険すぎる!元・弾丸ボーイソプラノの男声陣にどこまでセーブを要求しようというつもりなのだ?!以前、六義園枝垂桜前に並んだ少年たちの声で、ハレルヤコーラスの再リメイクを聴いた。合唱に少しだけ力を入れているミッション系小学校の4年生のあるクラスの男子だけを集めて歌わせました…と、そういうレベルの出来でしかなかった。OB会のブログが、現況隊列の遠目の写真入りで「人数が少ない」と諦観の中で紹介した。彼らの状態を知るおそらく多くの大人たちが10月中旬の時点で「50回定演」の安寧な開催を危ぶんだはずだった。

定演当日、フィックスしないローマ君の声と、ほっそり並んだコア団員単列スレスレの少年たちの圧縮された員数を見て観客はさらに震え上がった。彼らがもし定演前最終の11月のアルカッキットや10月末の六義園のコンサートを聞いていなかったとしたら、歌いだす直前の彼らの姿を憂慮から正視できなかったろう。だが、先月後半の合同練習を都合で欠席したOBたちは、トリフォニーの音響特性を手なづけ大音量で歌う小さな現役諸君の姿を突如ゲネプロで目の当たりにして腰を抜かすほど驚愕したに違いない。…彼らの歌はホンバン半月前を過ぎて何の前触れも無く電撃的に仕上がっていたのである。乾燥してぼつりぼつりと切れていた潤いの無い不自然なマルカート気味のフレーズは『君はペガサス』のどこにも存在していなかった。メンバーの殆どがすでに4年間をトリフォニーの大ホールで歌い、会場の残響やPAのかかりかた、客席への声の届き方を感覚として会得している。正確に聞こえる音長とロングトーンの置き方、流し方を身体で覚えているのである。こうしてナカツギのMCをアルト側から「元気が出ました」君がバトンタッチで担当する。彼の声にも姿にも、もはやあの「アルト・パートのヤンチャな弟分」の面影は伺い知れなかった。甘カワさが抜け、頼もしいものへと変わっていた。2008年夏の団員一人ひとりの成長もまた、現在のフレーベル・パワーの源の一つなのである。かつて退屈すぎて六義園の観客に「人気」とは言えなかったパート1の3曲は様変わりを遂げていた。男の子独特の体臭を感じさせる少年合唱らしい爽快な歌い込みが魅力的で、あっという間の15分間だった。『Let's search for Tomorrow』の彼らが苦手とするコーダの執拗なリフレイン…何回目のリピートなのか混乱してしまい、やっぱり両パートが声を聞きあって幾度も引きそうになってしまうというお約束のニヤリもあったが、パート1は児童合唱の定期演奏会の開幕ステージとして遜色の無いものに止揚されて終わった。


数年後の団員らが私たちに託しに来たもの

パート1の退場からパート2の入場にかけて、合唱団はMCを聞かせながらA組(かつて出演レギュラーの「セレクト組」の下位に属する2軍待機クラスを意味していたが、現在は在団期間がやや短く、実力も分相応のステージ実習中の出演メンバーをさすようになってきている。団員募集要項の記載上は入団テストで振り分けられる2つのクラスの間の線引きは明確だが、毎週の練習時間や場所、通常出演中の配置・ユニフォームや待遇などには特に区別らしきものは見られない。)のステージ衣装の引き抜き(早替え)をおよそ25秒間ほどの短かさで行った。A組団員の衣装替えについては昨年の『カルメン』での手際の良さに驚かされたが、今回すっきりしたベスト・スタイルでシモ手ソデから突然走り出て来た彼らの姿はビジュアル的なセンセーショナリズムを感じさせる。(セレクト組の団員たちは、この間バックステージでレンガ色ブレザーのユニフォームに着替えている)

合唱団は昨年人気の良かったAB組のソロに勢いを得たのか、今年は『おはようゆでたまご』のシュプレッヒとパート・ラスト『とんでったバナナ』のリードボーカルにフレッシュ・メンバーのチームソロを大挙して投入した。春の段階で早々と実戦部隊は組織され、毎月の公開演奏を通じ繰り返し徹底した実地訓練が重ねられた。このためヘビーなファンの中には、当日のソロの誰がどんな声質と発声の仕上がりで、誰がテンポを持ち崩しやすく誰がパートナーとの相性が良いかといったことまで知る人もいる。プチ団員らは気づいていないだろうが、上記の来歴からパート2の曲群はきわめて「六義園の客層」向けに仕上がっているとも言えた。
 恒例の「アンパンマンのマーチ」のかわいらしいインストが奏でられ、B組の幼王子たちがステージセンターに導かれると客席は今年もひとしくほだされて心の底から嘆声を漏らした。上級生団員の存在がある以上、私たちはAB組諸君の愛らしい姿や所作に心を奪われがちだが、毎年の定期演奏会の彼らのステージには、「カワイイ!」ゆえに漫然と聞き流す事のできない重要な見どころも存在している。AB組単独ステージ鑑賞に存在する失念出来ないポイントは、今年のアルト前列メンバーの顔ぶれを俯瞰して帰納するとわかりやすい。日常はポイントとなる役柄やMCなどを殆ど受け持たない低学年アルトだが、彼らの声質やステージで追いつめられたときの立ち居振る舞い・表情というものを私たちは一応心得て知っている。前列アルトのほとんど全員が、過去の定演のAB組コーナーでスポットの当たるキーマン役として起用された経験を持っているからだ。そういうわけで、現在のアルト前列の団員たちというのは、ただ単に低めの声が出やすいといった観点からだけでなく、指導者からの信頼を得て難易度の高いこのパートへと配属されていることに気付く(2010年現在の前列アルトが全員「超イケメンでカッコカワイイ」のは偶然?!…です、たぶん)。メタファーじみた言い方だが、私たちは、未来のフレーベル少年合唱団を聞くために今年も注意深くAB組ステージに耳を傾け、記憶にとどめておく必要があるのだ。


レパートリーの急速な完成

夏休み以降の我々をやきもきさせたプログラム・チラシ・チケット等のエフェメラのデザインは、セレクトチームのステージ・ユニフォームと同じレンガ色の地に墨色でステンシル書体の英文タイトルをあしらった、グラフィティー調の意匠で統一された。ストリート・テイストでインパクトの強いフォントはFROEBELの「F」と「L」の活字を3段で貫通させ(件の誤植は団名とは関係のない部分)、黒みをたたえたカーニングを施すなど今年も出版社の仕事らしいスマートさが光っている。縦に打ち抜かれた2文字のフォルムはコロネードやスラムのアパート群の非常階段・バルコニーの外観を想起させ、昨年の定演エフェメラのテーマが(カルメンの)赤バラだったことから、50回定演では「ウエストサイド物語」をモチーフにしたものであると想像できる(イメージはおそらく映画版『West Side Story』のタイトルロゴからの借用?)。私たち聴衆が、「ウエストサイド」の2曲を心して聞くべきと教えてくれているのだ。
 プログラムは5ステージの構成。各ステージの曲数は、目立たぬよう実に巧妙に間引かれている。彼らの遅々とした仕上がりを計算してのセーブがニュアンスとして感じられる。

ところで、50回定演の曲群が1ヶ月間という極めて短期間のうち劇的に仕上がった理由はいったい何だったのか、ここで考えておきたい。
 有力な手掛かりは、件のアルト・チームを基軸にパート3のステージ上で見出される。彼らが調和的なソプラノの組み上がりに抗って2年前、こつ然と実体化したチームである事は前述した。だが、彼らがきわめてアウトロー的な魅力を放ちつつステージに上っていたが故に、押しなべて短命パートに終わる予感も終始つきまとった。「フレーベル少年合唱団のアルト」が外見上は見るからに質朴な一匹狼の集団ゆえに内部崩壊していくさまを目算するのは決して困難なことではないようにも思われた。2009年の春未き日々、頼もしい最後列のボーイ・アルトたちがドンホセ君やイケメン軍団を除いて隊列を離脱してゆくと、予感は俄に現実味を帯びはじめたかのように見えた。上級生らは一人、また一人とライブパフォーマンスのステージに姿を見せなくなりはじめ、2010年の夏を過ぎて、メインクルーの抜け落ちた合唱団右ウイングは、もはやかつてのアルトの呈をなしてはいなかった。

毎年、「世界の名曲(ポピュラー)を集めて」のコンセプトで打たれるLove, foreverと題されたパート3は、ラテン2曲とウエストサイドの2曲の後にブラックミュージックから1曲の計5曲のノミネート。メインはウエストサイドの「マリア」と「トゥナイト」だけというつましいチョイスだが、当夜歌われた20曲を越える総演奏曲目のちょうど正中には「マリア」が据えられている。プログラム全ナンバーのセンターど真ん中に、キーとなる曲をしのばせておくという手法が垣間見えた。

2曲目から、私たち観客が毎年心待ちにしているリリックなソロの投入が始まった。
3曲目、ウエストサイド物語を代表するラブ・バラード「マリア」のレチタティーヴォを「フレーベル少年合唱団のボーイアルトここにあり!」の無頼さで歌い出したのは、スーパーナレーター君だった。クラクラするほどのテラ萌えのカッコ良さに観客はしばしグーのネも出ない。たおやかで微かな振幅のコントロールされた少年のソロ。だが、朗唱ゆえに彼の「ナレーター」としての声の魅力がホール音響に増幅されて届く。初夏のライブ出演以来、ステージに姿を見せていなかったスーパーナレーター君。定演の隊列へと戻って来てくれていたのだ。私たちは演奏会の分水嶺にあたるこのナンバーを聞き、ようやく当夜のアルトが彼のリードで蘇生されていることに気付く。ソロを終えて帰投した団員の隣に対峙して立つのは北風小僧の寒太郎君の、やはり久方ぶりの立ち姿。この2人のマッチングは見ていても実に痛快だ。ナレーター君の集中度にありがちなワウ・フラッターを原隊復帰したドンホセ君や寒太郎君、「元気が出ました」君、イケメン軍団の諸君が手際よくフォローして鳴らす。カムバックしたこれら上級生アルトが触媒になり、パート全体が二重の意味でビルトイン・スタビライザーの役を果たしている。…近年のソプラノパートはアルトの声量に伍して歌う習慣を経験的に身につけている。身を挺してまでたっぷりと歌おうとするローマ君。彼をかばうよう声を寄せ高らかに歌い上げるアンコール君。彼らに率いられた、真剣な形相のソプラノの少年たち。最後にアタッカを思わせるパッセージのひとくされをカルメン君が安定した「夜のソロ」でさえずってみせる。こんなテクニックを何処で勉強してくるのだろう!TOKYO FM少年合唱団ふうの涼しげな発声がテイストとしても、彼自身の持ち味としても文句無しに発動し見事な出来映えだった。
 「定演1ヶ月前に急激に仕上がった合唱」のカラクリは、「マリア」を通じ、このようにハッキリと実感することができた。また、パート1の冒頭から鳴り続けているキリリとした少年っぽいアーシーな声作りの臨界点が何によってもたらされたのかを学ぶ事もできた。パートエンドで前半の部の最後になる「We are the world」では、一時期のフレーベルが失っていた清楚にブルージーなノリを、芯のある柔軟な小学生の身体から鳴る音質とともに楽しめ、オクターブで聞かせるマイケル・ジャクソン調のサビも高低両パートの統御力からか的を得たものになっている。彼らは定演直前のメンバーの復帰で心からゲンキになれたのだ。彼らの歌声がゲンキだからこそ、私たち聞いている者の心もゲンキになれたのだった。


クリスマスの白 と 長い時代の終わり

「こども店長」こと加藤清史郎の出演する(株)ダリヤのテレビコマーシャル、SALON de PRO「みんなで染めても/泡島なお美さん」篇(15秒)のオンエアが2010年10月に始まった。CMの中で加藤はついに合唱隊員へと扮している。興味深いのはメゾソプラノ前列に収まった第60回紅白歌合戦出場歌手「こども店長」のそこそこに訓練された歌声と、ホワイトを基調にした少年合唱団ふうのコスチュームに身を包んだ姿だった。2001年生まれの加藤の「団員」としてのこの風采は、ちょうど同年代のメンバーが多数所属する現在の少年合唱団の相貌や訴求力と重なるところがある。生成りのベレーにセーラーカラーの軽快なブラウス、映画撮影のために染めたらしいブラウンの髪、純白のフォントルロイ・パンツの裾から白い靴下を覗かせている。トレードマークの赤いブレザーや右膝の絆創膏は無いのだが、微妙に中途半端な丈ではかれた白無地のスクールハイソックスは同じだった。50回定演の後半の部で、フレーベルの団員たちが突如この「微妙な丈ではかれた白無地のスクールハイソックス」に履き替えて登場したのはニヤリであった(使っていないうちに団員の背が伸びた?)。テレビコマーシャルに於ける「少年合唱団のコスチューム」のステレオタイプといったものが、現在もなお白装束のバリエーションに頼りつづけていること(白っぽいユニフォームのアドバンテージは旭化成ホームズの『ヘーベルハウス/みどりのそよ風』篇(30秒)に出演した団員の姿を思い出すと納得がいく)。合唱団が今回、クリスマスソングのステージの符丁として上着に代えてベストをあてるなど、ホワイトの強調は、もはや明白だ(昨年度の定演では、フィナーレからアンコールのB組でソックスを前ぶれなく白いものに履き替えさせている)。そしてまた、このシルエットは2008年夏の彼らの白っぽい立ち姿の記憶へと繋がっていく。

 パート4のクリスマス・メドレーはセレクトのリンガーズをステージ側にフィーチャーして、オルガンバルコニーに脇田先生サイドを配する。一見してフォーメーションから音楽を先読みしやすく、(ベルをキャスティングじか置きで放置する必要も無くなり)、また開幕MCにソプラノのアンコール君の声を起用して華やかな雰囲気を添えるなど、秀逸な演出でスタートした。実質演奏時間10分強のコンパクトなステージながら緩急や明暗を押さえ、フィリング盛りだくさんのブッシュ・ド・ノエルを完食したかのような満腹感を覚える。
 今年はベル担当の隊形をオープンに設定。このため、客席から団員の表情がよく見えるようになり、彼らが緊張の極限でクラッパを打つ姿がいじらしく、胸を打つ。多くのステージで演奏してきた経験からそのフォームはキリリと引き締ってかっこが良い。彼らの持っているベルは保育用品会社の児童合唱団らしく、正式にはハンドベルではなく、ゴム製クラッパの「ミュージックベル」と呼ばれるタイプ。このため、とてもスイートで可愛らしく屈託の無い響きが楽しめる。少年の一途な心に担われた華奢な腕がこれを鳴らすと、クリスマスの朝の真っ白い静かな情景を思わせる音色になるのが不思議だ(アサインメントは一人1本が原則の配当だが、音数の都合なのか両手使いの子もいる。見ていても感情移入できてわくわくする)。
 メドレーでつづられているのは、今年の1月にこちらで紹介したクリスマスコンサートの拙文にあるフレーベル・クラッシックのレパートリーから「ハレルヤコーラス」のみフィナーレのステージに転送し、「おめでとうクリスマス」(正題:We wish you a merry christmas. 1970年代の初頭にJ組の団員たちが「♪おめでとうクリスマス」とケナゲに歌っていた曲は磯部先生がお作りになられた「ツリーをかこんで」というタイトルの作品で、本曲とは全くの別物である)を加えたもの。冒頭の「神の御子は今宵しも」をベルとオルガンのみのアンサンブルで切り出し、ワンコーラス後にいったんベルをタチェットでしずめてから少年たちが歌い出す。この段取りは、リンガーがテンポジュストで演奏できないことのへの巧みなカバーだとは思うのだが、実際の場で聞いてみるとクリスマスプレリュードらしい輝きが招来されて好印象だった。また、10小節目からユニゾンを解く編曲譜を用いているために、曲の途中から件のアルト声部が激萌えの頼もしい低声を繰り出して来るというサプライズ的な攻勢も良かった。続く「きよしこの夜」はリンガーをそのまま1番のソロへ転用。パリ木ふうでアタックの強い高輝度のボーイソプラノ・アンサンブルが鳴り響く間にコーラス隊をステージフロアへと落とし込ませる計算された運び。子どもたちの制服を明るめのものにしているのは、舞台上をクロスして移動する彼らに少しでも多くのサスペンションライトをはらませるためなのかもしれない。かくして「練習した曲を一通り歌ってオシマイ!」というフレーベル少年合唱団の定期演奏会は、ついに終わりを告げたのだ。近年の新譜にあたる「おめでとうクリスマス」はピッチホールドやパッサージオの抜けに不安定があり、アゴーギクも未成熟感を与える。英語歌詞(イギリス民謡)ののっけだけを体よくリフレインして済ましている印象が残り、定番レパートリーとしては歌い込みの余地を残している。「もみの木」は英語の歌詞で歌いはじめて日本語歌詞にスイッチする彼ららしいフォーマット。次の「もろびとこぞりて」とセットで聞くと、昭和時代のフレーベルと現在のフレーベルのトーンの違いや共通点を堪能する事が出来てうれしい。昭和の末、少年たちは「もみの木」を深い頭声から「♪ぼーびーのきー」と歌い、「もろびとこぞりて」を「♪ぶーるぅびどぉー、こずぅーりーてへー」と真剣に奏でていた。今夜の「もろびと…」にも同様のフレージングの切断や息漏れが散見される。50回を記念する定演に、こうした再構築を今の子どもらの「歌」と並列してさりげなく滑り込ませておくのは面白いと思う。「荒野の果てに」でソリスト・チームをリコールしてボリュームをセーブしつつ、ラストの「ジングルベル」で伴奏をピアノとベル・アンサンブルに切り替えて上手につないでいる。「ジングルベル」でやっていることは通常のクリスマス出演のバージョンのものとあまり変わらないのだが、伴奏が生ピアノになったというだけでなく、日頃歌い飛ばしていた日本語が明瞭で丁寧かつ繊細なものになり、集中を伴いチームカラーに統一性が生まれたように思えた。


新旧の団員の見分け方

もろもろの事情からユニフォームの上にぴっちりとコートを羽織った団員があなたの目の前に2名。片方は昭和49年生まれの小学3年生で、もう片方は平成13年生まれの3年生。コートを脱がさずに両君を見分けるのはさほど困難なことではない。所属を聞いて「B組」なら昭和時代の団員で、「セレクト」という回答なら平成生まれに違いない。「団歌」を歌わせて、1番が終わったとたん、突然2番を歌い出したら平成生まれで、1番のあとにファンファーレを抜いた前奏の後半部分を鼻歌で歌って2番に進んだら100%純血種の昭和の子だ。合宿の思い出を語らせてあれこれ珍事件が出て来るか否かを楽しみながら判断する趣向はOB向きで良案に思われるかもしれないが、昭和49年生まれでも小学3年のB組団員に珍事を語れるほどの合宿体験があるとは思われない。
一番手っ取り早く、質問を発することも無く判別するのには、彼らのベレー帽のかぶり方を見ることだ。かつて、日本中の少年合唱団といわず多くの児童合唱団の子どもたちがステージ中はベレー帽着用だった。だが、フレーベル少年合唱団のベレーのかぶり方は、早々にベレーを廃止してしまったLSOTやVBCとともに、「東京の少年合唱団」の名に恥じないオシャレで一見してわかるセンスの良さをたたえたものだったように思う(東京少年合唱隊もビクター少年合唱隊もフレーベルも、それぞれベレーの着帽方法に個性があった)。あなたの前にいる2人の団員のベレー正面に金繍のf字がキラメきながら縫い取られている様は全く同じだ。だが、頭の大きさに比して明らかに小さめの紺ベレーをペタンコのまま後頭部に引っ掛けるようにかぶっている方の子が、間違いなく昭和49年生まれの3年生ということになる。
 
パート5のGreat Memoryを一見して気づくのは、この「ベレーのかぶり方」だった。客席からも垣間見えてしまう舞台裏?OB諸氏が現役チームに向かって「キミらのベレーのかぶり方は俺たちのかぶり方と違うぞ!」と気安く言えない状況があるのではないか?現役団員たちが、先輩方のかつてのベレーのかぶり方を知る由も無いという現況があるのではないか?頭に載くモノは同じ紺ベレーでありながら、両者の間にはあきらかな不連続が感じられる。…パート5は、単刀直入に言ってそういうステージなのだった。
 シフト交替の流れの中、本日のメインイベントの大役MCを担って進み出てきたのはスーパーナレーター君だった!ピリッ、ピリッと切り込む滑舌の良さ。キリリと引き締った子音。ふわりと微かに漏れる男の子らしい甘い音色。総じて明瞭ながら少年の艶を感じさせる絶妙の嗄声。ベネチアングラスをたたいたような余韻。どう見ても動かしてもスポーツ大好きな闊達な男の子にしか見えないキャラクターの強さ。濁りの無い山の手標準語の美しさ…。合唱団が彼を「日本一の少年MC」の確信のもとに投入しているのはもはや明白だ。客席からは拍手とともにどよめきが起こってしまったりするのである。合唱団側がこのステージにどういう位置付けを与えようとしてしているのか、意向はこの人選で明らかにされている。

冒頭の「はるかな友に」のOB隊アカペラは、今回は低声に厚みをつけたサービス精神旺盛な鳴らし方で良く出来ている。「このオジサンたちは、思い出を語りに来たのではなく、現役たちの応援に来てくれているのだ」ということが、男声合唱オンリーの段階で既に相当な説得力をもって客席に届いていたのだった。5年以上のインターバルを置いてOB合唱を聴いた聴衆にとって、この第一声で聞かせた「私たちはここで与えてもらった幸福な少年時代のお礼に来た一団です」という名刺代わりのコーラスは、饒舌で恩着せがましい解説MCなど一切不要にしてくれていた。形勢の悪いパートへの配慮やリカバリー、現在進行中の合唱を正確に把握して統御をかけようとするレスポンス。「これなら、現役たちの合唱も同様にフォローしてくれるだろう」という安心感から、客席は作為無しに「はるかな友に」へとあふれんばかりの拍手を送っていたのだった。

ところが、この頼もしいOB隊が1曲歌っただけでヤッツケ仕事とばかりあっさり撤収していってしまうと、観客の思い描いていた幸せなステージの輪郭は俄にぼやけはじめ、行き先不透明なよくわからないものになってしまう。子どもたちの声に差し戻されたモーツアルトの「アヴェ・ヴェルム…」、「大地讃頌」いずれもここ数年の彼らのレパートリーでありポピュラーで人気のある作品でありながら、なぜこれらの曲が歌われてゆくのかコンサートの流れが見え難い。開演のベルとともに私たちがおちいった、あの、よく分からないがどこか心許ない感覚が、パート5へと還流してくるのである。    
とはいえ、少年たちは実はこの2曲を非常に誠意をもって丁寧に歌っている。「僕はもうどうなってしまっても構わないから、フレーベル少年合唱団の歌を聞く人に届けたい!」という責任感あふれる頼もしい歌い上げで、彼ららしい底力を感じさせてもいる。高低のメインクルーたちが決起して最後の絶唱とばかりぐいぐいと合唱を奮い立たせる。Great Memoryの名に恥じない胸のすくような演奏だったが、ステージの組み立て方の難しさを思い知らされるプログラムだった。


上級生団員の微笑の意味するもの

演奏会最後の口上を担当するのはカルメン君である。彼らしい淡々としたナレーションの運びが印象的だが、明日からのフレーベル少年合唱団を支えて行くのが他ならぬカルメン君たちのグループであることを合唱団はここで示唆しているのである。「ハレルヤ・コーラス」にはOB組の隊列が戻り、少年たちは再度連合を組んで曲を仕上げる。pf、パイプオルガン総動員のトゥッティだが、少年たちの声を引きだすために男声パートが目立たぬようテクニシャン的なふるまいを潜行させていた。ソプラノ側からはローマ君やアンコール君たちに率いられた独自のトーンが立ち上がり、アルト側からはナレーター君を擁した少年らが応酬する。両者間隙の隊列センターを、カルメン君たち中学年グループがマイルドに充填し、King of Kings!へと追い込んで行く。この3年間のフレーベルの歌声が、ここに召喚され、再構築されているのだった。だからこそ彼らはスタートから気持ち良さそうに歌い、アルトの諸君はハッキリとした輪郭のカウンターパートを繰り出す。「とわに!とわに!(and He shall reign for ever and ever)」と各声部がカノンで積み上げる第2テキストのクライマックスに聞こえる団員一人一人の声の収束はもうトリハダもの。あなたの大好きな団員さんの声も明瞭に聴き取れたはずである。3小節の前奏の間、メサイアの慣習から起立をしはじめる観客はここには一人も居ない。今日の演奏が「ヘンデルのメサイア」ではなく、もはや「フレーベル少年合唱団のハレルヤ・コーラス」になっていることを実感できる一瞬だった。

アンコール君がお約束の美声で「アンコールしてもいいですか?」の台詞を高らかに唱え、合唱団がフォーメーションに隘路を渡して隊形を整えなおすとビスの演目が告げられる。緊張感に充ちるスケルツァンドふうの聞きなれた前奏がステージグランドから繰り出され、少年たちの「とっておきの一曲」が「ソーラン節」であったことを知る。この演奏会が「2008年夏の少年たち」からの贈り物であったことを再認識する。彼らはあの夏の日々…降り注ぐ蝉しぐれの中で「ソーラン節」を歌いだしていた。レパートリーは2008年7月の夏休み直前、NET系列の『題名のない音楽会』で公開収録される。佐渡裕の指導のもとハンドクラップの後に腿を打つ独特の演出が施され(同年8月24日地上波オンエア)、曲はライブステージへと戻って来た。出演が彼らの合唱を良い方向に変えたことは、もはや疑うまでもない。合唱団がアンコールの演目筆頭に『ソーラン節』を選んだことは、今回の定演が「あの夏に成立した僕らの隊列」のトータルレビューであったことを暗示しているのだ。だから、団員らの歌はライブパフォーマンスとして見ても実に手馴れていてソツが無い。各自が自分の鳴らしどころをわきまえていてここぞとばかり聞かせて来る。「ライブレコーディング=即・商品化可能」なクオリティーの高さ。彼らのチームの終着点が、ここに示されているのである。

当夜の合唱団を支えた大人たちを加えてオールスターキャストのアンコール2曲目「アンパンマンのマーチ」とオーラスの「団歌(リプリーズ)」にはB組が加わった。合唱は元気いっぱいの我鳴りに覆われ、ヤル気まんまん早とちりのプチ団員もいる。目を奪われたのは、日頃おっかない顔をして歌っている、常に後輩のステージ進行に厳しい上級生団員たちが、B組の可愛らしい粗相を見てもなお安堵し、無言のまま心底ニコニコと隊列を見下ろしたことだった。定期演奏会の最後の2曲は「僕らのチームの終着点」から一転、「明日からのフレーベル少年合唱団をキミらに任せる!失敗を恐れるな!元気に歌え!」という意味合いのものに変わった。終曲が「団歌」になったことは実にシンボリックである。バトンタッチをする側、受ける側、見守る側、…三者の全員がそろって、今歌っているこの曲がまぎれもなく確信を持って「ぼくらの歌」なのだと吟じるのである。
近年の定期演奏会に比べて明らかに短尺の1時間45分(休憩含む)の興行。終演は8時を15分ほど過ぎたあたり。横隊列ごとのバウがあり、それぞれのチームを代表する団員たちが各自の持ち味を生かした呼号をあげ、客席は今年もまた嬌声をあげつつ惜しみない拍手を送った。

フレーベル少年合唱団第50回定期演奏会は、かくして「懐かしむ会」にはならなかった。2008年の夏に生まれ、ローマ君が率い、多くの楽しい団員たちが支え続けて来た素晴らしいチームの仕事がひとまず終わり、合唱団がまた新しいフェーズへと少しずつ流れはじめていることを、記念すべき演奏会終演の余韻は告げているのだった。