一つひとつの悲しみには意味がある。
時には思いもよらない意味が。
どんな悲しみであろうと、
それはこのうえなく大切なもの。
太陽がいつも朝を連れて来てくれるように、
それは確かなことなのですよ。
- エラ・ウィーラー・ウィルコックス -
愛人・・・
この言葉、どうもふうちゃんは好きになれません。
というのは、この言葉、人間としてはもっとも人間らしい感情や状況を表現する言葉であるはずなのに日本においては、「愛人」から受けるイメージはどこか薄汚れたものとして暗示、受けとめられているからです。
例えばですが、当事者同士の間で、どんなに直向きでやるせない愛情が交わされていたとしても、世間はそれを冷たく「愛人」で片付けてしまいます。
ましてや、双方か或いは片方かが既婚者であった場合には、もはや彼らの間では愛が芽生える余地などないなどと、人間性を頭から否定し去る、・・・こんな理不尽なこと、いったい誰が何時考え、誰が何時決めたのでしょう。
そこでふうちゃん、ちょっと調べてみました。
まず注目すべきなのは、「恋人」は「こいびと」であって「れんじん」とは言わないことです。
つまり「恋人」は古くから日本にあった和語(やまとことば)で、「愛人」は、西洋の「sweetheart」「lover」などの単語を幕末の日本で訳出する際に生まれた和製漢語ではないかということです。
事実、文献にもそのような記述があります。
また、戦前の日本では、「愛人」という語は文学作品などでも多くの使用例がありますが、ここでの「愛人」は「恋人」とほぼ同義で使われています。
これは格調のある文語調の文章では漢語を使うことが好まれる傾向にあったため、和語の「恋人」ではなく「愛人」が使われる機会が多かったと推測します。
それが戦後になって文語体の文章がほぼ絶滅して口語体での著述が一般化すると、話し言葉としては浸透していなかった「愛人」が書き言葉としても「恋人」に完全に駆逐されることになります。
だかr、行き場を失った「愛人」が「情婦」「二号さん」の意味で用いられるようになったのでは・・・と。
そして「情婦」「二号さん」という単語ではそのままだとあまりにも露骨、だから一見してニュートラルな「愛人」という単語に置き換えられた、・・・不貞行為を「不倫」と言い換えるようになったのも同じ理由からでしょう。
・・・ということは、元を戻しますが、「愛人」が「情婦」「二号さん」的意味合いで使われるようになったのは戦後しばらくしてから、「情婦」「二号さん」を持てるくらいの余裕のある人によって決められたのではないかと思うのです。
ちなみに中国語圏の中で、「愛人」を「結婚相手、配偶者」の意味で使うのは主として中国大陸に限定されます。中国共産党の支配下で従来の「先生(=夫)」や「太太(=妻)」などの語が「封建主義的で非革命的である」とされ、中性的で夫にも妻にも使える「愛人」という(日本から輸入した)新しい単語で代替することが推奨された、という歴史があります。ですので台湾や香港などでは「愛人」といった場合、婚姻関係にない男女のことを指すのが普通です。
それにしても、とても愛くるしいテレサ・テンさん、・・・でも何故かその目はいつも哀しそうでした・・・よね。