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みゅーじっくふうちゃんねる 

~show我が青春、涙からもらった元気~   

灰色の瞳 森山良子

2013年11月01日 | 森山良子




「女心」とかけて、「秋の空」、と解きます。
「その心は、どちらも、移り変わりやすいもの」です。

いわゆる、なぞかけ風に言えば、こんな感じになるのでしょうか。

しかし、「女心と秋の空」という言い方は、いつもよく聞きますから、なぞといってもこのなぞは、あまた多くの名探偵が興味を示すことも、耳目を集めるほどの目新しさもありませんか・・・。

ところで、この「女心と秋の空」というのは、実は男尊女卑の思想が強かった明治時代以前には、「男心と秋の空」といったそうです。

浮気は男の甲斐性なんて言葉が生きていた時代、あるいはもっと遡って通い婚なんて習俗があった時代には、変わりやすいのは男心というのもうなづけるのかもしれませんね。
さらに、今の時代、これを読んでいる方の性別によっても、そのうなづき方は異なるのかもしれません。

いずれにしろ、「女心と秋の空」であれ、「男心と秋の空」であれ、「女心」と「男心」は変わっても、「秋の空」の方についてのイメージが変わらないのは、「秋の空」が変わりやすいということが、いつまでも変わらないからということでしょうか。
ややこしいけど・・・。(笑)

そのことはそれとしても、北日本の空はこれから毎日が「灰色の空」となります。
もちろん、青空が覗く日が無いわけではありませんが、圧倒的に灰色の空が続くのです。
哀しい色、そう灰色の瞳のように・・・。

枯野に咲いた小さな花のように
なんて淋しいこの夕暮れ
とどかない想いを抱いて
なんて淋しいこの夕暮れ
とどかない想いを抱いて
私の大事なこの笛のうたう唄を
あなたは聞いているのだろか
どこかの小さな木の下で
あなたは聞いているのだろか
どこかの小さな木の下で
澄んだ声色で響くこの笛
あなたは聞いているのだろか
泣きくたびれた笛の音を
あなたは聞いているのだろか
泣きくたびれた笛の音を


山は夕暮れ夜が闇がしのびよる
あなたは何処にいるのだろか
風の便りも今はとだえ
あなたは何処にいるのだろか
風の便りも今はとだえ
山の坂道一人で歩いて行った
あなたは今も唄っている
彼方の空に声が聞こえ
あなたは今も唄っている
彼方の空に声が聞こえ
一人ぼっちで影を見つめる
あなたは何処にいるのだろか
風の便りも今はとだえ
あなたは何処にいるのだろか
風の便りも今はとだえ
ララララ…………


森山良子 ふたつの手の思い出

2013年11月01日 | 森山良子




ふたつの手を握りあい
肩よせて歩いた
すみれいろの夕暮れも
いつか消えていった
星をかぞえて祈っていた
幸せなふたりはどこへいったの
ふたつの手のぬくもりが
私をはなれない

ふたつの手はほどかれて
風に散っていった
並んで歩いた道を
ひとりで歩いてく
このさびしさがやがていつか
私を大人にかえるということを
ふたつの手の想い出が
わたしに教えてる
わたしに教えてる



妻が40代に入ったころです・・・

当時、ふうちゃんはゴルフ場とその関連施設である会員制ホテルの再建に取り組んでいて、連日、休む暇もないくらいの忙しさで働いてました。
昼間はゴルフ会員への召喚期限延長のお願い、夜はホテルの音楽イベントのプロモートと、本当に大変でした。

そんな時です、妻に癌が、それも末期に近い状態と医師に告げられたのは・・・。

ところで、もし、今、「お墓(あの世)に持って行きたい歌は?」と聞かれたら、ふうちゃんは躊躇無くこの歌を選びます。

それは、妻の癌告知後のふうちゃんたちの生活が、まさに、この歌詞を通して浮かんでくるからです。

ところで、ある方のブログで、やはりふうちゃん同様に、もし「お墓(あの世)に持って行く歌は?」と問われたら、自分は躊躇無くこの歌を選ぶ、と書かれていたのを拝見しました。

その方は理由を書かれてはいませんでしたが、この曲は、歌詞、メロディー、そして森山良子さんの声質と相まってどこかそういう感情を促す何かがあるような気がします。

作品は1967年のリリースで、森山良子さん2枚目のシングルです。

.輪舞(ロンド) / 森山良子 .

2013年11月01日 | 森山良子




想い出通りを二人して

手を絡ませて歩いてこ

泣いて笑って夢を見て

明日への歌を口ずさみ

肩よせ合って歩いてこ

by ふうちゃん




ロンド(Rondo)と言うのは、音楽において、ある同じ旋律(主題)が、異なる旋律を挟みながら何度も繰り返される楽曲形式のことです。

A→B→A→C→A→D→A・・・

とまぁこんな具合にです。

わたしたちの人生でも、様々な異なる旋律を挟みながら、「愛」という主題が育まれ、成長していっているのかも知れません。

・・・・・そう、夫婦・恋人でも親子・友人でも、素敵な輪舞曲のように・・・・・

森山良子・いつも通るこの道

2013年11月01日 | 森山良子




いま心を打ち明けたら

あの人喜んでくれるかな?

でも・・・

それで全てを失うとしたら・・・

膨らんだ恋心

この胸 開いて見せてあげたい

春を告げる小鳥の囀りを

聴きながら

そっとつくため息が哀しい

by  ふうちゃん



「トマトに塩をかければサラダになる」・・・・・

これは或る料理人が言った言葉です。
確かに、トマトはそのまま食べれば、ただのトマトでしかありませんが、スライスしたり塩をかけたり、色んなドレッシングをかけることにより、その味はいかようにも変化し、また美味しくいただけますよね。

恋愛も、ちょっとした心の持ちようで・・・・・・・ネ。

森山良子 リトル・バード

2013年10月28日 | 森山良子




わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
            「私と小鳥と鈴と」  金子みすゞ



人と人との関係というのは、一度拗れると、なかなか元に戻るのは難しいものです。
親子、兄弟といった血縁関係でさえもそうなのですから、友人、恋人、夫婦のように基本的には他人からスタートした関係などではなおのことだと思います。

ふうちゃんも、勿論、人間関係において、拗れたことは何回もあります。

ただ、ふうちゃんの場合、拗れた糸を解く作業はしない、つまり、短い人生、拗れた糸を解く作業に時間を費やすより、新しい糸を紡ぐほうがマシと考えるタイプですので、そのことで疲れるといったことは殆んどありませんでした。

もっとも、これは性格の問題、誰もにあてはまることではないのですが・・・・・。

ところで人間関係において、拗れるというのは、常態的に素直なやり取りが出来なくなってしまう関係のことで、一時的に招く誤解とか思い違いとは、そもそも違います。
ですから、元に戻すというのは最初まで戻らないといけないということです、まぁPC的にはデーターの初期化?。
しかも、自分だけではなく、相手と共に・・・・・

これは容易ではありませんし、寧ろ殆んど無理のような気がします。

だから、人間関係においては拗れたからと言って何時までもクヨクヨしたり悲しんだりはしないことです。
出会いがあるから別れがあるのだし、別れがあるからもっと素敵な出会いを見つけられる・・・・・かもしれない。

もともと人は違った人格、

すずと、小鳥と、それからわたし、
     みんなちがって、みんないい。


違った糸をまた紡ぐ・・・です・・・・・かぁ^^