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みゅーじっくふうちゃんねる 

~show我が青春、涙からもらった元気~   

夢のつづき 村下孝蔵

2013年10月30日 | 村下 孝蔵




夢とは、睡眠中に起こる体感現象の一種なわけですが、人によってさまざまです。同一の人でも知覚する現象は千差万別・・・

「えっ、わたし最近は夢なんかみないわ・・・」

あらあら、それはお年のせいではございませんこと。(笑)

そうなんですよね、夢は記憶を整理するときの副産物、感情的な経験をした際、その記憶を整理するために見るものなんです。
つまり、新しい経験がなくなると記憶整理もなくなり夢を見なくなると言うわけです。
深い夢を見たければ、新しい経験をして感情的になればいいのです。
燃えるような恋をするのもいいし、頭の中でなかなか整理できないほど、色んなことを経験するのも効果的です。

とはいえ、夢、そのメカニズムについては現在でも不明確な部分が多く、心理学者・神経生理学者などの間では今も研究対象とされています。

夢は浅い眠りのとき見れて熟睡時には見れない、いや、熟睡時にも見れる、夢を見ているときには自分で夢を見ていると自覚できない、いや、夢の内容もコントロールすることが出来るんだとか・・・意見は様々・・・

そうだとすれば、夢のつづきはもしかすると見ることもありえるのかなぁ~って思ってしまいます。

しかし、これが体感現象の夢ではなく、未来への憧れとか期待、そういうような夢ならば、心の持ちようでいくらでもコントロールできますよね。
だとしたら持たない手はありません、お金がかかるわけではありませんし、勿論、10%の消費税も要りません。(笑)

「若い頃は夢を見続けていたけど、今はなぁ・・・」なんて、思っていませんか?

夢のつづきはまだまだ見れます、それは夢に限りがないからです。人生が続く限りは・・・ネ!

村下孝蔵 やさしい瞳

2013年10月30日 | 村下 孝蔵




暫くは五月の風に甘えたし
                                   
                         柳家小満ん



さくらの花びらが葉桜に変わろうとするのを待っていたかのように、草木の緑もすっかり色濃くなってきましたね。

ふうちゃんも、若いときには草木の緑など目もくれていなかったような気がしますが、年齢を重ねてくる毎に、そんな緑に目や心を奪われるようになってきています。

今日は亡き妻の命日、・・・・・

深夜に逝った妻に朝まで寄り添い、疲れた身体に朝の刺激を与えようと、ふと外に出てみると回りの草木は雨あがり特有の緑を光らせていました。

そして、そんな緑をさらさら洗うように吹きわたってきた風の心地よさ、・・・今も脳裏に貼り付いています。

寒くもない、暑くもない、薫るようなさわやかな風に身も心もあずけて、いつまでもそうしていたい、・・・「甘え」ていたい・・・・・・・・そんな「五月の風」。

花れん

2013年10月30日 | 村下 孝蔵




もしも 花びらを集めて 

       青空に 心をかいて

       遠くのあなたまで そのまま 

       伝えることが できたなら



       たとえば 白い花ならば 

       寂しくて 泣いていますと

       紅い花なら 元気ですと 

       教えられたなら・・・・・・



離れ離れで暮らす遠距離恋愛・・・・・・

その最大の敵は、物理的、心理的距離であり、その距離によって発生する最大の問題は、やっぱり寂しさに尽きます。

遠距離恋愛の破局の原因の多くは浮気や心変わりですが、それは大抵、寂しさに負けて近場の異性と距離を縮めた結果、という状況によって生まれます。

寂しさに負けた時、遠距離恋愛は最悪の結果で終えることになるのです。

でも、ふうちゃん、それはそれでいいと思っています。

所詮、それで終わる恋愛なら、それだけの感情でしかなかったと思えば、・・・だからです。

遠距離恋愛の良さ、それは或る意味、恋慕の蓄積にあるのかも知れません。
いっぱい貯める努力も必要、・・・・焦らずコツコツと・・・そうナノデスヨ、にゃぁ~!!(笑)

村下孝蔵「歌人」

2013年10月30日 | 村下 孝蔵




わたしは何時も求めてた

それは 愛されること愛してもらうこと

それが幸せなんだって信じてた

そして、信じて待ったし夢もみた

でも 、いつも傷つきいつも泣く

何か忘れていなかった?

そして今 ようやく気が付いた

そうだ わたし誰も愛したことがなかったのかもと

愛したつもりではいたけれど

本当は 誰も愛したことがなかったのかも・・・

       by  ふうちゃん





早いもんだね時が経つのは
別れて半年過ぎた

彼はまだ、彼女の声のする街角に、帰る家を見つけたいと思って、彼女の足音を探しています。
でも、もはや、彼には、足音を探すどころか、雨やどりできる場所すらも、その街角には見つけることが出来ません。

今も時々あの店の前通ればお前がいそうで

彼女は足音を、元彼には、聞かせたくないのでしょう。
すでに、彼女の心は、元の彼を忘却のかなたへと追いやった遠く離れたところに住んでいますから。
しかも恋愛上手の彼女は、こんな場合、抜き足差し足忍び足と、足音を立てずに、立ち去る忍び術には長けていました。 
もっとも立ち去る者だけが美しい~かは、ともかくとして。(笑)

おかしいもんさ変わらぬ癖
こんな淋しい夜は
お前の代わり 夜風誘って
今夜もあの日の店

そして、彼女が肩を抱かれている今の彼は、彼とは似ても似つかない男性・・・・・なのかも知れません。

ところで、別れた人が、自分とまったく似ていない人と付き合いだしたときに抱く感情には、ふた通りあると思います。

もし、自分と似ていなかった人だとしたら、相手のほんとうの好みは、やはり自分とは違っていたんだと、落胆するとともに、諦めの感情が生まれます。

もし、自分と似ていた人だとしたら、相手に嫌われたのではないという慰めになるとともに、どうして自分では駄目だったのか、という悔悟の念が生じます。

でも、まっ、どっちにしても、終わったものは、終わったと、考えないとあかんのですけどね。(笑)

いずれにしろ、恋愛関係にあろうとすれば、同じ街角、同じ家に住んでいる必要があります。

恋愛を大相撲の取り組みにたとえてみれば、このことが、分かりやすいかもしれません。
・・・と言っても、ヘンな想像しないでね。(笑)

つまり、同じ街角、同じ家に住むとは、同じ土俵に上がって取り組むことです。
もし、同じ土俵に上がらなかったとしたら、それはひとり上手ならぬ、一人相撲になってしまいます。(笑)

あっ、そこのご主人!?
同じ土俵に上がるといっても、急に、ベルトを緩めて、ズボンを下ろさないでくださいね。(笑)

あっ、そこの奥さん!?
奥さんも、いきなりスカートのファスナーを下ろさないでくださいね。せっかく無理して、力づくで押し込んで、ファスナーをひっぱりあげていたのに。(笑)

もちろん、同じ土俵に上がると言っても、これは何も同棲していなければならないということではなく、遠く離れていても、どこか共通の価値観や、感性なり、思考回路を持っていなければならないということです。

近くにいても、同じ土俵でなく、違う土俵、つまり初場所と春場所では、取り組みが組めません。(笑)
これを「場所をわきまえる」と言います。(ウソ笑)

まして土俵でなく、隣のリングに上がっているのであれば、相対(あいたい)することは不可能です。
まあ、不自然な異種格闘技のイベントでもすれば、可能かも知れませんが。(笑)

いくら飲んでも酔えない心
背中に隠しては
歌えよ ほら 歌うよ
お前の好きな歌

そう、そして、すでに、別な土俵、別な家に住んでしまった二人には、それぞれの道を歩むしか術(すべ)はないのです。
・・・・・・・辛かろうが、切なかろうが・・・・・・。


村下孝蔵「幸せの時間」

2013年10月30日 | 村下 孝蔵




失敗する可能性のあるものは、失敗する。
(If anything can go wrong, it will.)

これは、全米でベストセラーとなり、1993年(平成5年)には、日本でも翻訳されて、ベストセラーになった、「マーフィーの法則 」という本の冒頭に出てくる有名な法則です。

もちろん、法則と言っても、あの難しい物理や化学の法則のような、科学的な検証に耐えうるような法則ではなく、むしろ、アイロニーに富む警句や、シニカルな格言と、気楽に捉えたらいいんですよ。

そうですねぇ~、例えれば「失敗は成功の元」の逆バージョン的意味とでもいいますか、「失敗は失敗につながり、失敗を繰り返してしまう」といった、もうひとつの真理を示しているものだと考えていいのです。

ほら、日本にも諺として昔からありますよね、「二度あることは三度ある」と、あやまちや、よくないことが、必然的に繰り返される傾向にあるということといっしょなんです。

とはいえ、逆に「三度目の正直」、なんて言葉もありますから、やはり、人生は、ちょっとやそっとで捨てたものじゃない・・・・のかもですけどね。(笑)

でも、まあ、捨てる神あれば拾う神あり、拾われてリサイクルされるのも、また人生なのかもしれません。(笑)

 
   
   どうぞあやまちは 二度とくり返さずに 

   あなたは必ず しあわせになってください

   愛する人とめぐり逢えたら 抱きしめた腕を ゆるめてはいけない

   生きる喜び人を愛する喜び みんなみんなあなたが教えてくれた

   風は移り気 身を任せてはいけないよ 

   時を越えて変わらないのが愛だよ

            「しあわせについて」  さだまさし



「抱きしめた腕をゆるめてはいけない。」を、「マーフィーの法則 」流にアレンジして言えば、「抱きしめた腕をゆるめてはいけないと思ったときには、すでに抱きしめる対象は失われている。」とでもなるのでしょうか。(笑)

「時を越えて変わらないのが愛だよというときには、ほとんどの愛の場合、賞味期限は切れている。」と、「マーフィーの法則 」なら、やっぱり、こういうのでしょうか。(笑)

確かに結婚式などで誓う「時を越えて変わらない愛」などというのは、多くは偽善であるか、そうでなければ、慈善です。
いわゆるボランティア。(笑)

しかし、愛というものが、人のさまざまな思念や、行動の源となるものであると考えれば、愛はひとつのエネルギーだと考えることもできます。

そして、エネルギーだすれば、「マーフィーの法則 」よりも、もっと有名な「物理の法則」を適用した方がいいかも知れません。

そう、いわゆる「エネルギー不滅の法則」ですね。

すなわち、エネルギーは形を変えこそすれ、決して無くなることは無いという法則です。

愛というエネルギーは、形はかわろうとも、永遠に残るものであるともいえます。
しかし、愛というエネルギーが、憎しみというエネルギーに変わることも、よく知られているところ、・・・そして、それをコントロールできるのも、また人です。



     今度生まれてくるとしたなら
     やっぱり女に生まれてみたい
     だけど二度とへまはしない
     貴方になんかつまづかないわ
                             「恋」 松山千春

「なぁ、オレは生まれ変わってもお前を選ぶけど、お前はどうや?」

「うちは、勿論、別なひと・・・・・そやなぁ、誰がイイやろ・・・」

「冷たいやっちゃなぁ~、オレのこと嫌いか?」

「あはは、嫌いなら、こんな夫婦してへんわ・・・・・でも、生まれ変わったら、やっぱり・・・」
                ~~~ふうちゃん夫婦のかっての会話


生まれ変わっても愛し合いたいというのは、永遠の愛、理想的な愛ともいえますが、不完全燃焼のまま終わったものという捉え方もできます。

生まれ変わったら、もう巡り会いたくないというのは、なにか愛の変節だと捉えることもできますが、完全燃焼したからこそとも、考えることができます。

そして、それは、必ずしも、どちらがしあわせなのか、といえることでではないということです。

もっとも、最近は自己を中心において愛を叫ぶだけのような、じぶんだけがしあわせであればいいという風潮も広がっています。

しあわせについて、もちろん、自分自身のしあわせについて、想い致すことは当然です。

そのうえで、相手のしあわせ、そして、みんなのしあわせについても、気がかり、気遣うことの大切さを、この「幸せの時間」のやさしいメロディーラインの歌から感じ取っていただけたら、ふうちゃんも、しあわせです。(笑)



夢のつづき 村下孝蔵

2013年10月25日 | 村下 孝蔵




夢とは、睡眠中に起こる体感現象の一種なわけですが、人によってさまざまです。同一の人でも知覚する現象は千差万別・・・

「えっ、わたし最近は夢なんかみないわ・・・」

あらあら、それはお年のせいではございませんこと。(笑)

そうなんですよね、夢は記憶を整理するときの副産物、感情的な経験をした際、その記憶を整理するために見るものなんです。
つまり、新しい経験がなくなると記憶整理もなくなり夢を見なくなると言うわけです。

深い夢を見たければ、新しい経験をして感情的になればいいのです。
燃えるような恋をするのもいいし、頭の中でなかなか整理できないほど、色んなことを経験するのも効果的です。

とはいえ、夢、そのメカニズムについては現在でも不明確な部分が多く、心理学者・神経生理学者などの間では今も研究対象とされています。

夢は浅い眠りのとき見れて熟睡時には見れない、いや、熟睡時にも見れる、夢を見ているときには自分で夢を見ていると自覚できない、いや、夢の内容もコントロールすることが出来るんだとか・・・意見は様々・・・

そうだとすれば、夢のつづきはもしかすると見ることもありえるのかなぁ~って思ってしまいます。

しかし、これが体感現象の夢ではなく、未来への憧れとか期待、そういうような夢ならば、心の持ちようでいくらでもコントロールできますよね。
だとしたら持たない手はありません、お金がかかるわけではありませんし、勿論、10%の消費税も要りません。(笑)

「若い頃は夢を見続けていたけど、今はなぁ・・・」なんて、思っていませんか?

夢のつづきはまだまだ見れます、それは夢に限りがないからです。人生が続く限りは・・・ネ!

「しゃぼん玉」村下孝蔵

2013年10月23日 | 村下 孝蔵




人生の不条理に涙しながら 

それでも 人は命をつないでいく

それは・・・

いつか こわれて消える命でも
 
精一杯 屋根まで飛ぼうとする

あの しゃぼん玉のよう

               by ふうちゃん



「幸せいっぱい、胸いっぱい」で結婚しても、生涯添い遂げられるカップルは半数以下・・・

「何でやねん」というわけですが、考えて見れば赤の他人同士が、それまで何回も辿り寄せては切っていた「赤い糸」を無理に切らずに紡いだとしても、時間の経過とともにその布が色褪せていくのは仕方ないことかも知れません。

こう書きますと、「結婚なんて」ということになり、ますます婚期が遅れ、婚期を逃し、やがて「結婚なんて」が「結婚さえも」になりそうなので、ここで「生涯添い遂げられる」秘訣の一つを伝授したいと思います。(笑)

それは、結婚しても他人性を素地として、それを崩さず保ち続けるということです。

自分の全てをさらけ出せば、相手の全てを知りたくなるのが人情、・・・・・

そして、知ってしまえばもともとが赤の他人、長い人生、飽きも生まれますし、新しさを他に求めたくなるのも、これまた人情です。

だから、「君といつまでも」のためには「他人でいつまでも」ということが大切なのです。(笑)