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みゅーじっくふうちゃんねる 

~show我が青春、涙からもらった元気~   

ひとり上手 .

2014年01月05日 | 中島 みゆき




プラトニックな愛を 愛と信じたあのころ

肉欲だけが愛と感じたあのころ

やさしく触れ合うことが愛と思う今・・・・・

それぞれの季節に それぞれの愛

それぞれの時に それぞれの愛

             by  ふうちゃん




人は、思春期から青春時代の一時期にかけて、きわめて純粋に精神的な恋愛、いわゆるプラトニックな恋愛が、唯一、至上のものとする傾向にあり、・・・いや、あった、・・・心を求めるのは純粋であって、体を求めるのは不純であると考えるものです。・・・いや、考えたものでした。(ふうちゃん回顧)


まあ、もっとも、まったく、はなっからプラトニックなんて求めたり考えたりしない人も、いることはいるようですがね。(笑)

そして、そんなストイック(禁欲的)な恋愛は、ときとしては、健全な身体的発育を遂げた男女の間では、自虐的なまでの煩悶を生じさせることにもなります。

それがまた青春時代のあかし、ほろ苦く淡い思い出につながるものなんですよね。

しかし、たとえば禁欲的とされる仏教の世界においても、心と体のことを、色心と名付けて、「色心不二(しきしんふに)」と説きます。

色心不二とは、色心、この二つが互いに関連しあい、二つに分けることが出来ないという意味であり、心と体が、決して、別々にあるものではなく、一体としてあるということを説いてます。


つまり、簡単に言えば、「好き同士の男女が結び合うということは、そうそううるさく問うもんじゃないよ」と仏様も仰っておられるということです。(笑)


いえ、なにも、皆様におかれましては、すっかりと縁遠くなった恋愛沙汰の色っぽい話としてではなく、病は気からという言葉から、気心不二として考えていただいても、ええ、結構でございますとも。(笑)


そして、輪廻転生を説く仏教では、過去世、現世、来世の三世にわたり、永遠に続く生命の連続性を説いてます。
来世があるとすれば、現世は来世のための仮の姿の所業であると言えます。

不細工に生まれても、男に捨てられても、受験に失敗しても、会社から見捨てられても、妻子に逃げられても、それは現世の仮の姿・・・(笑)


でも、ときはたそがれ、急ぎ足をとめて見上げれば、夕焼け小焼けで日が暮れようとするその刹那が、ほんま、せつないでんなぁ。(笑)

                                     (初稿2011.6 未改訂)

窓ガラス .

2014年01月05日 | 中島 みゆき




陽が翳るとガラス戸の向こうは
急に侘しい風景になる
灯りを点すには早いこの時間
街並みはまるで化粧を落とした娼婦のような
けだるい素顔をみせる・・・

     by ふうちゃん


犬と猫・・・

世間では犬派と猫派に分かれており、それによって性格まで判断されてるようですが、・・・ホントなんでしょうかねぇ。

まぁペットを飼うことは、心理学では「愛情の代償行為」と考えられていますから、どんなペットが好きかで、その人がどんな対象に愛情を向けているかが分かり、それは、そのまま性格判断に使うことができるということらしいのですが・・・。

そこから判断すると、まず、《犬派》ですが、犬は飼い主によくなつき忠実、だから、おとなしく、誠実、他人を裏切らず、協調性を大切にする性格を読み取ることができのだそうです。
※ただし、土佐犬やボクサー等の飼い主は例外。権力的な人も多くみられるのだとか。

次に、《猫派》。猫はつかみ所がなく、魔性の動物といわれ、そこから、個人主義で、好き嫌いが激しい性格を読み取ることができる。自分の心を曲げてまで周りと合わせようとはしない。一人で楽しみ、一人で生きることに苦痛を感じない、マイペース型人間だというものです。

ところで、ふうちゃんですが、ふうちゃんは現実に猫を飼っていますので猫派なのかもしれません。
とは言え、かっては犬を飼っていましたので犬のかわいさもよく分かります。

ただ猫を飼って分かったことは、犬は可愛いだけのまさにペット的存在なのに対し、猫はペットというより人間と同レベルの生き物だということです。
それは、犬と猫の習性の問題のような気がします。

犬は、群れで生活しその中の順位を自分で決め、その順位の中で自分の行動を決めます。(依存型)これが、家庭では、お母さんにはなついていても、子供やお父さんには逆らう犬になってしまう原因です。
この場合、犬がお母さん一番、自分の順位が二番だと勘違いしたのでしょうね。
 
その点猫は常に一匹で行動するため、全て自分で意思決定しなければ生きていけないのです。(自立型)この点で猫の方がより人間らしさを持っていると思うのですが・・・

猫は家族の様子をうかがい、全員をチェックし、猫がこの人と仲良くしようと決めるわけです。ここが犬とは大きく違うのです。

犬は、順位がわかれば、上の人の命令を聞き、下の人は無視するわけですが、猫は、猫が気に入った人としか仲良くしません。
 
だから、犬派の人が猫を飼うことで超ウルトラ猫好きになってしまうケースが結構あるようです。
多分、猫に好かれると、犬との生活が上辺だけだと言うことを思い知らされるからでしょうか。

猫好きが好き勝手なことを言っていると思うかもしれませんが、嘘だと思ったら、猫を飼ってみてはいかがでしょう。

ただし、猫が貴方のことを気に入ってくれるかどうかはわかりませんが・・・

砂の船 .

2014年01月05日 | 中島 みゆき




誰か 僕を呼ぶ声がする
深い夜の 海の底から
目を 開ければ窓の外には
のぞくように 傾いた月

僕はどこへゆくの夢を泳ぎ出て
夢を見ない国をたずねて
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく

望むものは何ひとつない
さがす人も 誰ひとりない
望むほどに 消える夢です
さがすほどに 逃げる愛です

月は波に揺れて 幾百 幾千
古い熱い夢の数だけ
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく 

月は波に揺れて 幾百 幾千
古い熱い夢の数だけ
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく 

いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく 
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく 



中島 みゆき (なかじま みゆき、本名:中島 美雪(読み同じ)、1952年2月23日 - ) は、北海道札幌市出身のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。失恋歌とラジオ番組などでの明るい語り口とのギャップで1980年代前半に大きな人気を博し、現在も根強い支持を受け続けている。 公式ファンクラブ名は「なみふく」である。

オリコンで4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:「わかれうた」、1980年代:「悪女」、1990年代:「空と君のあいだに/ファイト!」、「旅人のうた」、2000年代:「地上の星/ヘッドライト・テールライト」)唯一のソロ・アーティストでもある。

以上はウィキペディアによる中島 みゆきさんの紹介文ですが、ふうちゃんは、これに「戦後を代表する詩人」としての彼女を追加してもいいのではと思います。
それくらい、彼女の歌詞には魅力を感じるのです。

彼女は札幌にある藤女子大学 文学部国文学科を卒業されてるそうですが、その卒業論文の題目は「現代詩―谷川俊太郎―」だったそうです。

そして、その「摘要」として書かれていたのが、「おだやかな変化をみせる谷川俊太郎のいくつかの作品群/その生命観の推察と音の聞き取り/谷川俊太郎の「今」そして今の谷川俊太郎 /その他 谷川俊太郎に見る現代詩の現代性」だそうで、もしかすると、自身のアルバムで歌われてる曲の多くの歌詞には、その谷川俊太郎氏に影響されてるところがあるのかも知れません。

真直な線を 引いてごらん
真直な線なんて 引けやしないよ
真直な定規を たどらなきゃ……ね

真直な線を 引いてごらん
真直な線なんて 引けやしないよ
真直な定規を たどらなきゃ……ね

※あんたの胸の扉から
 あたしの胸の扉まで
 只の真直な線を引いてみて
 それが只ひとつの願い

まんまるな円を 描いてごらん
まんまるな円なんて 描けやしないよ
円よりも丸いものを たどらなきゃ……ね

 ※(繰り返し)
  
      中島みゆき「真直な線」



一本の線を書く
もう一本の線を書く
また一本の線を書く
そうしてまた…
一束の線に
いかなる記号も象徴も見ず
黙っている
それが髪になり
草になり
流星になり
水になるのを
楽しんで
ただ文字になることだけは
決して許さず
一滴の茶を
飲みながら


     谷川俊太郎「心のスケッチ A」


いずれも線を引くというありふれた行為から生の現実の一つの断面に至ろうとする共通の志向が見られます。
中島さんの場合は相手の「胸の扉」から自分の「胸の扉」まで「真直な線」を引いてみてほしいということが<恋>の暗喩をなししていますし、谷川さんの場合は「ただ文字になることは/決して許さず」という一句によって生きる姿勢におけるある決意に収斂されていますよね。

たしかに、この二つの詩の比較だけではなく、他の歌詞の多くから、その感性や言葉の呼吸法において二人には必然的な通路があることが伺われます。

この「砂の船」も、

しかし陽がだんだんに世界をあらわにし始める時
置き忘れられた悲しみは
夜の中にふと目覚めてあたりを見廻す
その時かくれていた私ははっとして
夜の方をうかがっている

…今はもうおそい
悲しみはもう私のもちものではなかったのだ
悲しみは私なのだ
それが不意に目覚めた時
私は眠っていたのは自分だと気づく


    谷川俊太郎 「別れ1」


真夜中に目覚めたあとの寂莫感を表している点では共通しています。

ただ、中島さんの場合、曲が付随することによって、谷川さんには拭い去られている幻想的雰囲気が一層醸し出されていますけど・・・・・。

.雪 .

2014年01月05日 | 中島 みゆき




雪 気がつけばいつしか
なぜ こんな夜に降るの
いま あの人の命が
永い別れ 私に告げました

あの人が旅立つ前に
私が投げつけたわがままは
いつかつぐなうはずでした
抱いたまま 消えてしまうなんて

雪 気がつけばいつしか
なぜ こんな夜に降るの
いま あの人の命が
永い別れ 私に告げました

手をさしのべればいつも
そこにいてくれた人が
手をさしのべても消える
まるで 淡すぎる 雪のようです

あの人が教えるとおり
歩いてくはずだった私は
雪で足跡が見えない
立ちすくむ あなたを呼びながら

手をさしのべればいつも
そこにいてくれた人が
手をさしのべても消える
まるで 淡すぎる雪のようです

あの人が教えるとおり
歩いてくはずだった私は
雪で足跡が見えない
立ちすくむ あなたを呼びながら

雪 気がつけばいつしか
なぜ こんな夜に降るの
いま あの人の命が
永い別れ 私に告げました



この「雪」という曲は、中島みゆきさん8番目のアルバム「臨月」に収録されています。

この「雪」という曲の中に出てくる「あの人」そして「あなた」とは、恋人のことと思われるかもしれませんが、実は中島みゆきさんの「父親」ということです。

中島みゆきさんのお父さんは、北海道帯広で産婦人科医院を開業されていましたが、中島みゆきさんが、「アザミ嬢のララバイ」でデビューしたあとに、脳溢血で倒れられ、そして翌年に亡くなられました。

そのお父さんの死より、数年の歳月が流れて、父の死へのレクイエム(鎮魂歌)として、それが、この曲、「雪」として、結晶したのだと思います。

愛する者の死への行き場のない悲嘆の慟哭から、残された者の生へのうずくような喪失の悲哀へと、想いは移ろいゆきます。

鮮やか色した故人の想い出たちが、あたかも降りしきる雪の日の景色のように、すべてがモノトーンへと変わっていきます。

しかも色褪せながらも、くっきりとした影を残して・・・。

そして、それを、包み込むように雪が、静かに、降り積もってゆくのです。

ひとり上手 中島みゆき .

2013年10月25日 | 中島 みゆき




プラトニックな愛を 愛と信じたあのころ

肉欲だけが愛と感じたあのころ

やさしく触れ合うことが愛と思う今・・・・・

それぞれの季節に それぞれの愛

それぞれの時に それぞれの愛

             by  ふうちゃん




人は、思春期から青春時代の一時期にかけて、きわめて純粋に精神的な恋愛、いわゆるプラトニックな恋愛が、唯一、至上のものとする傾向にあり、・・・いや、あった、・・・心を求めるのは純粋であって、体を求めるのは不純であると考えるものです。・・・いや、考えたものでした。(ふうちゃん回顧)


まあ、もっとも、まったく、はなっからプラトニックなんて求めたり考えたりしない人も、いることはいるようですがね。(笑)

そして、そんなストイック(禁欲的)な恋愛は、ときとしては、健全な身体的発育を遂げた男女の間では、自虐的なまでの煩悶を生じさせることにもなります。

それがまた青春時代のあかし、ほろ苦く淡い思い出につながるものなんですよね。

しかし、たとえば禁欲的とされる仏教の世界においても、心と体のことを、色心と名付けて、「色心不二(しきしんふに)」と説きます。

色心不二とは、色心、この二つが互いに関連しあい、二つに分けることが出来ないという意味であり、心と体が、決して、別々にあるものではなく、一体としてあるということを説いてます。


つまり、簡単に言えば、「好き同士の男女が結び合うということは、そうそううるさく問うもんじゃないよ」と仏様も仰っておられるということです。(笑)


いえ、なにも、皆様におかれましては、すっかりと縁遠くなった恋愛沙汰の色っぽい話としてではなく、病は気からという言葉から、気心不二として考えていただいても、ええ、結構でございますとも。(笑)


そして、輪廻転生を説く仏教では、過去世、現世、来世の三世にわたり、永遠に続く生命の連続性を説いてます。
来世があるとすれば、現世は来世のための仮の姿の所業であると言えます。

不細工に生まれても、男に捨てられても、受験に失敗しても、会社から見捨てられても、妻子に逃げられても、それは現世の仮の姿・・・(笑)


でも、ときはたそがれ、急ぎ足をとめて見上げれば、夕焼け小焼けで日が暮れようとするその刹那が、ほんま、せつないでんなぁ。(笑)

                                     (初稿2011.6 未改訂)