プラトニックな愛を 愛と信じたあのころ
肉欲だけが愛と感じたあのころ
やさしく触れ合うことが愛と思う今・・・・・
それぞれの季節に それぞれの愛
それぞれの時に それぞれの愛
by ふうちゃん
肉欲だけが愛と感じたあのころ
やさしく触れ合うことが愛と思う今・・・・・
それぞれの季節に それぞれの愛
それぞれの時に それぞれの愛
by ふうちゃん
人は、思春期から青春時代の一時期にかけて、きわめて純粋に精神的な恋愛、いわゆるプラトニックな恋愛が、唯一、至上のものとする傾向にあり、・・・いや、あった、・・・心を求めるのは純粋であって、体を求めるのは不純であると考えるものです。・・・いや、考えたものでした。(ふうちゃん回顧)
まあ、もっとも、まったく、はなっからプラトニックなんて求めたり考えたりしない人も、いることはいるようですがね。(笑)
そして、そんなストイック(禁欲的)な恋愛は、ときとしては、健全な身体的発育を遂げた男女の間では、自虐的なまでの煩悶を生じさせることにもなります。
それがまた青春時代のあかし、ほろ苦く淡い思い出につながるものなんですよね。
しかし、たとえば禁欲的とされる仏教の世界においても、心と体のことを、色心と名付けて、「色心不二(しきしんふに)」と説きます。
色心不二とは、色心、この二つが互いに関連しあい、二つに分けることが出来ないという意味であり、心と体が、決して、別々にあるものではなく、一体としてあるということを説いてます。
つまり、簡単に言えば、「好き同士の男女が結び合うということは、そうそううるさく問うもんじゃないよ」と仏様も仰っておられるということです。(笑)
いえ、なにも、皆様におかれましては、すっかりと縁遠くなった恋愛沙汰の色っぽい話としてではなく、病は気からという言葉から、気心不二として考えていただいても、ええ、結構でございますとも。(笑)
そして、輪廻転生を説く仏教では、過去世、現世、来世の三世にわたり、永遠に続く生命の連続性を説いてます。
来世があるとすれば、現世は来世のための仮の姿の所業であると言えます。
不細工に生まれても、男に捨てられても、受験に失敗しても、会社から見捨てられても、妻子に逃げられても、それは現世の仮の姿・・・(笑)
でも、ときはたそがれ、急ぎ足をとめて見上げれば、夕焼け小焼けで日が暮れようとするその刹那が、ほんま、せつないでんなぁ。(笑)
(初稿2011.6 未改訂)