私の瞳が ぬれているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
この日がいつか 来る事なんか
二人が出会った時に 知っていたはず
私の事など もう気にしないで
貴方は貴方の道を 歩いてほしい
さよならいわずに 笑ってみるわ
貴方の旅立ちだもの 泣いたりしない
言葉はいらない 笑顔をみせて
心の中の貴方は いつもやさしい
私は泣かない だって貴方の
貴方の思い出だけは 消えたりしない
私の瞳が ぬれているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
松山千春さん、1955年(昭和30年)12月16日、いて座、血液型O型、北海道足寄郡足寄町出身。
この「旅立ち」は、松山千春さんのデビューシングルで、ファーストアルバム「君のために作った歌」に収録されています。
「旅立ち」は内容的には恋愛仕立てになっていますが、素材としては、足寄高校を卒業して地元で就職した松山さんが、就職や進学で、足寄を去っていく友人たちを思って作ったそうです。
1975年(昭和50年)に、ニッポン放送の音楽番組「バイタリス・フォークビレッジ」が主催した全国フォーク音楽祭の北海道・帯広地区予選会がありました。
二十歳くらいのちょっと神経質そうな痩せぎすの男子が、高校のときに道路工事のアルバイトをして買ったという5000円くらいのチープなギターをひっさげて、この「旅立ち」という曲で参加します。
審査員の一人は、彼に、こう言います。
「歌はいいが、ギターがひどいな。」
この講評に、彼は臆することなく反論します。
「俺は、ギターの品評会に来たんじゃない。歌の批評をしてくれ!」とその審査員をにらみつけました。
そして、彼は予選会は通過しますが、北海道大会では落選して、本選会に出場できませんでした。
ちなみに、1972年(昭和47年)の本選会では、中島みゆきさんが優秀賞を受賞しています。
本選会に出場できなかったこの彼が松山千春さん、そして、このときの審査員が、札幌テレビ放送(STV)ラジオディレクターだった竹田健二さんでした。
竹田さんは、北の大地に育まれた反骨精神の中にナイーブな優しさを秘めた彼の素質を見抜いて、他の反対を押し切り、担当していたラジオの深夜番組のコーナーに、彼を抜擢します。
そして、1977年(昭和52年)の1月25日に、この「旅立ち」で、松山千春さんはデビューします。
1974年(昭和49年)「白い冬」のふきのとうがデビュー、1975年(昭和50年)中島みゆきさんが、「アザミ嬢のララバイ」でデビューと、北の大地から、続々とアーティストが生まれてきた頃のことです。
竹田さんは、地方ローカル局とはいえ、北海道ではメジャーなSTVラジオのディレクターとして、北海道出身のアーティストたちを応援するとともに、とくに、北海道に愛着を持ち、地元志向の強い松山千春さんには目をかけていました。
「東京なんか出てく事もないし、お前の好きな北海道で足寄でずっと唄ってれ、そのために俺いろんな事してやっから。」と松山千春さんに言ったそうです。
そして、1977年(昭和52年)8月27日、ファーストコンサート「旅立ちコンサート」の函館ツアーの朝、松山千春さんは、竹田さんの訃報を聞くことになります。
竹田健二さん、享年36歳でした。
松山千春さんは、その後、竹田さんの期待を裏切らずに、「時のいたずら」をヒットさせ、「季節の中で」で、北の大地ブランドの松山千春を確立しました。
千春さんが、コンサートで竹田さんの話をすると、いつも「旅立ち」が涙声になって歌えなくなり、客席ファンが合唱しながら静かにフォローしているさまは、あたかも北の大地に咲くはまなすの群落が風にそよぐときのような感じで、優しい気持ちにさせてくれます。
今でも北海道にこだわり続ける松山千春さん。
最近は、政治的な活動も目立ちはじめて、往年のファンとしては、少しヒクところもあるんですが、それもこれも、松山千春さんにとっては、純粋な郷土愛ゆえの行動だと理解しておきたいと思います。
まぁ、千春兄さまよ、したら、頑張るべしネ。