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みゅーじっくふうちゃんねる 

~show我が青春、涙からもらった元気~   

【防人の詩】さだまさし

2013年12月04日 | さだ まさし



おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください

私は時折苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在の自分と

答えてください
この世のありとあらゆるものの
すべての生命に約束があるのなら
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去る様に 冬が来る様に
みんな逝くのですか

わずかな生命の
きらめきを信じていいですか
言葉で見えない望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で

おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか

海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか



防人は、「さきもり」と読み、664年(天智三年)に中大兄皇子が朝鮮半島での白村江の戦いに負けたために、日本の本土防衛のために創設されて、筑紫・壱岐・対馬などの北九州の防衛にあたった東国から選ばれた兵士達のことです。

北九州の防衛に何故、遠い東国からだったのか・・・

これは東国の勢力を少しでも弱めようとした当時の施策とされていますが、遠い東国からの赴任ですから、目的地に達するまでに行き倒れとなった人達や、任期の途中で病気等により二度と故郷に帰れなかった人達も多かったでしょうね。

そんな防人達が家族と離れる寂しさや、残された家族の無事を祈る気持ちを読んだ悲しい歌が防人の歌で、万葉集に84首が残されています。

我が妻も絵に描き取らむ暇もか旅ゆく吾は見つつ偲はむ

大王の命かしこみ磯に触り海原(うのはら)渡る父母を置きて

水鳥の立ちの急ぎに父母に物言(は)ず来(け)にて今ぞ悔しき・・・などなど。

さて、

「おしえて下さい」

心から吐き出すようなこの言葉から、この曲は始まります・・・

そして、何とも言葉にし難い切なさがこの曲全体を支配していきます。

あらがい様のない大きな流れ、考えても答えが出ない苦悩、・・・・・

人生の永遠のテーマに対し、正面から問いかけぶつかっていくこの曲、さすが、さださんというべきでしょうか。
   
なお、万葉集16巻にこの曲の原型となった詩が、詠み人知らずの歌として出ています。  

「鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ」
  
ちなみに、この曲の原型は「防人の歌」ではなかったのですね。

この曲「防人の詩」は、1980年(昭和55年)製作、公開された、三船敏郎さん、仲代達矢さん、あおい輝彦さん、夏目雅子さんなどの出演で、舛田利雄さん監督の東映映画、「二百三高地」の主題歌です。

地味な映画でしたが、日清戦争に続く、日露戦争のなかでの重要な戦いを描き、明治から昭和へと続く我が国が選択した国際紛争を解決する手段としての戦争の歴史を知るには役立ちました。

そして、一握りの軍人や政治家たちの思惑や権謀術数のために、多くの人のかけがえのない生命を奪うものが戦争だということも知りました。

そして、この曲は、さだまさしさんのレッテルに、「暗い」「軟弱」「女性蔑視」に加えて「右翼」というのが貼られた記念すべき歌でした。(笑)

しかし、この曲、本当は、「右翼」でも「左翼」でもなく、人が好きで、好きだからこそ、その生命を大切にすべきだと、それを強く主張している曲と、ふうちゃんは思っています。

檸檬/さだまさし

2013年11月06日 | さだ まさし




或の日湯島聖堂の白い
石の階段に腰かけて
君は陽溜まりの中へ盗んだ
檸檬細い手でかざす
それを暫くみつめた後で
きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に
金糸雀色の風が舞う

喰べかけの檸檬聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ

君はスクランブル交差点斜めに
渡り乍ら不意に涙ぐんで
まるでこの町は青春達の
姥捨山みたいだという
ねェほらそこにもここにもかつて
使い棄てられた愛が落ちてる
時の流れという名の鳩が
舞い下りてそれをついばんでいる

喰べかけの夢を聖橋 から放る
各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
二人の波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には こうしてあっけなく
静かに堕ちてゆくものよ




得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。それは肺尖カタルや神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だ。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる私には重苦しい場所に変化した。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、私は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。

ふと、前から気に入っていた寺町通の果物屋の前で私は足を止め、美しく積まれた果物や野菜を眺めた。珍しく私の好きなレモンが並べてあった。私はレモンを一つ買った。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるみ、私は街の上で非常に幸福であった。

私は久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。私はレモンを思い出し、そこに置いてみた。私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。見わたすと、そのレモンの色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくというアイデアを思い浮かべた。レモンを爆弾に見立てた私は、すたすたとそこから出て、粉葉みじんに大爆発する丸善を愉快に想像しながら、京極(新京極通)を南下し去った。

たぶん、この曲のヒントになったのではと言われている、あの梶井基次郎氏の短編小説「檸檬」のあらすじです。

小説の舞台は京都、さださんの曲の舞台は東京・・・

小説では買ったレモン、曲では盗んだレモン・・・

小説では本屋に爆弾の代用として置かれるレモン、曲では失恋の例えとして放られるレモン・・・

まぁ、いずれの作品もレモンをめぐってのものですが、微妙に違ってはいます。

しかし、梶井氏は10ページ足らずの短編で、さださんは5分足らずの曲で、これだけ人々心に響く作品を作れる、・・・凄いの一言です。

まほろば さだまさし

2013年11月03日 | さだ まさし




駅前旅館をバスが出たのは8時5分
これからわしらは修学旅行の第2日
794ウグイス平安京から大化の改新へ
半分寝ながら向かっているところ
プレイボーイの山下がガイドにべたついて
週番の広田はビニール袋に蒼い顔
坂元たちは夕べのぞいた女風呂談義
誰の乳がでかいのちいさいの
春日大社に興福寺誰かが唄った東大寺
柱の穴がくぐれずに秋田が静かに落ち込んだ
鹿せんべいを喰った奴こそこそ土産を選ぶ奴
ひたすら眠りこける奴ため息ばかりついてる奴
昨日京奈良飛鳥明後日
青春は青空なのぢゃ
あゝ美しき思い出の修学旅行・・・



これは さだまさしさんのアルバム『夢の吹く頃』に収録されてる「「昨日・京・奈良、飛鳥・明後日」という曲の一節ですが、その奈良で、過日、美しき思い出の修学旅行宿としてもよく利用されていた「奈良万葉若草の宿三笠」という旅館が、メニュー表示と異なる食材を提供していたという問題でニュース報道されていました。

これにより、「あゝ美しき思い出の修学旅行」が、嘆かわしき思いで修学旅行を終えられた生徒さんも相当多かったのではないでしょうか。(笑)

さて、本題・・・

春日山から飛火野辺り
ゆらゆらと影ばかり 泥む夕暮れ


「飛火野」を「とぶひの」と、あっさり読まれた方は、大和路の旅に慣れた方か、または国文学の記紀歌謡に造詣の深い方か、あるいは、かなりのさだまさしファンでしょうか。(笑)

ところで、私事ながら、ふうちゃんも以前、まぁ、本当言うと、ず~っと昔になりますが(笑)、奈良の学園前に住んだことがあったので、奈良公園や、春日大社参道の南側に広がるこの「飛火野」地域はよく遊びに行ったものです。

そして、地元では、この「飛火野」を、「とぶひの」と読まず、「とびひの」と読むのが一般的でしたので、この曲を聴いたときは、あれ?っ、どっちが正しいのかなと思ったものです。

「飛火」の字が当てられていますが、ほんとは「烽」の字を当てるらしくは、「烽-とぶひ」は、いわゆる「烽火-のろし」のことで、律令制のもとで、外敵の襲来などの変事を都に急報するための、のろしの設備が置かれたというのが地名の由来らしいです。

ちなみに、「泥む」というのは、もちろん、「どろむ」とは読まないように…って、普通は読まないかな。(笑)

贈る言葉の「♪暮れなずむ町の~♪」の「なずむ」が「泥む」なんですが、とにもかくにもほんとに、さださんの歌詞について語るには、右に国語辞典、左に漢和辞典が必要です。

あっ、左右はあまりこだわらないでください。(笑)

右に橘、左に桜を置くかを気にするよりは、国語辞典、漢和辞典とそろえてから、古語辞典をどこに置くかで、悩んでください。(笑)

もっとも、さださんに言わせれば、関白から失脚した亭主は、右に定期券、左に生ごみを持って、毎朝、仕事に出かけるのだそうですが。(笑)

馬酔木の森の馬酔木に
たずねたずねた 帰り道


「馬酔木の森の馬酔木」に、歌を聴かないで、振り仮名無しに、単に漢字だけでこの歌詞を読めば、何とも分かりにくいと思います。

「馬酔木」は、もちろん、「うまよいぎ」でも「ばすいもく」でもなく、通常は、「あせび」、または地域によっては「あしび」と読みます。

だから、「あせびのもりのあせびに」、「あしびのもりのあしびに」と読めますが、なんとも、危険が危ないような読み方になります。(笑)

正解は、これは、読みがなで書けば、「あせびのもりのまよいぎに」となります。

馬酔木の花は万葉時代を代表する古典の花と言われ、花はスズランに似た白色壷状の小花で、花蕾は前年の夏からできて越冬して、早春から晩春までの長い間、開花しています。

牛馬がこの花を食べれば、その含まれる成分によって酔ったようになるということで、馬酔木の字が当てられたようです。

さださんは、まえの「馬酔木」を「あせび」と読み、うしろの「馬酔木」を、馬が酔う木、「ま・よい・ぎ」と読ませて、まよい・・・迷い、と掛けているわけです。

さださんの歌詞には、時として、言葉遊びとも思える語彙の使用が見られ、もちろん遊びとは言え、前提として、それだけボキャブラリーが豊かでなくてはならないし、それ以上に、感性が研ぎ澄まされていなくてはならないのは言うまでも無いことです。

遠い明日しか見えない僕と
足元のぬかるみを気に病む君と
結ぶ手と手の虚ろさに
黙り黙った 別れ道


さて、奈良の春日山から飛火野にかけては、小道が通じていて、この道には、「ささやきの小径」としゃれた名前がついてます。

馬酔木の森の中を抜けていく、恋人たちの散歩道といった風情のある道で、春先など、馬酔木の花の香りで、馬でなくても、酔ってしまいそうです。

馬が酔うのなら、奈良公園にいる鹿も酔うんじゃないの、なんて、なんて、ささやかないでくださいね。
それこそ、馬鹿といわれますよ。(笑)

さて、途中、大きな藤の大木などもあって、紫の藤の花越しに見える春日山原生林に見とれていたりして・・・。

ひとたび足元を見ると、ぬかるみはなくても、鹿のフンがコロコロと、いっぱい落ちていたりして、スニーカーの先にちょこんとついていたりします。(笑)

まあ、気に病むほどのことじゃないと思うのですが、フン・フン・フン・鹿のフンなんて思ってたら、(`へ´) 踏んだ!!!ってことになりますかね。(笑)

川の流れは よどむことなく
うたかたの時 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い


ここでさださんは、いわゆる本歌取りの手法で、無常を強調しているわけですが、秀逸なのは、後半の、昨日は昨日、明日は明日、という体言止の言い切り、そしてその論理的な帰結として、再び戻る今日は無いという、結論を導き出しています。

たしかに、明日は明日。
明日しようと思うことが、かならず明日できるとは限らなく、明日言おうと思ったことが、明日かならず言えるか分からないのです。

再び戻る今日はなく、今日しなければならないことは、今日を置いてほかにはなく、今日言わなければならないことは、今日言わなければなりません。

それが厳然たるときの流れであり、そしてその、ときの流れにそって、粛々と歩いていかなければならないのが人生、そして宿命なのです。

例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛名の無い手紙

     
さて、この「黒髪に霜・・・」ですが、「黒髪が白髪になるまで待っている」という、つまり、来ない彼氏を、白髪の老婆になっても待っているという鬼気迫るような解釈が正解なのでしょうか。(笑)

それとも、単に、気象的に、「霜が降りる夜まで夜通し待っている」・・・という解釈なのでしょうか、どちらにしても、結構、恐いものがあります。(笑)

寝ぐらを捜して鳴く鹿の
後を追う黒い鳥鐘の声ひとつ
馬酔の枝に引き結ぶ
行方知れずの懸想文(けそうぶみ)


奈良公園の鹿は、春日大社の神鹿(しんろく)と言われていますが、神社が飼っているわけではなく、国の天然記念物に指定されていますが野生の鹿です。

ですから、寝ぐらも、東大寺や春日大社周辺、若草山や飛火野などで寝ることが多いようです。

ぼくは、夏休みに鹿と一緒に寝て、枕投げして遊んだ記憶・・・はもちろん、ありません。(笑)

     びぃと啼く 尻声悲し 夜の鹿
                              松尾芭蕉


鹿が啼くのは、寝ぐらを捜しているからではなく、牡鹿が牝を呼ぶために啼いているのです。

つまりは、発情期の軟派(ナンパ)しているときの鳴き声なんですが、なにか物悲しく聞こえます。

鹿の懸想文(恋文)だからでしょうか。(笑)

ところで、鹿せんべいを食べたことありますか?

おいしそうな色をしていて、もちろん、鹿は、お辞儀してねだるくらい大好物なんですが、米ぬかと飼料を混ぜ合わせて、なんともいえぬ味です。

大阪のやんちゃな子たちは、奈良公園の遠足のときに、多分、みな経験済みでしょうね。(笑)

二人を支える蜘蛛の糸
ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸
君を捨てるか僕が消えるか
いっそ二人で落ちようか


奈良には、いわゆる大和三山と呼ばれる山があり、つまりは畝傍山(うねびやま)、香久山(かぐやま)、耳成山(みみなしやま)です。

いずれも標高200mに満たない低い山なので、いわゆる額田王をめぐる天智天皇(中大兄皇子)と、天武天皇(大海人皇子)との三角関係伝説などを織り交ぜて語りながら、ハイキングとして散策できます。

     香具山は畝傍を愛しと
     耳成と相争ひき
     神代よりかくにあるらし
     いにしえもしかにあれこそ
     うつせみもつまを争うらし
                 中大兄皇子 「万葉集」


しかし、夫婦、恋人と行くときには、あなたもそうだったわよねぇ、なんて、話がうつせみ(現実)の話に展開されないよう、注意が必要です。(笑)

いつのまにか、春日山から飛火野を通り過ぎて、はるか山之辺の道に入って、大和三山までご案内しましたので、帰りのついでに、三輪山もご案内しましょうか。(笑)

三輪山は、山を御神体として、大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る三輪神社があります。

全国的には、神社より、三輪そうめんでおなじみかもしれませんが、三輪神社を大神(おおみわ)神社とも呼ぶように、神様の中の大神様が、大物主神であり、
出雲の大国主神の国造りを手伝ったとされる神様です。

ということは、いつぞや、ギリシャ神話の大神ゼウスのお話をしたことがありますが、やはり、偉大な神様というのは、かなりなんですね。(笑)

古事記によると、活玉依媛(イクタマヨリヒメ)という独身女性が妊娠して、名前も知らない男性が夜這いをしていたからということが分かり、両親が床に赤土を撒いて、娘にその男性の衣に麻糸を通した針をつけさせて素性を調べることにしました。

さて、男性が来た翌日、その赤土にまみれた糸をたどってみると、なんと、三輪山に続いており、男性が大物主神であることが分かったといいます。

そう、ふたりを結んだのは、蜘蛛の白い糸ならぬ、赤土にまみれた、赤い糸だったのです。

赤い糸の伝説は、こうして生まれました。
嘘ではありません、ほんとよ。(笑)

例えば此処で死ねると
叫んだ君の言葉は
必ず嘘ではない
けれど必ず本当でもない


まあ、嘘ではないけれど、本当でもない、諸説がある、そういうことって、やはり、神の世でない人の世には多いことかもしれません。

信じるものは・・・救われもしますが・・・、騙されもしますが、かといって、疑えば、またきりがないのなら、騙されていると思いつつも、信じるほうが幸せなのかもしれません。

つまりは、真実はひとつなのかもしれないし、人の数ほど真実があるのかもしれません。

日は昇り 日は沈み振り向けば
何もかも移ろい去って
青丹(あおに)よし 平城山の空に満月


さて、今回は、長々と話し込んでしまいました。
それでは、また、三輪駅から、JR桜井線で、天理を通って、奈良まで戻ることにしましょう。

そうそう、ちなみに、母方の祖父母は、JR奈良駅のひとつ手前の駅、京終(きょうばて)という珍しい名前の駅の近くに住んでいました。

平城京の南端にあたり、京の終わりで、京終です。

とうことで、京の終わりから、最後は、やはりかっての奈良の中心部である、平城京、まほろばの話をして終わりましょう。
なんか、強引な終わり方ですが。(笑)

えっ、馬酔木に酔う馬、せんべいを喰らう鹿が出てきて、最後は、魔法を使うろば、まほろばの話なの?なんて、思う人はいませんよね、・・・たぶん、・・・おそらく、でも、まぁ、ちょっとはいるかも。(笑)

     やまとは 国のまほろば たたなづく
     青垣 山ごもれる やまとしうるはし
          日本武尊(やまとたけるのみこと)-「古事記」


ということで、国のまほろば、平城山(ならやま)の空に、ひときわ大きな満月が~っ・・・て・・・えっ、ところで、平城山って、どこにあるのかって。

そうなんですょ、わたしも、ご幼少の頃から探してるんですが、どこにあるかよく分かりません。(笑)

ということで、平城山検索隊。(笑)

そうしたら、北見志保子作詞、平井康三郎作曲の「平城山」という曲を発見しました。

     人恋ふは 悲しきものと 平城山に
     もとほり来つつ たえ難かりき
     
     古も 夫に恋いつつ 越えしとう
     平城山の路に  涙落としぬ


学校で音楽の時間に習ったような記憶がありますが、結構、意味深な歌詞だったのですね。(^^ゞ

で、結局、平城山なんですが、山というよりも、平城京の丘陵地帯を指すらしいのです。

ちなみに、JR奈良駅から、JR関西本線で京都方面に向かって、一つ目の駅にJR平城山駅というのがあり、次の駅は木津駅で、ここはもう京都になります。

ちなみに、JR平城山駅の南にある古墳が、ヒシアゲ古墳と呼ばれる前方後円墳で、これが、仁徳天皇の皇后磐之姫の御陵とされています。

同じく前方後円墳で、世界最大の墓とされる仁徳天皇陵が大阪府堺市にありますので、こんなに離れていては、平城山の空に満月は、なかなかかからないかもしれませんね。(笑)

ということで、あっけなく、それでは、さよう奈良!(笑)

.坂のある町 さだまさし

2013年10月24日 | さだ まさし



一歩、また一歩

坂道を登るたびに、そこに近づいていく

一歩ずつ高揚まるこの胸の思い

息を切らせ、坂を上りきった者にだけ許される風景

最後に後ろを振り向くときのあの感動・・・

・・・

あぁ、その感動も、そして、この息切れも

みんな、おまえと分かち合えたらいいのに

               by ふうちゃん



昨日、TVで松本清張作の「波の塔」を観ました。
原作はもちろん読んでますし、過去7回ドラマ化されたものも数回観ていますが、今回は2006年版、麻生祐未・小泉孝太郎主演のものです。

あらすじ・・・

検事の小野木喬夫(小泉孝太郎)は、京都の寺院で頼子(麻生祐未)という謎の女性と偶然知り合う。小野木は頼子に一目で魅せられ、忘れられない存在になっていく。東京で再会した二人は秘められた交際を始めるが、頼子は自らの素性を決して小野木に明かさなかった。

その頃、将来を嘱望された小野木のことを慕うもう一人の女性が現れた。国土産業省の田沢局長(風間杜夫)を父にもつ田沢輪香子(高橋かおり)は、許婚者がいるにも関わらず小野木に好意を抱いていた。しばらくして、小野木の先輩検事・石井(柳葉敏郎)たちが国土産業省の汚職疑惑に捜査のメスを入れた。国産省の田沢局長と政財界の情報を売買して金儲けを企む政治ゴロ・朝倉庸夫(津川雅彦)がつながっているというのだ。金の匂いに群がるハイエナのような朝倉の妻が、あの頼子だった。彼女自身も親の借金が原因で無理矢理朝倉と結婚させられていた。

頼子の不審な行動から、朝倉は小野木と頼子の関係を突き止めた。地検に追われる朝倉。しかし担当検事は自らの妻と不倫関係にある。やがて、小野木自身が朝倉宅に踏み込む日がやってきた。そこで、小野木は頼子と運命的な対面をする。

まあ、いろんな絡みはあるのですが、要は、頼子(麻生祐未)の不倫がテーマです。

ところで、ドラマで恋愛を描くにはなにか“障害”なるが必要なようです、・・・昔は政略、近代では戦争、病気、家柄などなど。

たしかに、いろんな形で“障害”があったほうが恋愛モノの構成としてはやりやすかったようですね。ですが、最近は障害と言っても不倫くらいしかない上に、不倫のハードルも低くなっています。
そんななかでこのドラマ、彼女、頼子の死のうとする理由ですが、今の時代どんどん希薄になっているような気がします。

今回のドラマ、僕なりの解釈ですけども、不倫という現実を隠しつつ進行していった小野木への純粋な恋心と、以後、夫の愛を感じてしまったことによって呪縛がかかってしまった頼子の悩み、・・・普通なら出て行けばいいところ、夫の愛を断ち切って二人でこの世でやっていくことへの心苦しさ、二人の男に愛されながらどう処すればいいのか、・・・そして、結局、自分だけでその答えを抱えて死んでいく道を選ぶ、・・・現代の不倫というものを美しく描くいい手が編み出されたなぁと思っています。(笑)

業(ごう)と言ったらいいのか、運命(さだめ)と言ったらいいのか分かりませんが、女には、もともと「ひとつの愛」だけに生きれない何かが潜んでいるのかも知れません・・・・・。
そして、それが表に現われたときに選んだ道が樹海への死出の旅、それが頼子の二人への「つぐない」だったのでしょうね。

秋桜(コスモス) 坂本冬美 & さだまさし .

2013年10月24日 | さだ まさし




薄紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜まりに揺れている
この頃涙もろくなった母が
庭先で一つ咳をする
縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話繰り返す
独り言みたいに小さな声で
こんな小春日和の穏やかな日は
貴方の優しさが浸みてくる
明日嫁ぐ私に苦労はしても
笑い話に時が変えるよ心配いらないと笑った

あれこれと思い出をたどったら
いつの日も一人ではなかったと
今更乍ら我ままな私に唇噛んでいます
明日への荷造りに手を借りて
しばらくは楽しげにいたけれど
突然涙こぼし元気でと
何度も何度も繰り返す母
ありがとうの言葉をかみしめながら
生きてみます私なりに
こんな小春日和の穏やかな日は
もう少しあなたの子供でいさせて下さい  




秋桜(コスモス)って、不思議な花ですよね。
日本の在来種ではないのに(原産地はメキシコ)、青く澄み切った日本の秋空の下で、まるで、昔から、そこに咲いていたかのように、風に吹かれて、さやさやと可憐な花をそよがせています。

そして、秋桜(コスモス)って、やはり女性のイメージなのかなとも思います。
風に吹かれて折れそうなほど、可憐でいながら、生まれ育った土地を離れて、新たな土地で、根付くような力強さがあるからです。

それでは男性を花に例えたら、何になるでしょう、・・・う~ん、タンポポでしょうか。
風に吹かれて、いずこかへ飛んで行き、しかも根付くどころか芽が出るのも奇跡に近いのに、やっと芽を出したとたんに路傍で踏みつけられるタンポポ。(笑)

ちなみに、タンポポは蒲公英と書きます

ところで最近、時折ですが、「あぁ、年齢(とし)をとったなぁ~」と自覚し始めたふうちゃん、そして、年齢(とし)年をとると涙腺が弱くなってくるって言うのは、本当なのかもしれないと思うようになりました。

確かに、本やテレビなど見ていて、何か感動してしまい、うかつに涙を浮かべることが多くなったのです。(この動画を観ながらも・・・)(笑)

でも、そんな自分が嫌いじゃない、・・・そう思えるって、コレ、やっぱり年齢をとったからなのでしょうか・・・。(笑)

さて、そんなコスモスですが、日本人にとってはポピュラーな花でもあるせいか、花言葉も多種多様にわたっています。

それでは、せっかくですから知りうる限り紹介してみましょうか・・・。

一般的なコスモスの花言葉

まずはコスモス全般の花言葉から紹介してみると、“乙女の純真”や”乙女の真心“といった
純潔系の花言葉が並びます。その他にも”調和“”美麗“といった美しさを褒め称える言葉も並びます。

白いコスモスの花言葉

全般でも紹介した“乙女の純潔”というのが白いコスモスの花言葉になります。
なるほど、白くたたずむ一輪のコスモスはまさに乙女の純潔という花言葉かふさわしいと思います。

赤いコスモスの花言葉

これが赤くなると少々変わって“調和”などのほかに“乙女の愛情”というものが追加されます。コスモスがはじらっているようにみえるからでしょうか?

ピンクのコスモスの花言葉

“乙女の純潔”が花言葉にあげられますが、そのほかに花の色が濃くなる(濃いピンクになる)と、“愛情”という意味になります。さて、このコスモスを受け取ったら喜んでいいのか、悪いのか?・・・答えは花の色の濃さにかかっているのかもしれません。

黄色いコスモスの花言葉

黄色いコスモスは品種改良によって生み出された人工的な色なのですが、どういうわけか、その花言葉は“野生の美しさ”“自然の美”という意味があります。

黒いコスモスの花言葉

これだけいい意味ばかり並ぶコスモスの花言葉に比して、残念な花言葉“恋の終わり”を意味します。
この黒いコスモスはチョコレートコスモスと言うそうですが、もしかすると、恋の終わりは甘い香りと共に・・・・・ということなんでしょうか。(笑)

この曲「秋桜」(コスモス)は、1977年10月1日にリリースされた山口百恵さんの19枚目のシングルです。
以後、たくさんの歌手がカバーされてますし、合唱曲としても歌われてるいるさだまさしさんの代表曲でもあります。