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If U read this letter, what can U see, Mr.Abbas?

2008-09-26 21:28:33 | パレスチナかイスラエルか
今回は、Abbas 議長宛の公開書簡の紹介。
・A refugee's open letter to Mahmoud Abbas (2008年9月19日 Electronic Intifada)

この書簡には、イスラエル・米・国際社会そして Abbas 議長への怒りが込められている。
俺自身読んでて色々考えさせられることが多かったので、この公開書簡の全文日本語訳をでっち上げてみた。
(ちなみに、仏語でも翻訳されてるっぺぇ。仕事が早いよ・・・)

例によって、訳文の正確性は保証しな(略
ただし、[]内は、俺が補足した部分。
---- 以下引用 ----
一難民から Abbas 議長への公開書簡
Abdelfattah Abusrour、The Electronic Intifada、2008年9月19日


親愛なる議長へ:

私の名前は、Abdelfattah Abdelkarim Hasan Ibrahim Mohamad Ahmed Mostafa Ibrahim Srour Abusrour です[長いよ]。
私は、Bethlehem から来たパレスチナの土地所有者から借りた Aida という難民キャンプ[訳注1]で生まれました。
私の2人の兄は父同然で、父や2人の兄より先に生まれた人達は 1948年10月21日に破壊された Beit Nateef という村の出身です。
母は、1948年にシオニスト達の悪党によって破壊された Zakareya という村[訳注2]で生まれました。

私は Aida 難民キャンプで育ちました。
4歳の時、多くの人達が私たちの家の裏にあった洞穴に隠れていたのを思い出します。
[1948年の Nakba に関連した]戦争について、年配の方々が語っていたのを思い出します。
戦闘機で埋め尽くされた空や、黒い毛布で隠され母親達にあやされていた全ての子供達を思い出します。

1968年に、Aida 難民キャンプをイスラエル軍が占領した後で最初に出た外出禁止令を思い出します。
私が最初に見たイスラエル軍の兵士が、60歳くらいになってたイラク出身のユダヤ系[ややこしい]ということを思い出します。
1972年に、私の二人目の兄が初めてイスラエル軍占領担当の尋問に呼び出され、そのまま家に戻ってこなかった日を思い出します。
二人目の兄が、自白をせず裁判も判決も待たずに6ヵ月後に脱出してきたことも思い出します。

その場所が私達のものであるため、占領された場所への愛を養われてたのを思い出します。
Beit Nateef にあった今はもう無い私たちの家の錆びた鍵、私たちの心と想像の中にある扉[思い出って奴か?]への鍵、実際に存在し今は消えてしまった扉の鍵、かつて本当に人が住み子供達を育ててた家、を思い出します。
これらの錆びた鍵は、今も私の手元にあります。
帰還権は権利であり無視することを誰も正当化できないという永遠の信条とともに、私達が育てられたのを思い出します。
私たちが元の村と家に帰る帰還権は永遠のものであり、継続的な権利ではなく独立した権利だからこそ、誰にもましてや現実や政治的合意で変えることなどできないのです。
それは私の権利であり、私の子供達・孫達、そして後から生まれた人全てにある権利なのです、議長。

親愛なる議長へ:

2003年9月9日に亡くなった私の母を思い出します。
75歳でした。
2006年12月26日に亡くなった私の父を思い出します。
96歳でした。
私の母と父は、結婚し自分達の子供を育て、汗と血と涙がしみこみ、楽しさ・幸福・笑い・噂話で包まれてた土地である自分達の村に埋葬されるのを望んでました。

私の両親は、難民キャンプに埋葬されています。
母の墓は、イスラエル軍の監視塔の近くにあり、鉄条網に囲まれてます。
母の墓には行くことができず、母の墓に Al-Fatina[訳注3]や聖典クルアーンを捧げる儀式の日に訪れることはできないのです。

親愛なる議長へ:

占領された60年間の後、武器による抵抗と武器によらない抵抗の60年間の後、脆い約束以上の何か進展があるのではという希望に私は満ちていました、
たとえ世界中で不正義による衝突が続いてるとしても、決して私たちの権利を諦めずに、こうした権利は認められるという希望で溢れていました。
何もそのような権利を手放すことを正当化できず、そうでなければ私たちの子供とこれから生まれてくる人達に何を残せるのか?、という存在するあらゆる現実に基づいた希望に満ちていました。
このように伝えるべきでしょうか:風が導くところへ行こう、立ち上がるな、そして抑圧に抵抗するな、と?
たとえ、屈辱の人生や人として認められないような人生でも、生き続けることがもっと重要なのでしょうか?

私たちをどこに導くのでしょうか、議長?
どこの砂漠に導くのでしょうか?
どんな破滅に?
どうして、どれだけの数の難民が帰還できるのかできないのかを決めるのを躊躇うのですか?
誰があなたに、私と私の子供達の代わりに語る許可を与えたのですか?
誰が私たちの権利をバーター取引していい、と頼んだのですか?
人々の権利と60年間に及ぶ犠牲を[イスラエルや国際社会に]売った代価とは何ですか?

難民として流浪したことによる苦難、土地や家屋の強引な収奪、日々悪化する屈辱と拘束について、国連決議[1948年の決議194]では帰還権と補償を定めていますが、みんなが戻ることを望んでるわけではないと語るのを避けるのはどうしてですか?
このような場合でも、難民達が元の場所に戻りたいと望んでも望まなくても、自分達の家や土地に戻る権利を持っているのです。
やりたければそうした権利を売り払うこともできます、しかしあなたが決めることではないのです。
「元の場所に戻りたくない人達[の土地や建物]は没収されるべきだ」と言う権利は、あなたやそれ以外の誰かにはありません。
全ての難民達は Nakba(破局)後の60年間で土地や建物を没収されてるのです:土地を持っていて、オレンジや果物の木を育ててる場所を持ってる人達で、強制的に離れさせられた人達もいます。
そう、オリーブの樹みたいに何千本も引き抜かれてなければ、Jaffa にあるオレンジはイスラエル建国以前からあり[訳注4]、イスラエル建国後も残っているのです。

私たちの権利と、60年もの間元の家と土地に戻るために待ち続け闘ってきた、借りた土地にある難民キャンプに住んでいる人達の希望と夢と権利を放棄するために、あなたは選ばていなかったのです。

毎日毎日、毎週毎週、毎月毎月、毎年毎年、私たちは[この状況を変えるという]嘘と破られた約束と共に生きています。
良い変化は訪れています、しかし悪い変化も起きてるので、状況は良くなってません。
こうした交渉では何も改善しないのです、議長。
Ehud Olmert 首相[当時]やイスラエルの占領軍が私たちが何も隠す物がないと満足するように、自分達の服を脱いで裸の姿を見せるべきなのでしょうか?

昨日、イスラエルの人達を住まわせ非ユダヤ系の人達を追い出すという神との約束を果たす、と聖典クルアーンと聖書に述べられてる部分を引用してるビラを、東エルサレムでイスラエル政府が配布していました。
多くの国が私達にどこかに行くように勧めてるから元の土地を離れることで彼らを支援する[訳注5]、と理解するべきなのですか?
その時、私達は平和に暮らせ、私達の子供が孫達と共に幸せになって、より良い方向に向かうのでしょうか?
これが次の段階なのですか、議長?
[私達の]土地で入植地が広げられて、イスラエルに[私達の]存在を認められず、イスラエルが何を望んでもそれに従うくらい従順であり世界中が私達に同情するくらいおめでたい人達であるべきなのでしょうか?
そして、痛みを伴う約束と困難な解決策について話してるとき、約束をして、許されて、忘れて、諦めて、解決するには離れるか死ぬかというおめでたい人達であるべきなのでしょうか?

議長へ:

私は、ここを離れる準備はしてません。
たとえ、それが生きるために稼ぐただ 1つの手段だとしても、ここを離れないでしょう。
たとえ英・仏に城を、紅海近くにスイス風小屋を、Bahama に不動産を持っても、私は私の村に帰る権利を諦めません。
私の権利は私のものであり、あなたや他の誰かにそれを取り消したり取引したり[交渉とかで]遊ぶ権利はありません。

あなたの民が望むことの為に無知の塔から去り現実に降り立ち、パレスチナの人達の血が交渉している相手によって日々流され不毛で実りのない交渉のうちに私達が苦しむ災害にもかかわらずこの場所に対する情熱を持つ人達の目を見るのを望みます。
私達は、このような喜劇を止めるだけの恥を持ってないのでしょうか?

あなたの政治助言者達の頑固さにより今も内輪もめをして傷ついてるのは結局あなたの民であるパレスチナの人達によって交渉に使うエネルギーが生み出されてるなら、私はあなたを慕っているでしょう、議長。
この喜劇を止め、人々をまとめるだけの時間と力に価値を与えないくらい、私達には値打ちがないのでしょうか?
小麦袋 1個なりオイル缶 1本、使用期限切れの薬以上の価値もない人道的問題とだけ認識されるのでは不十分でしょうか?
生産的つ自分達の尊厳を保てるよう援助するより貧困や慈善事業に依存して生きてるこのような人達が、物乞い集団に変えられるだけでは不十分ですか?
これは、占領による屈辱ではないのですか?
私達は、さらなる屈辱を待たなければならないのですか?

私は、平和と暴力の無い世界を全面的に信じています。
希望と権利と正義を全面的に信じています。
決して憎むことを学びませんでした。
誰も憎みませんでした[実際はどうだか不明だが]。
私の両親は、愛と穏やかさに満ちていました。
私と私の兄弟に、他者への尊敬と他人に与える無限の愛を与えること以外は教えませんでした。
暴力を振るうなら人間性も失う、と私達に教えてくれました。
けれどもそれと同時に、私達に何が権利で不正義と不正に対し立ち向かうことを教えてくれました。
だからこそ、人々の3分の2が尊厳を持って破壊された土地と家に戻り、流浪による苦難への補償、英国の銀行とシオニスト達によるその他銀行に盗まれた土地や場所を返してもらう権利を捨てるという権限があなたにない、と言うのもためらわれるのです、議長。

議長へ:

あなたがこれを読んでくれるかどうか、あるいはあなたが交渉を続ける際私が生きているかどうか、私には分かりません。
しかし、心から出るこうした言葉があなたに届くのを、そして私達に -- あなたの人達でもある -- 今も希望と強さを見出すのを願います、議長。
私達は、けっして私達の権利を捨てません。
平和は、正義と共にもたらされます。
全てが歴史の一瞬におけるただの冗談だとしても、真の平和は真の正義を実現することで打ち立てられるのです。

私の名前は、Abdelfattah Abdelkarim Hasan Ibrahim Mohamad Ahmed Mostafa Ibrahim Srour Abusrour です。
私は、未だに2つの錆びた鍵を持ち、自分達の土地にいる難民なのです。



訳注1:Bethlehem の近くにある難民キャンプ。
当然というかなんつーか、度々イスラエル軍による攻撃を受けている・・・。
一応、位置関係は↓で。
・Satellite View of 'Ayda R.C., Bethlehem(PalestineRemembered.com)

訳注2:Bayt Nattif(原文では Beit Nateef)という村は、Hebron という町から北西約21km にあった村。
また、Zakariyya(原文では Zakareya)という村は、Hebron という町から北西約25km にあった村。
一応、それぞれの村のネタは↓で。
・Welcome To Bayt Nattif District of Hebron Ethnically cleansed 21,886 days ago(PalestineRemembered.com)
・Welcome To Zakariyya District of Hebron Ethnically cleansed 21,885 days ago (PalestineRemembered.com)

しかし、スペルが紛らわしい・・・。


訳注3:コーラン(クルアーン)の最初の章。
何かにつけて唱えるのが通例らしいが・・・。
・1. 開端 (アル・ファーティハ)(日本ムスリム情報事務所;註解)


訳注4:Tel Aviv に近い場所にあった町。
例によって(?)、1948年5月13日にユダヤ系武装勢力によって滅ぼされた。
この町のデータは↓で(またか)。
・Welcome To Jaffa District of Jaffa Ethnically cleansed 22,048 days ago(PalestineRemembered.com)

ちなみに、「オレンジ云々」ってのは、元から住んでる人が持ってる土地の事にもひっかけてる。


訳注5:1948年の Nakba の際、アラブ諸国がパレスチナの人達に「家を出て行くように言われた」というある意味有名な嘘に引っ掛けてる。
転じて、パレスチナ問題における国際社会の無力ぶりも批判してる・・・というのはゲスの勘ぐりか?
---- 訳文以上 ----

う~ん。
この公開書簡で、Abbas 議長に対して厳しい意見が出るのも無理はないんだよな。
なんせ、Abbas 議長の行動を見てると、なんかイスラエルの使いっ走りをやってる感が否めないし。
それに、Hamas と Abbas 議長率いる PA(自治政府)の内紛も収まってないし。


Abbas 議長以上に実力のある人が出てくれれば、話は違ってくるんだろうけど・・・。
そう簡単にはいかね~か(苦笑)。


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