イエス・キリストの福音をご紹介します。

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わたしたちはほかの人々を裁くのではなく,愛するようにと命じられています。

2022-11-17 05:24:24 | 日記
主のくびきは負いやすく,主の荷は軽いのです
J・アネット・デニス姉妹
中央扶助協会会長会第一顧問
この地上にいる一人一人が神の子供であり,神は一人一人を愛しておられることを覚えておきましょう。

これは,キャシーという名の猟犬を手塩にかけて育てていたジャックという男性の話です。ジャックはキャシーのことをとても誇りに思っており,キャシーがどれだけ有能な犬なのかをよく自慢していました。その有能さを直に見てもらおうと,ジャックは何人かの友人に声をかけました。狩猟クラブに到着したジャックは,キャシーを外で走り回らせている間に受付を済ませました。
狩猟を始める時間になり,キャシーのすばらしいスキルを見せられるとわくわくしていたジャックでしたが,キャシーの様子が変でした。キャシーは普段のようにジャックの指示に進んで従おうとはせず,ただただジャックの側にいたい様子でした。
ジャックはキャシーに対し,いらだちと怒り,恥ずかしさを感じていました。しばらくたち,ジャックは来ていた人たちにもう帰ろうかと提案しました。キャシーはトラックの後ろに飛び乗ろうとさえしなかったので,ジャックはいら立ちながらキャシーを抱き上げ,犬用のキャリーケースに押し込みました。帰宅する間,一緒に来ていた人たちが自分の犬の行動をばかにするのを聞きながらジャックは怒りを感じていました。ジャックは,なぜキャシーが正しく振る舞えなかったのか理解できませんでした。キャシーは十分な訓練を受けていましたし,以前はジャックを喜ばせ,指示に従うことを喜びとしていました。
家に着いたジャックは,いつもと同じように,キャシーに,けがやとげ,ダニが付いていないか確認し始めました。キャシーの胸の位置に手を置くと,何かが濡れているのを感じ,見ると自分の手が血まみれになっていました。体が凍りつく思いで,自らのふがいなさを感じました。キャシーは,胸骨に届くほどの深さの,長く大きな傷を負っていたのです。また,右足にも骨まで届くほど深い傷を見つけました。

ジャックはキャシーを腕に抱き,泣き出しました。キャシーに対し,誤解を持って接したことに対する恥ずかしさで胸がいっぱいになりました。キャシーが狩猟クラブで,いつもと違う行動をしたのは,傷を負っていたからでした。キャシーの行動は,痛みと苦しみ,そしてその傷による影響を受けていたのです。ジャックに従いたいという望みや,ジャックに対する愛がなかったわけではまったくありませんでした。
何年も前に聞いたこの話を,わたしは忘れたことがありません。わたしたちの中に,傷ついた人は何人いるのでしょうか。十分な理解があれば,裁くことで相手の重荷をさらに重くするのではなく,慈愛と助けたいという望みを持って対応することができるはずです。それにも関わらず,わたしたちはどれほど頻繁に相手の見かけと行動,または行動を起こさないことを理由に裁いてしまうことがあるでしょうか。
わたし自身,これまでこの過ちを何度も犯してきました。しかし個人的な経験を通して,またほかの多くの人の人生経験に耳を傾ける中で,主は忍耐を持ってこのことを教えてくださいました。愛をもって人々を教え導くために,御自分の時間を多く費やしてくださった愛する救い主の模範に,わたしはさらに深く感謝するようになりました。
わたしの末娘は,幼いころから情緒的な健康上の問題を抱えてきました。彼女は,人生を通じて,先に進めないと感じることが何度もありました。そのような時に側にいてくれた,この現世における天使たちへの感謝を永遠に忘れません。彼らは娘に耳を傾け,一緒に涙し,また,ともに独自の賜物,霊的な理解,互いに愛し合う関係を分かち合ってくれました。そのような愛に満ちた環境の中で,双方の重荷が軽くされることがしばしばありました。
コリント人への第一の手紙を引用したジョセフ・B・ワースリン長老は,「たといわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語っても,もし愛がなければ,わたしは,やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」と言いました。
そしてこう続けています。

「パウロから当時の新しい聖徒へのメッセージは,慈愛がなければ何をしても同じであるという,簡潔で直接的なものでした。異言を語り,預言の賜物を持ち,あらゆる奥義を理解し,すべての知識を得たとしても,また,たとえ山を動かす信仰があったとしても,慈愛がなければ,何の益にもならないのです。
『この慈愛はキリストの純粋な愛で〔す〕。』〔モロナイ7:47〕救い主は……この愛を実践し〔ました〕。」
ヨハネ書にはこのようにあります。「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」
わたしたちの教会指導者は,慈愛,一致,愛,優しさ,思いやり,赦し,憐れみについて数多くの説教を残してきました。救い主はわたしたちに,より高く,より神聖な方法,つまりすべての人が自分の居場所があり,必要とされていると感じることができる主の愛の方法に従って生活するよう勧めておられると信じています。
わたしたちはほかの人々を裁くのではなく,愛するようにと命じられています。重荷を降ろしましょう。それはわたしたちが運ぶべき重荷ではないのです。そうではなく,わたしたちは救い主の愛と思いやりのくびきを負うことができます。
「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」
救い主は罪を容認されることはありませんが,わたしたちが悔い改めるとき,御自身の愛を示し,赦しを与えてくださいます。姦淫で捕らえられた女性に対して,主は「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われました。主に触れられた人々は主の愛を感じ,その愛は彼らを癒し,変えました。主の愛により,彼らは人生を変えたいという気持ちを持ちました。主の方法に従って生活することで,喜びと平安がもたらされます。主は優しさと思いやりと愛を持って,ほかの人々もそのように生きるよう招かれました。
ゲーリー・E・スティーブンソン長老は,次のように言っています。「人生の風や嵐,病気やけがを経験するときに,わたしたちの羊飼い,介護者であられる主は,愛と思いでわたしたちを養ってくださいます。主はわたしたちの心を癒し,霊を修復してくださいます。」イエス・キリストに従う者として,わたしたちも同じように行うべきではないでしょうか。
救い主はわたしたちに,御自身に学び,御自身が行うのを見たそのとおりのことを,わたしたちも行うよう望んでおられます。神は慈愛と純粋な愛を体現されている御方です。義務感からでも,祝福を受けるからでもなく,純粋に主と天の御父に対する愛によって,主から求められる事柄を徐々に行えるようになるにつれ,主の愛がわたしたちの中に流れ込みます。そうすることで,主が求めておられるすべてのことが可能になるだけでなく,それらが最終的に想像もしなかったほど容易になり,負担が軽くなり,喜びが満ちます。練習が必要です。わたしもそうであったように長い時間がかかるかもしれませんが,愛を動機とする望みさえあれば,主はその望み,その種を用い,最終的にそれを最も甘い実がたわわに実る美しい木に変えてくださるのです。
大好きな賛美歌の一つで,わたしたちは次のように歌います。「おのれの罪,咎なぜに見えぬか。心を探りて弱きを悟らん。」わたしたちの中で,人には見えない弱さや悲しみを負っている人がいるでしょうか。反抗的に見える子供や10代の若者,親が離婚している子供,シングルマザーやシングルファザー,身体的または精神的な健康上の問題を抱えている人,自らの信仰に疑念を持つようになった人,人種的または文化的な偏見にさらされている人,孤独を感じている人,結婚を切望する人,克服したい依存症を抱えている人など,様々な人が人生において困難な経験に取り組んでいます。表面的には完璧な人生を送っているように見える人でさえも,多くの場合困難な経験をしているのです。

完璧な生活を生き,完璧な家族を持つ人などいません。もちろんわたしもそうです。同じように困難や自らの不甲斐なさを経験している人に共感しようと努めるとき,その人は苦労しているのは自分だけではないと感じることができます。だれもが,本当に自分には居場所が確かにあり,自分がキリストのからだに属し,必要とされていると感じる必要があります。サタンは神の子供たちを分断させることを強く望み,その面において大きな成功を収めています。しかし,一致には大きな力があります。この困難な現世の旅路において,わたしたちはどれほど互いに手を取り合って歩むことを必要としているでしょうか。
わたしたちの預言者,ラッセル・M・ネルソン大管長はこのように述べています。「国籍,人種,性的志向,性別,教育の程度,文化,そのほかの重要な識別子のためのいかなる 虐待も,偏見も,創造主を不愉快にさせます。そのような不当な扱いは,神の聖約の息子,娘としての立場に及ばない生活を余儀なくさせます。」
ネルソン大管長はすべての人に,天の御父のみもとに戻る聖約の道に入り,その道にとどまるように勧めていますが,同時に次の勧告も与えています。

「友人や家族が教会から離れても,その人を愛し続けてください。自分が忠実であり続けることに対して批判を受けるいわれがないのと同様に,人の選択を裁く資格もありません。」
友人の皆さん,この地上の一人一人が神の子供であり,神が一人一人を愛しておられることを思い起こしましょう。あなたの周りに,つい裁いてしまいたくなった人はいますか。そうであれば,そのようなときこそ,救い主が愛されるように愛することを実践する貴重な機会であることを忘れないでください。わたしたちが主の模範に従うとき,わたしたちは主とくびきを負い,御父のすべての子供たちの心に愛と帰属感を育む助けができます。
「わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからで〔す〕。」救い主の愛で満たされるとき,主のくびきは確かに負いやすく,主の重荷は軽く感じることができます。このことをイエス・キリストの御名により心から証します,アーメン。

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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字は、個人的に付け加えています。

本日も、お読みいただいて、ありがとうございます。

良い1日を、お祈りします。
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コリントびとへのだい一の手紙てがみ
13章
1 たといわたしが、人々ひとびと言葉ことば御使みつかいたちの言葉ことばかたっても、もしあいがなければ、わたしは、やかましいかねさわがしい鐃鉢にょうはちおなじである。
2 たといまた、わたしに預言よげんをするちからがあり、あらゆる奥義おくぎとあらゆる知識ちしきとにつうじていても、また、やまうつすほどのつよ信仰しんこうがあっても、もしあいがなければ、わたしはひとしい。
3 たといまた、わたしが自分じぶんぜん財産ざいさんひとほどこしても、また、自分じぶんのからだをかれるためにわたしても、もしあいがなければ、いっさいは無益むえきである。
4 あい寛容かんようであり、あい情深なさけぶかい。また、ねたむことをしない。あいたかぶらない、ほこらない、
5 不作法ぶさほうをしない、自分じぶん利益りえきもとめない、いらだたない、うらみをいだかない。
6 不義ふぎよろこばないで真理しんりよろこぶ。
7 そして、すべてをしのび、すべてをしんじ、すべてをのぞみ、すべてをえる。
8 あいはいつまでもえることがない。しかし、預言よげんはすたれ、異言いげんはやみ、知識ちしきはすたれるであろう。
9 なぜなら、わたしたちのるところは一部分ぶぶんであり、預言よげんするところも一部分ぶぶんにすぎない。
10 まったきものがときには、部分ぶぶんてきなものはすたれる。
11 わたしたちがおさであったときには、おさらしくかたり、おさらしくかんじ、また、おさらしくかんがえていた。しかし、おとなとなったいまは、おさらしいことをててしまった。
12 わたしたちは、いまは、かがみうつしてるようにおぼろげにている。しかしそのときには、かおかおとをわせて、るであろう。わたしのるところは、いまは一部分ぶぶんにすぎない。しかしそのときには、わたしが完全かんぜんられているように、完全かんぜんるであろう。
13 このように、いつまでも存続そんぞくするものは、信仰しんこう希望きぼうあいと、この三つである。このうちでもっとおおいなるものは、あいである。
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1Corinthians
Chapter 13
Paul discusses the high status of charity—Charity, a pure love, excels and exceeds almost all else.
1 Though I speak with the tongues of men and of angels, and have not charity, I am become as sounding brass, or a tinkling cymbal.
2 And though I have the gift of prophecy, and understand all mysteries, and all knowledge; and though I have all faith, so that I could remove mountains, and have not charity, I am nothing.
3 And though I bestow all my goods to feed the poor, and though I give my body to be burned, and have not charity, it profiteth me nothing.
4 Charity suffereth long, and is kind; charity envieth not; charity vaunteth not itself, is not puffed up,
5 Doth not behave itself unseemly, seeketh not her own, is not easily provoked, thinketh no evil;
6 Rejoiceth not in iniquity, but rejoiceth in the truth;
7 Beareth all things, believeth all things, hopeth all things, endureth all things.
8 Charity never faileth: but whether there be prophecies, they shall fail; whether there be tongues, they shall cease; whether there be knowledge, it shall vanish away.
9 For we know in part, and we prophesy in part.
10 But when that which is perfect is come, then that which is in part shall be done away.
11 When I was a child, I spake as a child, I understood as a child, I thought as a child: but when I became a man, I put away childish things.
12 For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.
13 And now abideth faith, hope, charity, these three; but the greatest of these is charity.

だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。

2022-11-16 05:22:33 | 日記
十字架につけられて
ジェフリー・R・ホランド長老
十二使徒定員会
イエス・キリストに従うために人は重荷を負い,犠牲が必要な所,苦しみが避けられない所に行かなければならないときがあります。

何年も前のことですが,大学院のクラスでアメリカの宗教史について話し合った後で,クラスメートにこう尋ねられました。「末日聖徒は,どうしてほかのクリスチャンのように十字架を信仰の象徴として使わないのですか。」
十字架に関するこのような質問は,キリストに対するわたしたちの献身について尋ねている場合が多いので,わたしはすぐに,末日聖徒イエス・キリスト教会はイエス・キリストの贖いの犠牲を,神の子らの救いのために神が用意された大いなる御計画の中心的事実,決定的な基盤,主要な教義,そして神による究極の愛の表現だと捉えていると答えました。その行いに込められた救いの恵みは,アダムとエバから世の終わりに至るまで,全人類に与えられた不可欠で普遍的な贈り物であると説明しました。また,預言者ジョセフ・スミスの言葉を引用し,「わたしたちの宗教に関するほかのすべての事柄は」イエス・キリストの贖罪に「付随するものにすぎない」と言いました。
それから,イエスが誕生する600年前に記されたニーファイの言葉を読んで聞かせました。 「さて,天使が……『見なさい』と言うので眺めると,神の小羊が……世の罪のために十字架につけられて殺されたのを見た。」
「愛し,分かち合い,招く」スイッチが完全に入ったわたしは,さらに読み続けました。復活されたキリストは新世界にいるニーファイ人に向かって,こう言っておられます。「父は,わたしが十字架に上げられるようにと,わたしを遣わされた。……(それは)すべての人をわたしのもとに引き寄せ(るためであった)。……このために,わたしは上げられたのである。 」
そこからさらに使徒パウロの言葉を引用しようとしたとき,友人の目がどんよりしているのに気付きました。彼はさっと時計に目をやると,いかにもどこかに,いやどこでもいいから,行く用事があるのに気づいたかのように,ありもしない約束に向かって飛んで行きました。こうして,その会話は終わってしまいました。

それから50年ほどたった今朝,わたしはそのときの説明を最後までやり遂げようと固く決心しています。―たとえ皆さん全員が,一人残らず腕時計を見始めたとしても,です。わたしたちが一般的に十字架を象徴として用いない理由を説明するに当たり,それを使用する人々の信仰に満ちた動機と献身的な生活に対して,深い敬意と称賛を抱いていることを明言したいと思います。
わたしたちが十字架を象徴として強調しない理由の一つは,聖書の時代にさかのぼります。はりつけの刑はローマ帝国における最も苦痛を伴う処刑方法の一つでした。そのため,イエスの初期の弟子の多くは,そのような苦痛を与える残虐な道具を強調しないことを選びました。キリストの死の意味は,確かに彼らの信仰の中心ではありましたが,約300年の間,彼らは通常,ほかの手段によって福音とは何かを伝えようとしたのです。
4世紀から5世紀にかけて,一般的なキリスト教の象徴として十字架が導入されるようになりますが,わたしたちの教会は「一般的なキリスト教」ではありません。カトリックでもプロテスタントでもないわたしたちは,回復された教会,すなわち新約聖書の時代にあった教会が回復された教会だからです。ですから,この教会の起源と権威は,公会議や信条や象徴の時代の前までさかのぼるのです。その意味で,遅れて一般的に用いられるようになった象徴が,末日聖徒イエス・キリスト教会では存在しないことが,この教会が真のクリスチャンの起こりを回復したものであることのさらなる証拠でもあります。
十字架を象徴として用いないもう一つの理由は,わたしたちが犠牲の苦しみと死だけでなく,栄えある復活を含めたキリストの使命こそ完全な奇跡であることを重要視しているからです。この関係性を強調するために,ここで毎週木曜日にソルトレークシティーの神聖な神殿で大管長会と十二使徒定員会が一堂に会する部屋の壁に掛けられている絵を二枚紹介します。これらは,わたしたちが僕として仕える主が,わたしたちのために払ってくださった代価と勝ち取られた勝利を常に思い起こさせてくれます。



キリストの二つの勝利をより公に表現する方法として,わたしたちが用いているのがトルバルセンによるこの小さな絵です。復活されたキリストがはりつけの傷も露わに栄光に満ちて墓から出て来られる様子が描かれています。



最後に,かつてゴードン・B・ヒンクレー大管長が教えたように,「教会員の生活こそがわたしたちの信仰の象徴とならなければならない」ことが思い起こされます。これらのこと,特に後者の理由を考え合わせると,十字架に言及するあらゆる聖句の中で最も重要だと思われるものを思い出します。それはペンダントやジュエリー,尖塔や標識とは何の関係もありません。

むしろ,イエスがその弟子一人一人に与えられた召しを果たすうえでクリスチャンが身につけておくべき強い誠実さと固い道徳心に関係しています。どの国でもどの時代でも,主はわたしたち皆に向けてこうおっしゃっています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。
ここで言っているのは,身に付けるのではなく,身に負う十字架のことです。イエス・キリストに従うために人は,自分またはだれかの重荷を負い,犠牲が必要な所,苦しみが避けられない所に行かなければならないときがあります。真のクリスチャンは,自分が納得できるときだけ主に従うということはできません。そうです。わたしたちはどこにいても主に従います。必要であれば,涙と苦しみを味わい,ときに独りきりになるとしても,主に従います。
教会中外で,そのように忠実にキリストに従っている人々をわたしは知っています。重度の身体障害のある子供たちや,その世話をする親たちを知っています。皆,ときに疲れ果てながら,強さと安全と,他の方法では得られない,数少ない喜びの瞬間を求めて努力しています。愛する伴侶とすばらしい結婚,そして子供が大勢いる家庭を切望し,それにふさわしいシングルアダルトを大勢知っています。これほど義にかなった願いはないでしょう。それなのに,何年たってもそのような幸運に恵まれていません。様々な精神疾患と闘いながら,切に助けを求め,情緒的安定という約束の地を渇望し,そのために祈り,必死に進んでいる人々をわたしは知っています。貧困にあえぎながらも希望を失わず,愛する家族や周りの困っている人たちのために,より良い収入を得るチャンスを求めている人たちを知っています。また,アイデンティティーや性別,性の問題で悩んでいる人々を大勢知っています。わたしは彼らのために,そして彼らと共に涙します。彼らの決定がもたらす結果がいかに重大かを知っているからです。
これらは人生で直面する可能性のある,難しい試しとなる状況のほんの一部であり,弟子には代価が求められるという厳粛な真理を再認識させてくれます。 ダビデ王は,燔祭のための牛とたきぎを無償でダビデに与えようとしたアラウナに対し,次のように言いました。「いいえ,代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。〔なぜなら,〕わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神,主にささげることはし〔ないからです〕。」それはわたしたちも皆,同じです。
わたしたちが自らの十字架を背負って主に従うとき,その試練の重荷によって他の人が抱える重荷にもっと共感し,もっと気配りできるようにならなかったとしたら,それは大きな悲劇です。救い主が両腕を大きく広げ,その状態で釘付けにされたことは,キリストのはりつけに関する最大の逆説の一つです。それは,全人類,すべての男女および子供が,贖いと昇栄をもたらす主の胸に抱かれてもよいだけでなく,そうするよう招かれていることを,偶然に,しかし正確に描写しているからです。
苦しいはりつけの後に輝かしい復活があったように,モルモン書の預言者ヤコブの言葉のとおり,進んで「キリストを信じ,キリストの死について考え,キリストの十字架を負(う)」人にはあらゆる種類の祝福が注がれます。このような祝福はすぐに来ることもあれば,後で来ることもあります。しかし,わたしたちの個人的なvia dolorosa(いばらの道)のすばらしい結論は,祝福は必ず来るという主御自身の約束です。そのような祝福を得るために,どんなときもくじけず,逃げず,務めに決してたじろがず,自分の十字架が重いときも,一時的に道が暗くなるときも,主に従うことができますように。皆さんの強さ,皆さんの忠実さ,皆さんの愛に対するわたしの深い感謝をお伝えします。イエス・キリストが「上げられた」こと,そして主とともに「上げられ〔る〕」者に永遠の祝福を授けられることを,本日改めて使徒として,主イエス・キリストの御名により証します。アーメン。

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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字へ、個人的に付け加えています。

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マタイ16章
24 それからイエスは弟子でしたちにわれた、「だれでもわたしについてきたいとおもうなら、自分じぶんて、自分じぶん十字架じゅうじかうて、わたしにしたがってきなさい。
25 自分じぶんいのちすくおうとおもものはそれをうしない、わたしのために自分じぶんいのちうしなものは、それをいだすであろう。
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マルコ8章
34 それから群衆ぐんしゅう弟子でしたちと一緒いっしょせて、かれらにわれた、「だれでもわたしについてきたいとおもうなら、自分じぶんて、自分じぶん十字架じゅうじかうて、わたしにしたがってきなさい。
35 自分じぶんいのちすくおうとおもものはそれをうしない、わたしのため、また福音ふくいんのために、自分じぶんいのちうしなものは、それをすくうであろう。
36 ひとぜん世界せかいをもうけても、自分じぶんいのちそんしたら、なんのとくになろうか。
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本日もお読みいただいて、ありがとうございます。
良い1日をお祈りします。
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『 十字架につけられて』
『 Lifted Up upon the Cross 』
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「隣人」という言葉は単に地理的に近いという意味だけではなく,心に寄り添うことのできる近さを意味しています。

2022-11-15 05:06:34 | 日記
わたしたちの現世での管理人の職
ジェラルド・コセー ビショップ
管理ビショップ
地球と同胞を愛して大切にする人々には,すばらしい霊的な祝福が約束されています。

妻とわたしは,最近,わたしたちの母国フランスを訪れた折に,数人の孫を小さな町ジヴェルニーにあるすばらしい庭園に連れて行きました。わたしたちは,その小道を歩き,美しい花壇や優雅な睡蓮の花,池に映る光を眺めながら楽しい時を過ごしました。


このすばらしい場所は,偉大な画家クロード・モネという一人の人物による創造的な情熱から生まれたものです。モネは40年間,絵画制作の場とするために,心を込めて自分の庭を造り,育てました。モネは美しい自然に浸りながら,自分が感じた感動を絵筆に託して,色と光の描写を表現したのです。彼は,何年にもわたって,自分の庭からじかにインスピレーションを受けて,何百点ものすばらしい絵画コレクションを作り上げました。

「睡蓮の池と日本の橋」クロード・モネ画,1899年
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは周囲にある美しい自然との触れ合いによって,生涯における最も感動的で楽しい経験を数々得ることができます。その感動は,山や川,植物や動物など,このすばらしい地球を創造してくださった天の御父と御子イエス・キリスト,そして最初の先祖であるアダムとエバに対する深い感謝の念をわたしたちの心に抱かせます。
創造の業は,それ自体が目的ではありません。それは,神の子供たちのために作られた神の計画にとって不可欠な一部です。その目的は,人が試され,選択の自由を行使し,喜びを見いだし,学び成長できる環境を提供することです。そのようにして,いつの日か,人は創造主のみもとに戻り,永遠の命を受け継ぐことができるのです。
これらのすばらしい創造物は,ひとえにわたしたちを益するために備えられたものであり,創造主が子供たちを愛しておられることを示す生きた証なのです。主はこう述べておられます。「まことに,……地から生じるすべてのものは,人の益と利用のため,目を楽しませ,心を喜ばせるために造られている。」
しかし,神聖な賜物である創造物は,義務と責任を伴わずに与えられているわけではありません。これらの義務は,管理人の職の概念によって最もよく説明されます。福音の用語で,「管理人の職」という言葉は,神の所有物であるものを管理するための霊的面もしくは物質面での神聖な責任を意味し,それに対してわたしたちは責任を負っています。
聖典で教えられているように,わたしたちの現世での管理人の職には,次の原則が含まれます。
第1の原則:地球全体は,地上にいるすべての生き物を含め,神のものです。
創造主は地球の資源とあらゆる種類の生命体をわたしたちの管理に委ねましたが,完全な所有権は創造主が保持しておられます。主は言われました。「主なるわたしは天を広げ,また地を築いた。これらはまことにわたしの手の業である。そして,その中にある万物はわたしのものである。」わたしたちの家族,肉体,また命さえも,地球上にあるすべてのものは神のものです。
第2の原則:神の創造物の管理人として,わたしたちには,それらを尊び,世話をする義務があります。
神の子供として,わたしたちは,神の神聖な創造物の管理人,世話人,擁護者となる責任を任されています。主は,「被造物のために造って備えたこの世のもろもろの祝福に対する管理人としての責任を,すべての人に取らせること〔にした〕」と述べておられます。
天の御父は,わたしたちが自分の自由意志に従って地球の資源を使うことを許してくださっています。しかし,選択の自由を,分別や際限なくこの世の富を利用あるいは消費できる許可証であると解釈すべきではありません。主は次の訓戒を述べておられます。「神はこれらのものをすべて人に与えたことを喜んでいる。この目的のためにこれらのものは,思慮分別をもって,度を越さず,貪欲に取ることなく使うように造られたからである。」
ラッセル・M・ネルソン大管長はかつてこう述べました。「神の創造によってもたらされた恵みにあずかる者として,わたしたちは何をすべきでしょうか。地球を大切にし,地球の賢い管理人となり,後代の人々のために地球を守らなければなりません。
地球と自然環境の保護は,科学的あるいは政治的な必要性以上に,神から託された神聖な責任であり,わたしたちはそれに強い義務感と謙虚さをもって対応しなければなりません。それは弟子として不可欠な要素でもあります。天の御父とイエス・キリストの創造物を尊び,大切にすることなく,どのように御二方を敬い,愛せるでしょうか。
良い管理人となるために,集団でも個人でも,できることがたくさんあります。個々の状況を考慮しながら,わたしたちはそれぞれ,地球の豊かな資源をもっと敬虔にかつ慎重に使うことができます。わたしたちは地球を大切にする社会の取り組みを支援できます。わたしたちは,神の創造物を尊重するライフスタイルと行動を取り入れることで,自分自身の生活をさらに整え,より美しく,より心を鼓舞させる暮らしへと変えることができます。
神の創造物に対するわたしたちの管理人の職の頂点には,わたしたちが地球を共有するすべての人を愛し,尊重し,大切にするという神聖な義務も含まれています。彼らは神の息子・娘であり,わたしたちの兄弟・姉妹であり,彼らの永遠の幸せがまさに創造の業の目的なのです。
作家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(小説『星の王子さま』で知られるフランスの作家)は,次のように語っています。ある日,列車で旅をしていたとき,自分が難民の一団に混じって座っているのに気づきました。幼い子供の絶望的な表情を見て深く心を打たれた彼は叫びました。「庭に突然変異で新種のバラが生まれると,庭師は皆喜ぶ。彼らはそのバラを隔離し,手入れをし,育てる。しかし,人のための庭師はいない。
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは同胞のための庭師であるべきではないでしょうか。わたしたちは兄弟の番人ではないでしょうか。イエスはわたしたちに,自分を愛するように隣人を愛するよう命じられました。主の言葉によると,「隣人」という言葉は単に地理的に近いという意味だけではなく,心に寄り添うことのできる近さを意味しています。それには,近くに住んでいようと,遠い国に住んでいようと,家系や経歴,環境に関係なく,この地球に住んでいるすべての人が含まれます。
キリストの弟子としてわたしたちは,地上のすべての国々の平和と調和のためにたゆまぬ努力を払うという厳粛な義務を負っています。わたしたちは,弱い人や貧しい人,また苦しんでいる人や虐げられているすべての人を守り,慰めと救済を与えるために最善を尽くさなくてはなりません。何よりも,わたしたちが同胞に提供できる最も大いなる愛の賜物は,福音の喜びを分かち合い,神聖な聖約と儀式を通して救い主のみもとに来るよう彼らを招くことです。

第3の原則:わたしたちは創造の業に参加するよう招かれています。
神聖な創造の過程はまだ完結していません。毎日,神の創造物は成長し,拡大し,増え続けています。最もすばらしいことは,天の御父が,創造の業に参加するようわたしたちを招いてくださっていることです。
わたしたちは,神の創造物に敬意を払うのであれば,大地を耕し,この世界に自分自身の作品を生み出すことで,創造の業に参加していることになります。わたしたちの貢献は,芸術や建築,音楽,文学,文化の作品を創造することで表現され,それは地球を美しくし,わたしたちの感覚を研ぎ澄まし,人生を輝かせます。また,地球とそこに住む生命を守るための科学的または医学的な発明によっても貢献することができます。トーマス・S・モンソン大管長は,この概念を次の美しい言葉にまとめています。「神が人類に与えてくださったのは未完成の世界でした。人が自分の技能を使えるようにするためです。……それによってわたしたちは,創造の喜びとすばらしさを知ることができます。
イエスのタラントのたとえの中で,主人は旅から帰って来ると,タラントを増やした二人の僕を称賛して褒美を与えました。対照的に,主人は,タラントを地の中に隠した者については「役に立たない」僕と呼び,与えられていたものさえも取り上げました。
同様に,地上の創造物の管理人であるわたしたちの役割は,それらを保存し,維持するだけではありません。主から期待されているのは,わたしたちが聖なる御霊に促されて自分の利益のためだけでなく,ほかの人々を祝福するために,主から託された資源を増やし,強化し,改善するために熱心に働くことです。
親,教師,指導者などの役割にかかわらず,人が成し遂げるあらゆる業の中で,神と共同の創造者となり,命を与え,その子供が学び,成長し,活躍するのを助けるという経験に勝るものはありません。創造主のパートナーとして,神の霊の子供たちに肉体を与え,彼らが神聖な可能性を発揮できるように助けることほど,神聖で充実感がありながら,同時に多大な努力を要する管理人の務めはありません。
共同の創造者という責任が常に思い起こさせてくれることは,生命と人の体が神聖であり,それらは神以外のだれのものでもないこと,それらを尊重し,守り,大切にするために,神がわたしたちをその守護者にされたということです。生殖の力と永遠の家族を築くための神の戒めは,神の計画にとって非常に重要なこの聖なる管理人の務めにおいて,わたしたちを導くものです。
兄弟姉妹の皆さん,主にとってはすべてが霊にかかわるものであるということを理解しておかなければなりません。それは,ごく日常のこの世的な面を含めてです。わたしは,地球と同胞を愛して大切にする人々に,すばらしい霊的な祝福が約束されていることを証します。皆さんは,この神聖な管理人の職に忠実であり続け,永遠の聖約を尊ぶときに,神と御子イエス・キリストについてもっと深く知るようになり,そして皆さんの生活の中で御二方の愛と影響力をもっと豊かに感じるようになることでしょう。これらのすべては,皆さんが来たるべき世において御二方とともに暮らし,さらなる創造の力を受けるための備えとなるのです。
この死すべき世の終わりに,主はわたしたちに,主の創造物をどのように治めたかを含め,神聖な管理人の職について報告するよう求められることでしょう。そのときに,わたしたちの心にこうささやく主の愛ある言葉を聞くことができますように。「良い忠実な僕よ,よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから,多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と。イエス・キリストの御名により,アーメン。
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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字は、個人的に付け加えています。
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ルカ
10:25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

10:26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

10:27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

10:28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

10:29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

10:30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

10:31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

10:32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

10:33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

10:35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

10:36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

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本日もお読みいただいて、ありがとうございます。

良い1日をお祈りします。

あわててはいけない。

2022-11-14 05:02:16 | 日記
心の底から
ミッシェル・D・クレーグ姉妹
中央若い女性会長会第一顧問
わたしたちはイエスに従う者となって,主の弟子としての道を心の底から喜んで歩み続けるべきです。

これから何が起こるのかが分かると助かるときが,時々あります。
この世での務めが終わりに近づいたころ,イエスは使徒たちに,苦難の時が来ると言われましたが,「あわててはいけない」とも言われました。確かにイエスは去られましたが,彼らを放ってはおかれませんでした。主の御霊を送って,彼らが主を覚え,しっかりと立ち,平安を見いだせるようになさったのです。救い主は,御自分の弟子であるわたしたちとともにいるという約束を守ってくださいます。しかし,わたしたちは主がおられることを知り,喜ぶために,常に主を仰ぎ見る必要があります。
キリストの弟子は,常に苦難に遭ってきました。
親友が,アメリカ中西部のNebraska Advertiser(ネブラスカ・アドバータイザー)という新聞の古い記事を送ってくれました。1857年7月9日付けです。こう書いてありました。

「今朝早く,ソルトレークを目指すモルモンの一行が通り過ぎて行った。(およそ華奢とは言えない)女性たちが獣のように手車を引いていた。と,そのうちの一人が黒い泥の中に転んでしまい,一行は小休止することになった。子供たちは,〔見たことのない〕異国風の服を着て,母親たちと同じ決死の表情を浮かべながら重い足取りで歩いていた。」
わたしは,この泥まみれになった女性について,あれこれと考えました。なぜ一人で引いていたのか。シングルマザーだったのか。未知の砂漠の新しい住まいへと,時に人からあざけられながら,家財を全部積み込んだ手車を引いて泥道を進んだのです。こんな過酷な旅をするだけの内面の強さと根性と粘り強さは,どこから来ていたのでしょうか。
ジョセフ・F・スミス大管長は,このような開拓者の女性たちの内面の強さについて,こう言っています。「これらの姉妹の一人でも,末日聖徒イエス・キリスト教会に対する確信に背かせることができるでしょうか。預言者ジョセフ・スミスの使命について抱いていた思いに影を落とすことができるでしょうか。神の御子であるイエス・キリストの神聖な使命がはっきり分からなくさせることができるでしょうか。いいえ,そのようなことはまったく不可能です。なぜでしょうか。姉妹たちはそれを知っていたからです。神がそれを姉妹たちに明らかにされ,姉妹たちはそれを理解していました。地上のどのような力も,これらの姉妹が真実であると知っていたことを覆すことはできませんでした。」
兄弟姉妹の皆さん,そのような男女になることが,現代のわたしたちの召しです。荒れ野を歩くよう召されたら力を振り絞って手車を引き続ける弟子,神から啓示されたことを固く信じる弟子となり,イエスに従う者となって,主の弟子としての道を心の底から喜んで歩み続けるのです。イエス・キリストの弟子であるわたしたちは,3つの大切な真理を信じ,その中で成長することができます。
1.簡単でないときも,わたしたちは聖約を守ることができます
自分の信仰や家族や未来が危機に瀕したときや,全力で福音を実践しているのに人生がこんなにつらいのはなぜかといぶかるときには,苦難の時が来ると主が言われたことを思い出してください。苦難は計画の大切な部分であり,見捨てられたというわけではありません。苦難は主の弟子に付いて回るものです。結局,主は「悲しみの人で,病を知っていた」のです。
天の御父はわたしが快適に過ごすよりも,イエス・キリストの弟子として成長する方に関心をお持ちであることが,わたしには分かってきました。そうであってほしくないと思うときもありますが,実際にそうなのです。
楽な暮らしをしていたのでは力はつきません。日々の暑さに打ち勝つのに必要な力は主の力であり,その力は,主と交わした聖約から流れ込みます。逆風の中を信仰をもって進むこと,つまり,行うと救い主に聖約したことを,日々心を尽くして行うよう努力するのです。たとえ疲れていようと,不安であろうと,疑問や問題で悩んでいようと,いや特にそのようなときにこそ,そうすることで,少しずつ主の光と力,主の愛,主の御霊,主の平安を受けるのです。
聖約の道を歩むのは,救い主に近づくためです。目標は救い主であって,完璧にできなくてもよいのです。これは競争ではないのですから,自分の旅をほかの人と比べてはいけません。たとえ転んでも,主がついておられます。
2.わたしたちは信仰をもって行動することができます
イエス・キリストの弟子であるわたしたちは,イエスを信じる信仰には行動が伴うことを理解しています。つらいときには特にそうです。
昔のことですが,両親がカーペットを張り替えることにしました。新しいカーペットが届く前の晩,母はわたしの弟たちに,寝室から家具を出してカーペットをはがすようにと言いました。新しいカーペットを敷けるようにするためです。当時7歳だったわたしの妹エミリーは,すでに眠っていました。そこで弟たちは,妹が眠っているうちにベッド以外の家具を全部妹の部屋からそっと出して,カーペットを全部はがしました。そこで,兄たちがよくやることですが,いたずらをすることにしたのです。妹の持ち物をクローゼットから全部出し,壁にかかっていたものも全部外して,部屋を空っぽにしたのでした。そして,手紙を書いて壁に貼りました。「エミリー,わたしたちは引っ越しました。行き先は,何日かたったら手紙で教えます。愛しています。 家族より。」
翌朝,エミリーが朝食を食べに来なかったので弟たちが見に行くと,エミリーはドアも開けずに一人ぽつんと悲しそうにしていました。エミリーは後に,そのときのことをこう言っています。「がく然としました。でも,ただドアを開けさえしていたら,何が起こっていたでしょうか。何が聞こえたでしょうか。どんなにおいがしたでしょうか。自分が独りではないことが,分かったことでしょう。自分がほんとうに愛されていることが,分かったことでしょう。でも,その状況で何かをするなど,思ってもみなかったのです。ただただ諦めて,クローゼットの中で泣いていました。でも,ただドアを開けさえすればよかったのです。」
妹は,自分の目に映ったことを基に憶測しました。でもそれは,事実とは違っていました。わたしたちもエミリーのように,悲しみや心の傷,落胆,不安,孤独,怒り,失望であまりにも意気消沈してしまい,ドアを開けたり,イエス・キリストを信じる信仰をもって行動したりするなど,何かをすることすら頭に浮かばないことがあります。これは興味深いことではないでしょうか。
不可能なことに直面したときにひたすら行動した男女やキリストの弟子たちの例は,聖文の至る所に出てきます。彼らは信仰をもって立ち上がり,行動しました。
イエスは癒しを求めてきた重い皮膚病の人たちを見て,「祭司たちのところに行って,からだを見せなさい」と言われました。「そして,行く途中で彼らはきよめられた」のです。
彼らはすでに癒されたかのように,祭司のところに体を見せに行きました。そして,行くという行動を取っている途中で,癒されました。
もう一つ言いたいのですが,つらくて行動に出るのが不可能と思われる場合は,どうか助けを求めるという行動を取ってください。友人や家族,教会の指導者,専門家に助けを求めるのです。それが希望への第一歩になるかもしれません。
3.わたしたちは心の底から喜んで献身的に働くことができます
苦難の時が来たら,わたしはこの地上に来る前にキリストに従うことを選んだこと,そして信仰や健康や忍耐が試されるのはすべて,地上にいる目的を果たすためであることを思い出すようにしています。ですから,今日試練を受けたからといって神の愛を疑ったり,神を信じる信仰を捨てたりするなどということは一切考えてはならないのです。試練は計画の失敗を意味するのではなく,わたしたちが神を求めるようになるための計画の一部なのです。忍耐強く耐え忍ぶならば,わたしは主のようになっていきます。そして,主のように,苦しいときには,ますます切に祈るようになりたいと思います。
イエス・キリストは,心を尽くして御父を愛し,どんな代価を払ってでも御父の御心を行う完全な模範であられました。わたしも,イエスの模範に倣って同じことをしたいと思います。
わたしは神殿のさいせん箱にレプタ二つを投げ入れたやもめの,心を尽くし,精神を尽くす弟子としての行いに感銘を受けています。このやもめは,持っているものをすべてささげました。
ほかの人の目には少額としか映らなくても,イエス・キリストは彼女が多くをささげていることを御存じでした。わたしたちにも同じことが言えます。主は足りない点を見て失格とせずに,信仰を働かせて成長する機会だと見られます。
まとめ
ともにイエス・キリストに従う皆さん,わたしは心の底から主の側に立つことを選びます。主が選ばれた僕であるラッセル・М・ネルソン大管長と使徒たちの側に立つことを選びます。彼らは主の代弁者であり,わたしと救い主を結んでくれる儀式と聖約の管理者だからです。
わたしは何度つまずいても起き上がり,イエス・キリストの恵みと,人に能力を授ける力に頼ります。主と交わした聖約を守り,疑問を感じたときには神の言葉の研究と信仰と,聖霊の助けによって解決します。わたしは聖霊の導きを信頼しています。小さな簡単なことを行うことによって,主の御霊を日々求めます。
これが,わたしの歩んでいる弟子の道です。
そして,死すべきこの世の日々の傷が癒える日まで,わたしは主を待ち望み,主を信頼します。主の時と主の知恵と,主の計画を信頼します。
わたしは皆さんと手を携えて,永遠に主とともに立ちたいと思います。心の底からそう思います。わたしたちが心を尽くしてイエス・キリストを愛するならば,主はすべてを与えてくださいます。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会から、ご紹介しました。

青字赤字は、個人的に付け加えています。
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ルカ21章
1 イエスはをあげて、金持かねもちたちがさいせんはこ献金けんきんれるのをられ、
2 また、あるまずしいやもめが、レプタ二つをれるのを
3 われた、「よくきなさい。あのまずしいやもめはだれよりもたくさんれたのだ。
4 これらのひとたちはみな、ありあまるなかから献金けんきんれたが、あの婦人ふじんは、そのとぼしいなかから、っている生活せいかつ全部ぜんぶれたからである」。
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本日も、お読みいただいて、ありがとうございます。
良い1日を、お祈りします。
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あわててはいけない。
See that ye be not troubled.
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元気を出しなさい。わたしはあなたがたの中におり,あなたがたを見捨てていないからである。

2022-11-13 07:09:29 | 日記
サタンに耐え得る生活を築く
ホルヘ・F・ゼバヨス長老
七十人
わたしたちが引き続き,御父が設計された神の計画と仕様書に従って生活を築けるよう祈ります。

長年,このカンファレンスセンターの美しい檀上から,すばらしい勧告と霊感,教え,啓示を受けてきました。折に触れて,話者が自分の精通している分野や経験に関連したたとえを用いて,イエス・キリストの福音の原則を明確かつ力強く説明することがあります。
それによりわたしたちは,例えば飛行機や飛行について学び,最初のほんのわずかな逸脱により,元の目的地から遠く離れた場所へ行き着くことなどを学びました。また,実際の心臓と,主に従うようにという主の招きに応じるのに必要な,大きな心の変化との比較からも学びました。
今回は,わたしの職業に関して自分が学んできた分野から霊感を受けたたとえを加えさせていただきたいと思います。土木工学の世界の話です。大学で学び始めた当初より,わたしは一定の条件を満たして,当時「地震の揺れに対抗する」と考えられていた建物などの構造物の設計方法を教えてくれる授業を取ることを夢見ていました。
そしてついに,この教科の授業初日を迎えました。教授は開口一番,このように述べました。「皆さんは,このコースを学び,地震に対抗する構造の設計方法を学びたいと確かに思っていることでしょう。」これに対して,多くの学生が大きくうなずきました。それから,教授はこのように言いました。「残念ながらそれはできません。なぜなら,わたしは『対』,つまり地震に対抗する建物の設計方法を教えることはできないからです。いやが応でも地震は起こるため,対抗するなど無意味です。」
それから,このように付け加えました。「わたしが教えられるのは,『耐震』構造の設計方法です。耐震構造とは,地震から生み出される力に耐え,深刻な被害を被ることなく建ち続け,造られた目的であるサービスを提供し続けられる構造物です。」
技師は,基礎や柱,梁,コンクリート平板,設計中のその他の構造物の諸要素の,寸法や性質,特徴を示す計算をします。その結果は,計画や技術仕様書に作り替えられます。計画を実現し,その設計と建設の目的を果たせるように,建設業者は計画や仕様書に厳密に従わなければなりません。
耐震工学のその最初の授業から40年以上たった今でも,その後の職業人生で自分が設計する構造物において耐震の概念が重要だとさらに深く理解し始めたときのことを鮮明に覚えています。それだけでなく,さらに重要なことは,この概念が自分自身の人生における教化の過程で,また自分が良い影響を及ぼす相手の人生において,常に存在するということです。
天の御父が定められた救いの計画の知識に頼り,イエス・キリストの回復された福音の恩恵を受け,生ける預言者の霊感あふれる導きに頼ることのできるわたしたちは何と恵まれているのでしょう!これらのものはすべて,神が設計された「計画」と「技術仕様書」を構成し,幸福な生活を築く方法を明確に教えてくれます。罪に耐え,誘惑に耐え,天の御父や愛する家族とともに暮らすという永遠の行く末をくじこうと精力的に画策するサタンの攻撃に耐え得る生活を築く方法を教えてくれるのです。
救い主御自身も,教導の業の初めに悪魔の誘惑にさらされました。しかし,イエスはその大きな試しを首尾よく切り抜けられました。サタンに対抗する,あるいは誘惑に対抗する姿勢を示すことで,どのような結果になったでしょうか。イエスが最も困難な瞬間を見事に切り抜けられた理由は,霊的な備えにほかなりません。そのおかげで,イエスはサタンの誘惑に耐え得る状態にあられたのです。
救い主がその重要な局面に備えられる助けとなった要因にはどのようなものがあったでしょうか。
まず,主は四十日四十夜断食されました。その断食には,絶えず祈りが伴っていたに違いありません。そのため,主は身体的には弱い状態でありながら,その霊はとても強かったのです。幸い,わたしたちはそのような期間にわたって断食するよう求められてはいません。その代わりに,1か月に1回,24時間だけ断食するよう求められており,その断食により,霊的な強さがもたらされ,この世の試練に耐える備えができます。
次に,救い主が誘惑を受けられた話の中で,主は常に聖文を念頭に置き,聖文を引用し,聖文を適切な瞬間に用いながらサタンに答えられたことが分かります。
サタンが,石をパンに変えて長時間にわたる断食の飢えをしのぐよう主を誘惑したときに,主はこのように言われました。「『人はパンだけで生きるものではなく,神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。」その後,主が宮の頂上におられたときに,サタンが主の力を示すよう誘惑したときに,主は権能をもってこのように答えられました。「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」また,サタンの3つ目の試みに対して,主は次のように答えておられます。「『主なるあなたの神を拝し,ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」

地震が起こると,適切に設計され建設された構造物にもその痕跡が残ります。例えば,割れ目ができたり,家具が倒れたり,天井が落ちたり,窓が破損したりという結果を引き起こします。しかし,このよく設計され建築された建物は,その居住者を守るという目的を果たし,修繕すれば元の状態を取り戻します。
同様に,神の完璧な設計どおりに生活を築こうと努力していても,サタンの打撃により,生活の中に「割れ目」や部分的な破損が引き起こされることがあります。これらの「割れ目」は,間違いを犯したことや,すべてを完璧にできないこと,あるいは自分が望むほど良い人間ではないことに対して,悲しみや後悔の念を抱くという形で表れることがあります。
しかし,ほんとうに大切なことは,神が設計された計画と仕様書,つまりイエス・キリストの福音に従ったために自分がまだ立っている,ということです。生活という構造物は,サタンの試みやわたしたちが直面せざるを得なかった困難な状況のために破壊されてはいません。むしろ,前進する備えができています。
人が存在する目的として聖文の中で約束されている喜びは,一つも困難や悲しみを経験しない,つまり誘惑や逆境の結果である「割れ目」がない,あるいは地上の生活における実際の試練を免れるという意味だと捉えるべきではありません。
この喜びは,このように語ったニーファイの人生に対する視点と関連しています。「わたしはこれまでの人生で多くの苦難に遭ったが,生まれてこのかた主の厚い恵みを受け〔た〕。」

「生まれてこのかた」です。つまり,ニーファイが自分の兄たちから理解されず拒まれて苦しんでいたときも,兄たちに船で縛られたときも,父であるリーハイが亡くなったときも,レーマンとレムエルがニーファイ人の敵となったときもです。そのような苦しい時期でさえ,ニーファイは主の厚い恵みを受けていると感じていたのです。
わたしたちが耐えられないような誘惑を受けることを主がお許しにならないと知り,安心できます。アルマは次のように招いています。「自分が耐えられないような誘惑を受けないように,目を覚ましていて絶えず祈りなさい。そのようにして,聖なる御霊の導きを得て,謙遜,柔和,従順になり,忍耐強くなり,愛に富み,限りなく寛容になって……ほしい。」
同じことが,人生の試練にも言えます。アンモンは主の言葉について思い出させています。「行き,忍耐して苦難に耐えなさい。そうすれば,あなたがたに成功を得させよう。
わたしたちが逆境や誘惑,理解できない状況,弱さ,さらには死に直面するときに,主は常に助けてくださいます。主はこのように述べておられます。「さて,まことに,あなたがたに言う。そして,わたしは一人に言うことをすべての者に言う。幼い子供たちよ,元気を出しなさい。わたしはあなたがたの中におり,あなたがたを見捨てていないからである。」主は決してわたしたちをお見捨てになりません。
わたしたちが引き続き,御父が設計され,救い主イエス・キリストを通して実現された神の計画と仕様書に従って生活を築けるよう祈ります。このようにして,救い主の贖罪を通してわたしたちに及ぶ恵みのおかげで,わたしたちが首尾よく,罪や誘惑に耐え得る人生を築き,人生の悲しみや困難な時期を耐え忍ぶ強さを得ることができるでしょう。さらに,御父と救い主の愛を通して約束されているあらゆる祝福にあずかれる状態に到達できます。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

青字赤字は、個人的に付け加えています。

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第1コリント
10:13あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

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アルマ13章
28 しかし、あなたがたはしゅまえにへりくだり、しゅせいなるび、ぶんえられないようなゆうわくけないように、ましていてえずいのりなさい。そのようにして、せいなるたまみちびきをて、謙遜けんそんにゅう従順じゅうじゅんになり、忍耐にんたいづよくなり、あいみ、かぎりなく寛容かんようになって、

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「 わたしは一人に言うことをすべての者に言う。幼い子供たちよ,元気を出しなさい。わたしはあなたがたの中におり,あなたがたを見捨てていないからである。」(教義と聖約61:36)

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ヨハネ
14:18わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
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マタイ
28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。

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今回の投稿で、500回になりました。お読みいただいた、皆様に感謝します。
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最初に、英文で読むようにしていますので、気になった英単語をご紹介します。

antiseismic building
耐震建築{たいしんけんちく}

(英辞郎から、引用)

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seismic
【形】
  1. 地震{じしん}の[に関する・によって引き起こされる]
  2. 〈話〉極めて重大{じゅうだい}な[大きい]、劇的{げきてき}
  3. 〈話〉影響力{えいきょうりょく}の強大{きょうだい}
レベル11、発音sáizmik、カナサイズミク、分節seis・mic

(英辞郎から引用)

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vibration
【名】
  1. 振動{しんどう}
  2. 心の動揺{どうよう}
  3. 〈米俗〉〔人・場所{ばしょ}・状況{じょうきょう}などを見て生じる〕感情{かんじょう}[気持{きも}ち]、〔雰囲気{ふんいき}などから起きる〕感情{かんじょう}◆通例{つうれい}、vibrationsまたはvibes
レベル8、発音vaibréiʃən、カナヴァイブレイション、変化《複》vibrations、分節vi・bra・tion

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seismic → eとsを抜きます
→simic→sim→震 あるいは振
少し無理がありますかね。

S系統は、揺れる意味を持っている感じ。

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創世記

第11章

11:1全地は同じ発音、同じ言葉であった。 11:2時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 11:3彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 11:4彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 11:5時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 11:6言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 11:7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

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お読みいただいて、ありがとうございます。
もともと言語はひとつということから、推測してみました。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

良い安息日を、お祈りします。

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(追加)
From seiein "to shake"と、ロングマン現代英語辞典とありました。
seiein→eを抜きます→siin→振、震