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最も成功するのは最も謙遜な人たちである,なぜならほかの人から誤りを正してもらい,学べるだけの十分な確信のある人だから

2022-09-22 05:30:22 | 日記
キリストにあってさらに大いなるものとなる:傾きのたとえ
クラーク・G・ギルバート長老
七十人
主の定められた時に,どこから出発するかではなく,どの方向に向かうかが最も重要です。
少年のころ,わたしは大きな望みを抱いていました。ある日,学校から帰ったわたしは言いました。「お母さん,ぼくは将来何になればいいかな。プロバスケットボール選手,それともロックスター?」残念ながら,「歯の抜けた」クラーク少年には,将来スポーツや音楽で成功する見込みはありませんでした。そして幾多の努力にもかかわらず,学校の勉強では上級クラスへの選抜に落ち続けました。とうとう先生から,普通クラスで地道に頑張るよう勧められてしまいました。時がたつにつれ,力不足を補う学習習慣が身につきました。でも,自分の知的および霊的な可能性が見え始めたと感じたのは,日本で伝道していたときです。わたしは熱心に努力し続けました。しかし人生で初めて,自分の成長に意識して主にかかわっていただき,すべてが一変したのです。


兄弟姉妹,この教会では,わたしたちは神のすべての子供たちに神聖な可能性と,キリストによってさらに大いなる者となる能力があると信じています。主の定められた時に,どこから出発するかではなく,どの方向に向かうかが最も重要です。

この原則を示すために,基礎的な数学を用いましょう。総大会で「数学」と聞いて,うろたえないでください。BYUアイダホ校の数学の教員たちが,この概念は初学者でも理解できると保証しています。直線の式から始めましょう。切片が,今回の話の中では出発点です。出発点である切片は,位置が高いことも低いこともあります。直線の傾きは,上向きの場合もあれば,下向きの場合もあります。


人生において,わたしたちの切片はそれぞれ異なります。——異なる場所から出発し,境遇も異なります。生まれたときに切片が高く,機会に満ちている人がいます。最初の時点で,困難の多い,不公平に思える状況の人もいます。その後,人は個人の成長という傾きに沿って進歩します。わたしたちの将来は,出発点ではなく,傾きによって大きく左右されます。イエス・キリストは,わたしたちの出発点がどこであろうと,神聖な可能性を見ておられます。主は,貧しい人,罪人,心身の弱さを抱えた人,漁師,取税人,さらに熱心党の人の可能性を御覧になっていました。どこから出発しようと,キリストはわたしたちが与えられているもので何を行うかを考慮されます。この世はわたしたちの切片を重視しますが,神は傾きを重視されます。主は御自身の計算法で,人が傾きを天に向けられるように最善の助けを与えてくださいます。

この原則は,苦しむ人々に慰めを,そして恵まれている人々に立ち止まって考える機会を与えます。まず,難しい状況を出発点としている人にお話しします。それには,貧困や少ない教育の機会,また困難な家庭環境等が含まれるでしょう。身体的な障害,心の健康に伴う制約,強い遺伝的傾向を抱えている人もいるかもしれません。出発点が難しい状況で苦しんでいる人は,救い主がその苦しみを御存じであることを心に留めてください。主は「御自分の心が憐れみで満たされるように,また〔わたしたち〕を〔わたしたちの〕弱さに応じてどのように救うかを……知ることができるように,〔わたしたち〕の弱さを御自分に受けられ」ました。

難しい状況を出発点としている人に,二つの分野において励ましの言葉をお伝えします。まず,出発点ではなく,どこに向かうかに集中してください。自分の状況を無視するのは正しくないでしょう。——それは現実であって,対処する必要があります。しかし,困難の中での出発に意識を向けすぎると,それがあなたを閉じ込めて,あなたの選ぶ能力を制限してしまうことさえあります。


何年も前にわたしは,マサチューセッツ州ボストンで,福音も教会の期待事項もよく知らない都心部の青少年たちとともに過ごしました。彼らの状況に対する理解と気遣いを,神の標準を下げてあげたいという思いと混同してしまいそうになりました。最終的に,愛を示す最も強力な方法は,決して期待を下げないことであると悟りました。知るかぎりのすべてのことを行い,ともに彼らの持つ可能性に焦点を当てていくと,青少年の一人一人が自分の傾きを高くし始めました。福音において,彼らは緩やかに,しかし着実に成長しました。今日,彼らは伝道に行き,大学を卒業し,神殿で結婚し,私生活でも仕事でもすばらしい人生を送っています。


次に,あなたの傾きが上に向くよう主に助けを求めてください。わたしがBYUパスウェイ・ワールドワイドの学長を務めていたとき,ペルーのリマで大規模なディボーショナルに出席しました。カルロス・A・ゴドイ長老が話者でした。ゴドイ長老は集まった人々を見渡し,多くの忠実な第一世代の大学生を見て圧倒されたようでした。自身のかつてのつらい境遇を思い起こしたのでしょう。ゴドイ長老は気持ちを込めて語りました。主は「皆さんが自分で行えないところは助けてくださるでしょう。〔ですから〕このプロセスで主に助けを求めてください。」預言者ニーファイは,「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われる」と教えています。わたしたちは,悔い改めを含め,最善を尽くさなければなりませんが,主の恵みによってのみ,自分の神聖な可能性を実現できるのです。





最後に,高い地点から出発している人に二つのことを助言させてください。まず,自分で生み出したのではないかもしれない状況で,謙遜でいられるでしょうか。BYUの元学長であるレックス・E・リーは,学生たちに次の言葉を引用しました。「わたしたちは皆,自分が掘ったのではない井戸から飲み,自分が起こしたのではない火で暖まってきました。」そしてリー学長は学生たちに,得たものを還元し,先駆者の築いた教育の井戸を満たすよう呼びかけました。ほかの人が植えた畑に種をまかないことは,タラントを増やさずに返すのに等しいことになりかねません。

次に,出発点が高いことに意識を向けすぎると,実際には内なる傾きがかなり下降していても,自分は成功していると感じるわなにしばしば陥ります。ハーバード大学のクレイトン・M・クリステンセン教授は,最も成功するのは最も謙遜な人たちである,なぜならほかの人から誤りを正してもらい,学べるだけの十分な確信のある人だから,と教えています。D・トッド・クリストファーソン長老は,「喜んで改善の勧めを受け,さらには自ら勧めを求める方法を見つける」よう助言しています。物事が順調にいっているように見えても,祈りをもって請い願い,改善の機会を探さなければなりません。

出発点が恵まれていようと厳しい状況であろうと,神をパートナーとするときにのみ,人は自分の最高の可能性を達成することになります。最近,全国的に有名なある教育者と話をし,BYUパスウェイの学生たちの成功について尋ねられました。彼は聡明で,質問は心からのものでしたが,明らかにこの世的な回答を求めていました。わたしは定着プログラムとメンターの取り組みを紹介し,最後に次のように言いました。「これらはどれも優れた制度ですが,学生たちが進歩しているほんとうの理由は,彼らに神聖な可能性を教えていることです。もし生涯にわたって,あなたは成功できないと言われ続けたらどうでしょうか。では,あなたはほんとうに神の息子あるいは娘であって,神聖な可能性を持っていると教えられたらどのような影響があるでしょうか。」彼は少し間を置いてから,短く答えました。「それは力になりますね。」

兄弟姉妹,この主の教会がもたらす奇跡の一つは,わたしたち一人一人がキリストによってより大いなる者になれることです。奉仕し,還元し,悔い改め,より善い人になる機会を会員にこれほど多く提供する組織を,わたしはほかに知りません。出発点が恵まれていようと厳しい状況であろうと,わたしたちの目と傾きを,天に向け続けましょう。そうするときに,キリストはわたしたちをより高く引き上げてくださいます。イエス・キリストの御名により,アーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2021年10月の総大会から、ご紹介しました。
青字赤字は、追加しています。




わたしたちは,隣人を決して厳しく無慈悲に裁いてはなりません。

2022-09-21 05:07:00 | 日記

救い主の不変の思いやり
ウリセス・ソアレス長老
十二使徒定員会

ほかの人に思いやりを示すことは,イエス・キリストの福音の本質です。

救い主が地上で務めを果たしておられたときに教えられた最も際立った原則の一つは,思いやりをもって人に接することでした。この原則と実際の応用について,イエスがパリサイ人シモンの家を訪れたときの話を掘り下げ,よく考えてみましょう。

ルカによる福音書の中で,イエスがシモンの家におられたときに,罪人と見なされた一人の女性が入って来たことが述べられています。その女性は謙虚な悔いる気持ちでイエスに近づき,イエスの足を涙で洗い,自分の髪でぬぐい,その後,足に口づけして,特別な香油を塗りました。自分はその女性よりも道徳感が強いと考えた高慢な主人は,非難の気持ちから傲慢にも心の中でこう思いました。「もしこの人が預言者であるなら,自分にさわっている女がだれだか,どんな女だかわかるはずだ。それは罪の女なのだから。」

そのパリサイ人は,独善的な態度で,イエスと女性の二人を不当に裁いたのです。しかしすべてを御存じである救い主は,シモンの思いを知り,大いなる知恵をもって,人を見下すシモンの態度に異を唱え,救い主のような特別な客を家に迎える礼儀に欠いていることを戒められました。実際,イエスがパリサイ人を直々に叱責されたことは,イエスが確かに預言の賜物を持っておられたこと,そして謙虚な悔いる心をもっていた女性が罪を悔い改めて赦されたことの証となったのです。

イエスが地上で務めを果たしておられた間の,他の多くの出来事と同様に,この話は,救い主がみもとに来るすべての人,特に助けを最も必要としている人々に対して——差別することなく——思いやりを示されたことを改めて証明しています。その女性がイエスに示した改心と敬虔な愛は,彼女が心から悔い改め,罪の赦しを受けたいと願っていたことの証拠でした。しかし,シモンの優越感は,彼のかたくなな心と相まって,彼がその悔い改めた人に思いやりを示す妨げとなりました。そして彼は,世の救い主にさえ冷淡に,軽蔑の念をもって接したのです。その態度は,彼がただ規則を厳格に形だけ守っているにすぎず,自らを美化する偽りの清さによって自分の信念をうわべだけ見せていることを表しています。

イエスの思いやりに満ちた,個人に合わせたミニスタリングは,わたしたちが隣人に接する際の完全な手本を示しています。聖典には,救い主が深い不変の思いやりに動かされて当時の人々に接し,苦しんでいる人々や「飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れている」人々をどのように助けられたかの,数え切れないほどの実例があります。救い主は,肉体的にも霊的にも重荷から解放する必要のある人々に,憐れみの手を差し伸べられました。

イエスの思いやりある態度は,慈愛,すなわち,贖いの犠牲の本質である純粋かつ完全な愛に基づいたものです。思いやりをもって行動することは,聖めを受けようと努める人々の基本的な特質であり,この神聖な特質は悲しむ人とともに悲しむことや,共感する,情けをかける,親切にすることなど,クリスチャンの別の特質とも結びつきます。人に思いやりを示すことは,実際,イエス・キリストの福音の本質であり,わたしたちが霊的にも情緒的にも救い主に近いことをはっきり示す証拠となります。さらに,それは救い主がわたしたちの生き方に及ぼしている影響のレベルや,わたしたちの霊の成熟度合いを表しています。

イエスの思いやりのある行動は,行うべき務めのリストに基づき,時折あるいは義務的に行われたものではなく,日々,神と神の子供たちに対する主の純粋な愛と,彼らを助けたいという主の不変の願いを現実に示すものであると気づくことが重要です。

イエスは遠く離れていても人々の必要を知ることがおできになりました。例えば,ある百卒長の僕を癒された後すぐに,イエスが,カペナウムからナインという町へ向かわれたことは驚くには当たりません。その地でイエスは,地上での務めの中で最も心優しい奇跡の一つを行われました。やもめとなった母親の一人息子である死んだ若者に,起きて生きるようにお命じになったのです。イエスは,その貧しい母親の深い苦悩だけでなく,彼女の人生の困難な状況をも感じ取り,心からの思いやりを抱かれました。

罪深い女性やナインのやもめのように,わたしたちの影響の及ぶ範囲にいる多くの人が,慰めや関心,受け入れられること,そしてわたしたちが提供できるあらゆる助けを求めています。わたしたちは皆,主の御手に使われる者となり,イエスのように,助けの必要な人に思いやりを示すことができます。





わたしの知っているある少女は,とても重い口唇口蓋裂を持って生まれました。生後2日目にして,一連の手術のうちの最初の手術を受けなくてはなりませんでした。この少女と両親は,同じ問題を抱えている人々への心からの思いやりに動かされて,複雑な現実に直面するほかの人々を支援し,理解し,情緒面で助けを与えようと努めています。彼らは最近,手紙にこう書いていました。「娘の問題によって,わたしたちは,慰めと支援と励ましを必要としているすばらしい人たちに出会う機会がありました。現在11歳になった娘は,かつて同じ問題を抱えている赤ちゃんの両親と話をしました。娘は,パンデミックのためにマスクを着けていましたが,会話の最中に少しの間外しました。それによって,その両親は,赤ちゃんの問題を解決するのに,この先数年かかるとしても希望があることを確認できたのです。救い主が行われるように,苦しむ人へ思いやりを示す機会があることにとても感謝しています。だれかの苦痛を和らげる度に,自分の苦痛が和らぐのを感じるのです。」

愛する友人の皆さん,救い主の模範に倣って,自分の生き方に思いやりを取り入れるよう意識的に努めるときに,人々の必要にさらに敏感に気づくことができます。その感受性が増すことで,心からの関心と愛の気持ちが,自分のあらゆる行動に浸透します。主はわたしたちの努力を認めてくださり,わたしたちが主の御手に使われる者となり,人の心を和らげ,手が「垂れている」人に安らぎをもたらす機会を必ず与えてくださいます。

またパリサイ人シモンへのイエスの忠告から明らかなように,わたしたちは,隣人を決して厳しく無慈悲に裁いてはなりません。わたしたちは皆,自分の不完全さのために,愛に満ちた天の御父の理解と憐れみを必要としているからです。これは,救い主が別の折に述べられた次の教えそのものではないでしょうか。「なぜ,兄弟の目にあるちりを見ながら,自分の目にある梁を認めないのか。」

人の態度や反応に影響を及ぼす状況すべてを理解するのは容易ではないということを,よく考える必要があります。見かけは当てにならず,多くの場合,人の振る舞いをそこから正確に測ることはできません。一方,キリストは,状況のあらゆる側面をはっきり理解することがおできになります。救い主はわたしたちの弱さをすべて御存じでありながら,すぐに非難はなさらず,時間をかけて思いやりをもって働きかけ続け,わたしたちの目から梁を取り除く助けを与えてくださいます。イエスは,外見ではなく,常に心を見られます。主は,「うわべで人をさばかない」ようにとおっしゃっています。

さて,ニーファイ人の十二弟子に対する救い主の賢明な勧告について考えてみてください。

「あなたがたが知っているように,将来あなたがたは,わたしがあなたがたに与える公正な判断力によって,この民を裁く者となるであろう。したがって,あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。 わたしのようでなければならない。」
「わたしや天におられるあなたがたの父が完全であるように,あなたがたも完全になることを,わたしは望んでいる。」

つまり,欠点と思われるほかの人の弱さを,自分の判断で不当に裁く人々に,主は裁きを下されます。義にかなった裁きを行う資格を得るためには,救い主のようになり,思いやりをもって人の不完全さを見るように努めなければなりません。救い主の目で見るようにです。この先も完全に至る長い道のりがまだあることを考えると,ほかの人の不完全さに執着して多くの時間とエネルギーを費やすより,パリサイ人の家で悔い改めた女性のように,イエスの足もとに座して,自分自身の不完全さに対する憐れみを懇願する方がよいでしょう。

愛する友人の皆さんに証します。救い主の思いやりの模範を生活に取り入れようと努めるときに,隣人の徳をたたえる能力は増し,人の不完全さを裁く生まれながらの本能は低下します。わたしたちと神との交わりは深まります。間違いなく,人生はもっと思いやりに満ちたものとなり,柔和な気持ちが増し加えられ,終わりのない幸福の源を見いだすでしょう。わたしたちは平和をつくり出す人として知られるようになり,春の朝露のように穏やかな言葉で話します。

わたしたちが周りの人々に対してもっと寛容で,理解を示す人になれますように,また,完全な優しさの中で,主の憐れみが人の不完全さに対するわたしたちのいら立ちを和らげるように祈ります。これはわたしたちへの救い主の招きです。わたしは証します。主は生きておられ,寛大で忍耐強い弟子の完全な模範となる御方です。わたしはこれらの真理について証します。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2021年10月の総大会から、ご紹介しました。

赤字青字は、追跡しています。

主は『打ち砕かれた心を持つ者を癒す』方法を御存じなのです」

2022-09-20 05:30:00 | 日記
心の健康
エリック・W・コピシュカ長老
七十人

わたしたち家族が試練を経験したときに気づいたことを幾つか紹介したいと思います。

わたしたち家族は,聖約の道を喜びをもって歩みながら豊かな祝福を受けてきましたが,非常に高い山にも直面してきました。心の病について,かなり個人的な経験を紹介したいと思います。これにはうつ病や重度の不安症,双極性障害,多動性障害(ADHD)が含まれ,時にはそのすべてが組み合わさっていることもあります。関係者の承諾を得たうえで,この繊細な経験について紹介します。

奉仕の務めの間,わたしは同じような経験をしてきた何百もの個人や家族に出会ってきました。荒廃をもたらす病気が地を覆うと聖文で言及されていますが,これには心の病が含まれるのではないかと時々思います。この病は世界中で,すべての大陸と文化を覆い,老若や貧富にかかわらず,すべての人に影響を与えています。教会員も例外ではありません。

その一方で,わたしたちの教義は,イエス・キリストに似た者となり,主にあって完全になるために努力するよう教えています。子供たちは,「わたしもなりたい,イエス様のように」と歌います。わたしたちは,天の御父やイエス・キリストが完全であられるように,完全になりたいと切に望んでいます。わたしたちが完全になることにおいて,心の病が妨げになり得ると感じることから,心の病はタブー視されることがよくあります。その結果,あまりに多くの人が無知でいたり,黙って苦しんだり,諦めたりしています。自分が基準を満たしていないという思いに圧倒されて,教会には自分の居場所がないと多くの人が思い込んでいます。

そのような欺きと闘うために,次の大切なことを忘れてはなりません。「救い主は御父の子供たち一人一人を愛しておられます。様々な心の健康の問題を抱えながら生きていく中で多くの人が経験する痛みや苦しみを,主は完全に理解しておられます。主は『あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられ〔,〕……御自分の民の苦痛と病を身に受けられ』ました(アルマ7:11,強調付加。ヘブル4:15-16;2ニーファイ9:21も参照)。すべての苦難を理解しておられるので,主は『打ち砕かれた心を持つ者を癒す』方法を御存じなのです」(欽定訳〔英文〕ルカ4:18から和訳。イザヤ49:13-16も参照)。試練によりさらにツールやサポートを必要とすることがよくありますが,これは性格の欠陥ではありません。

わたしたち家族が試練を経験したときに気づいたことを幾つか紹介したいと思います。

まず,多くの人はわたしたちとともに悲しんでくれ,裁こうとはしません。わたしたちの息子は激しいパニック発作や不安,うつ症状に襲われ,伝道に出てわずか4週間後に帰還しました。わたしたちは親として,息子の成功をずっと祈ってきたので,落胆や悲しみに対処するのは容易ではありませんでした。すべての親と同じように,子供たちの力強い成長と幸せを願っています。伝道は息子にとって人生の重要な出来事になるはずのものでした。ほかの人たちがどう思うかも心配しました。

知りえぬ間に,息子は帰還によりはるかに大きな衝撃を受けていました。主を愛し,主に仕えたいと願いながらも,自分では理解に苦しむ理由でそれができないのです。間もなく,息子は完全な絶望に陥り,深い罪悪感と闘っていました。自分は受け入れられていると感じられなくなり,霊的にまひし,繰り返し死について考え,衰弱していきました。

この理不尽な情況の中で,息子は自分に残された唯一の行為は自ら命を断つことだと信じるようになりました。息子を救うには,幕の両側における天使の群れが必要でした。

息子が自分の命をかけて闘っている間,この極めて困難な時期に,わたしたちの家族やワードの指導者,会員,友人たちが手を差し伸べて,ミニスタリングをしてくれました。

それまでわたしは,あふれ出るそのような愛を感じたことがありませんでした。慰めの要る者を慰めるとはどういうことか,私的な形で,これほど強烈に感じたことはありません。わたしたち家族は,差し出されたあの愛に永遠に感謝しています。

これらの出来事に伴って起こった無数の奇跡について述べることはできません。幸い,息子は生き延びましたが,心が癒されて,自分が愛され,大切な存在であり,必要とされていることを受け入れるまでには,長い時間と多くの治療,霊的なケアが必要でした。

こうした出来事がすべて,我が家のような結末を迎えるわけではありません。愛する人をまだ若すぎる年で亡くし,答えの得られない疑問を持ち悲嘆にくれる方々を思うと,わたしも悲しみを覚えます。

次に気づいたことは,親にとって子供がもがき苦しんでいるのを認めるのは難しいということです。しかし,学ばなければなりません。どうすれば,通常の成長に伴う困難と病気の兆候との違いを見分けることができるでしょうか。わたしたちは親として,子供が人生のチャレンジの中を進んで行くのを助けるという神聖な責任がありますが,ほとんどの人は心の健康の専門家ではありません。それでもなお,子供が適切な期待に応えようと努めるとき,自分の心からの努力に満足できるように助けることによって,子供を養う必要があります。だれでも自分自身の短所から分かるように,霊的な成長は進行中のプロセスなのです。

今では理解されているように,「〔心の〕健康のために,手軽に使える万能の薬はありません。わたしたちは堕落した世界で堕落した肉体を持って生きているため,ストレスや混乱を経験します。そのうえ,様々な要因が重なって,心の病と診断されることもあります。精神的および情緒的な健康の状態にかかわらず,成長に焦点を当てる方が,自分の短所にこだわるよりも健康的なのです。」

妻とわたしにとって,一つ常に助けになったことは,極力主の近くにいることです。振り返ってみると,とても不確かな時期に,主がいかに忍耐強く教えてくださったか分かります。主の光が,暗闇の中を一歩ずつ導いてくれました。人の価値は永遠の計画において,地上で行ういかなる務めや業績よりもはるかに重要です。主はそのことを理解できるように助けてくださいました。

心の病について学ぶことは,自分自身や苦しんでいる人々を助ける備えになります。心を開いて正直に話し合うことにより,この重要なテーマに向けるべき注意を向けることができます。結局のところ,情報が霊感や啓示に先立つのです。目をそらされることの多いこれらの試練はだれもが経験する可能性があり,直面すると,乗り越えられないもののように思われます。

わたしたちが最初に学ぶべきことは,自分が決して独りではないということです。「福音ライブラリー」アプリの「ライフヘルプ」セクションで,「メンタルヘルス」の項目を学習するようお勧めします。学習することにより,よりよく理解し,受け入れ,思いやり,愛せるようになるでしょう。悲劇を減らし,その一方で,健全な期待と健全な相互関係を育み,実現できるでしょう。

最後に,わたしが気がついたことは,絶えず見守り合う必要があるということです。わたしたちは互いに愛し合い,裁くのを控えなければなりません。自分の期待がすぐには実現しないときは,特にそうです。子供や青少年が生活の中で,自分自身への愛を感じるのが難しいときでも,イエス・キリストの愛を感じられるように彼らを助けるべきです。十二使徒定員会の会員を務めたオーソン・F・ホイットニー長老は,もがき苦しむ子供を助ける方法について,親に次のように助言しています。「子供のために祈り,信仰をもって見守ってください。」

信仰をもって彼らを見守るということはどういうことか,しばしば考えてきました。それには,愛,柔和,優しさ,尊敬のささやかな行いが含まれると思います。また,子供が自分のペースで成長できるようにし,救い主の愛を感じられるように証を述べることを意味します。自分やほかの人のことよりも,もっと子供について考えることが求められます。たいてい,話す量を減らし,聞く量をもっと,もっと増やすことを意味します。子供を愛し,自信を持たせ,成功への努力と神への忠実さを頻繁に褒める必要があります。最後に,自分が神に近くとどまるのと同じように,子供に近くいるために,力を尽くしてできることをすべて行うのです。

心の病を抱えている人はだれでも,たとえその時に神の愛を感じることができなくても,聖約を固く守ってください。力の限りすべてのことを行い,「神の救いを目にし,また神の腕が現されるのを見る」のを待ってください。

イエス・キリストがわたしたちの救い主であられることを証します。主はわたしたちを御存じです。わたしたちを愛し,待っておられます。わたしは家族の試練の間に,主がいかに近くにおられるか知りました。主の次の約束は真実です。

「恐るな,われは汝が神
常に汝と共にあり
助け与え,強くして
わが正しき力をもて 汝れを支え,励まさん」

わたしたちがこの「堅き基」について知り,喜んでこう宣言できますように。

「主,われに頼るものの霊
敵の手には渡し得ず
地獄,彼に迫るとも……
必ずわれは見捨てず」

イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2021年10月の総大会から、ご紹介しました。赤字青字は、追加しています。

ルカ4:18 「主しゅの御霊みたまがわたしに宿やどっている。貧まずしい人々ひとびとに福音ふくいんを宣のべ伝つたえさせるために、わたしを聖せい別べつしてくださったからである。主しゅはわたしをつかわして、囚人しゅうじんが解放かいほうされ、盲人もうじんの目めが開ひらかれることを告つげ知しらせ、打うちひしがれている者ものに自由じゆうを得えさせ、

Luke 4:18 The Spirit of the Lord is upon me, because he hath anointed me to preach the gospel to the poor; he hath sent me to heal the brokenhearted, to preach deliverance to the captives, and recovering of sight to the blind, to set at liberty them that are bruised,

この部分 he hath sent me to heal the brokenhearted が、日本語訳では、抜けています。






主なる救い主は,実にわたしたち一人一人,すべての人のために,死なれたことを証します。

2022-09-19 05:15:25 | 日記
神の愛,人​に​とって​最も​​喜ばしい​もの
スーザン・H・ポーター
中央初等協会会長会
第一顧問

神の愛は生活の環境の中にではなく,生活における神の現れの中にあります。

兄弟姉妹の皆さん,神である天の御父が皆さんに対して,どれほど完璧な愛をお持ちであるか,知っていますか。その愛を,心の底から,感じたことがあるでしょうか。

皆さんが神の子供として,どれ程完璧な愛を受けているかを知り,理解するなら,すべてが変わります。間違いを犯したときの,自分に対する感じ方が変わります。困難に出遭ったときの,感じ方が変わります。神の戒めに対する見方が変わります。人に対して,また,違いをもたらす自分の能力に対して,見方が変わります。

ジェフリー・R・ホランド長老は,こう教えました。「永遠にわたるいちばん大切な第一の戒めは,わたしたちの心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして神を愛することです。これが,いちばん大切な第一の戒めです。しかし,永遠にわたるいちばん大切な第一の真理は,神が御自分の心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くしてわたしたちを愛しておられるということです。

この大いなる永遠の真理を,どうすれば心の底から知ることができるでしょうか。

預言者ニーファイは,神の愛について,最も力ある証拠を示現で見ました。命の木を見ると,ニーファイは,その解き明かしを知りたいと言い,天使はそれに答えて,ある町と一人の母親と一人の幼子をニーファイに見せました。ニーファイがそのナザレの町を見ると,義にかなった母,マリヤが幼子イエスを腕の中に抱いていました。そのとき天使がこう宣言します。「神の小羊,まことに永遠の父なる神の御子を見なさい。」

その聖なる瞬間,ニーファイは救い主の誕生の中に,神がその純粋で完全な愛を込められたことを,理解しました。神の愛についてニーファイは,「……人の子らの心にあまねく注がれる……。」ものだと証しています。

わたしたちは,神の愛が命の木から輝き出る光となって,あまねく全地の人の子らの心に注がれる様を思い描くことができます。神の光と愛は,あらゆる創造物に行き渡っています。

時にわたしたちは,神の愛を感じることができるのは,鉄の棒に従って,木の実を食べた後のみだと勘違いします。ですが神の愛とは,木の所まで来た者たちが受けるだけでなく,その木を求めるよう動機付ける力そのものでもあるのです。

「だから,どんなものよりも好ましいものです」とニーファイは教え,「そのとおり。それは人にとって最も喜ばしいものである。」と天使は声高らかに言いました。

20年前,愛する家族の一人が教会を離れました。彼には,答えの見つからない疑問がたくさんありました。奥さんは改宗者で,信仰に忠実でいました。彼らは結婚の中で生じた食い違いを埋め合わせようと,懸命に努力しました。

昨年,彼は自分の中で説明に苦しむ教会に関する3つの質問を手紙に書き,長年の友人である二組の夫婦にそれを送りました。彼らにもそれらの質問を考えてもらい,互いの考えを分かち合うために,友人たちを夕食に招待しました。

友人たちが帰った後,彼は自分の部屋に行き,仕事をし始めましたが,その晩に交わされた会話と友人たちが示してくれた愛が,つくづくと思い返され,仕事の手を止めました。後にこうつづっています。「輝かしい光がわたしの心を満たし始めました。……理解が開けるこのような深い感情が湧くのは初めてではありませんが,このときは,次第にその思いが強くなり,何分間かそれが続きました。その思いを抱いたまま静かに座っていると,それがわたしに対する神の愛が示されていることに,次第に気づき始めました。……わたしは,教会に戻り,教会で行うことを通して神の愛を示すことができるという,霊的な印象を受けました。」

その後彼は,自分が持つ疑問について考えてみました。神が彼の疑問を尊ばれ,たとえ明確な答えが分からなくとも,そのために前へ進むことを止めるべきではない,という印象を受けました。引き続き疑問について考えながらも,その間に神の愛をすべての人と分かち合う必要があったのです。彼はその印象を実行に移しながら,最初の示現の後,「わたしの全身は神の愛で満たされ,数日間その感激に浸っていました。」と語ったジョセフ・スミスに親近感を覚えました。

わずか数か月後,彼はなんと20年前に受けていたのと同じ召しを受けました。当時その召しを受けたとき,彼は義務感の強い教会員として責任を果たしました。現在,彼は「どうすればこの召しが果たせるか」という疑問の代わりに,「どうすれば奉仕を通して神の愛を示せるか」と考えるようになり,この新たな取り組み方によって,自分の召しのあらゆる面で,喜び,意義,目的を感じるようになりました。

姉妹と兄弟の皆さん,わたしたちはどうすれば神の愛による変化をもたらす力を受けることができるでしょうか。預言者モルモンは,次のように招いています。 「御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように,……熱意を込めて御父に祈りなさい。」モルモンは,わたしたちがほかの人に対する神の愛を感じられるように祈るだけでなく,わたしたち自身に対する神の純粋な愛を知ることができるように祈るよう招いています。.

わたしたちは,主の愛を受けて,主のように愛し仕え,「イエス・キリストに真に従う者」となるよう努めることによりより,大きな喜びを見いだします。

神の愛は生活の環境の中にではなく,生活における神の現れの中にあります。わたしたちは,自分の能力を超えた力を受けるとき,また主の御霊が平安と慰め,導きを与えてくださるとき,主の愛を知ります。主の愛を感じるのが難しいこときもあるでしょう。自分の目が開かれて,生活の中に主の御手が見え,主の創造物の美しさに主の愛が見えるように祈ることができます。

救い主の無限で永遠の犠牲について深く考えるとき,わたしたちに対する神の愛を理解し始めることができます。わたしたちは「尊き血流し,命捨てて」とエライザ・R・スノーの言葉を敬虔に歌うことができます。わたしたちのために苦しむ主の謙虚さが,わたしたちの心に露のように滴り,それが心を開いて主の御手から赦しを求めるようになり,主がなされたような生き方をしたいという願いが満ちてきます。

ネルソン大管長は,「わたしたちの生活が主に近づけば近づくほど,わたしたちの愛は純粋で神聖なものになっていきます」と記しています。

わたしの息子はこう話しました。「11歳のとき,友達と一緒に初等協会の最初の時間をさぼることにしました。ようやく教室に着くと,驚いたことに教師が温かく迎えてくれました。その後,教師は心からの祈りをささげ,その日,わたしたちが自らの自由意志でクラスに来る決心ができたことを主に深く感謝しました。その日のレッスン内容や先生の名前さえ覚えていないのですが,あれから30年経った今でも,あの日,教師がわたしに示してくれた純粋な愛を感じることができます。」

5年前,神の愛の模範をロシアの初等協会に参加していたときに,目にしました。一人の忠実な姉妹が二人の男の子の前にひざまずき,たとえ地上にいるのが彼らだけであったとしても,イエスはまさに二人のために苦しんで死なれたのだと,彼らに証する姿を見ました。

主なる救い主は,実にわたしたち一人一人,すべての人のために,死なれたことを証します。それは,わたしたちと御父に対する,無限の愛の表明でした。

「主は生けりと知るそは幸を与う愛に恵みつつ」

心を開いて,神がわたしたちに対して持つ純粋な愛を受け,わたしたちの行いと人格でその愛を注ぐことができますように。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2021年10月の総大会から、ご紹介しました。
赤字青字は、追加しています。
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台風いかがでしたでしょうか。
被害が、最小限で収まりますように、お祈りします。


思いも心も行いも,そして人格そのものが変わりました。

2022-09-18 08:33:00 | 日記
「そのとき,わたしは弱さを強さに変えよう」
ケビン・S・ハミルトン長老
七十人

へりくだってイエス・キリストを信じる信仰を働かせるときに,キリストの恵みと主の無限の贖罪の犠牲により,わたしたちに変化が生じるのです。

トーマス・S・モンソン大管長はかつて,刑務所長クリントン・ダフィーの話をしました。「1940年代から50年代にかけて,クリントン・ダフィーは,囚人たちの更正に尽力したことで知られています。ある批判的な人がこう言いました。『ヒョウが体の斑点を変えられないことは御存じですよね。』
ダフィー所長はこう答えました。『わたしの相手はヒョウではなく,人間です。人間は毎日変わるものです。』」
サタンの最も大きな偽りの一つは,男性も女性も変わることはできない,というものです。この偽りが様々な方法で繰り返し伝えられ,世間では,人はどうやっても変われはしないとか,変われるはずがないとまで言われています。つまり,わたしたちは,人は置かれた状況によってすべてが決まる,と教えられているのです。世間は,わたしたちに「現実を受け入れ,本来の自分らしくある」べきだと言います。

人は変わることができる

自分らしくあることは確かに良いことです。ただし,神から受け継いだ特質と主のようになるという行く末を持つ神の息子,娘として,本来の自分らしくあるべきなのです。わたしたちの目標が神から受け継いだこの特質と行く末に忠実であることならば,わたしたちは皆変わる必要があります。聖典では,変化は悔い改めという言葉で表現されています。ラッセル・M・ネルソン大管長はこのように教えています。「悔い改めを罰と捉え,非常に深刻な状況でないかぎり避けるべきだと考える人があまりに多すぎます。……イエスは皆さんやわたしに『悔い改めよ』とお求めになるとき,……〔わたしたちに〕変〔わるように〕と勧めておられるのです。」


神の条件

コンピューターソフトウェアの開発者は,条件文を使ってコンピューターに指示を与えます。これは,IF-THEN〔もし……そのとき〕形式の条件文と呼ばれることがあります。もしx が正しければ,そのときyを行う,というようなものです。
主も,条件つきで働かれます。信仰を持つという条件,正しいことをするという条件,悔い改めるという条件で働かれるのです。神からの条件文の例は,ほかにもたくさんあります。
「〔もし〕わたしの戒めを守り,最後まで堪え忍ぶならば,〔そのとき〕あなたは永遠の命を得るであろう。この賜物は,神のあらゆる賜物の中で最も大いなるものである。」
あるいは,「もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,〔そのとき〕神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」
無限で完全である神の愛でさえ,条件に従っています。例を紹介しましょう。
「もしわたしのいましめを守るならば,〔そのとき〕あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので,その愛のうちにおるのと同じである。」
D・トッド・クリストファーソン長老はこの福音の真理についてさらに詳しく述べています。「このように言う人もいます。『救い主はありのままのわたしを愛しておられる。』確かにそのとおりですが,救い主はありのままのわたしたちを神の王国に迎え入れることはおできになりません。『清くない​者​は​そこ​に​住む​こと​が​できない,すなわち,神​の​前​に​住む​こと​が​できない​から』〔モーセ6:57〕です。まず,自分の罪を解決しなければなりません。」


弱さは強さに変わり得る

わたしたちが変わることができるよう神の力を受けるという祝福もまた,条件つきで与えられます。救い主は,モルモン書の預言者モロナイを通して次のように教えておられます。「もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。 もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」
ここで主が教えておられることをさらに入念に見てみると,主はまず,人に一つの弱さを与える,と述べておられることが分かります。これは,堕落した,肉なる者としての,現世における経験の一環です。わたしたちは,アダムの堕落のために生まれながらの人となりました。しかし,イエス・キリストの贖罪を通して,弱さ,つまり堕落した性質を克服することができます。
主は続けて,御自身の恵みは十分であり,もしわたしたちがへりくだり主に信仰を寄せるならば,そのとき主は「弱さ(複数形)を強さに変えよう」と述べておられます。言い換えると,わたしたちがまず自分の堕落した性質や弱さを変えると,そのとき行動や弱さを変えることができる,ということです。


変わるための条件

主の規範に従って変わるための条件をおさらいしましょう。
まず,へりくだらなければなりません。わたしたちが変わるための主の条件は,謙遜さです。主は「もし彼らがわたしの前にへりくだ……るならば」とおっしゃいました。謙遜の反対は高慢です。人が高慢になるのは,自分で分かると思うとき,つまり,神の考えや気持ちよりも自分の考えや気持ちを優先するときです。
ベニヤミン王はこのように教えました。「生まれながらの人は神の敵であり,……今後もそうである。また人は,……主なるキリストの贖罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒となり,子供のように従順で,柔和で,謙遜……〔になら〕ないかぎり,とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。」
変わるためには,生まれながらの人を捨てて,謙遜で従順にならなければなりません。生ける預言者に従う謙遜さがなければなりません。神殿の聖約を交わして守る謙遜さと,日々悔い改める謙遜さ,そして変わりたいと望み,「心を神に従わせ」る謙遜さがなければなりません。
第2に,イエス・キリストを信じる信仰を持たなければなりません。再び救い主の言葉を引用します。「もし彼らがわたしの前にへりくだり, わたしを信じるならば」,主はわたしたちに,弱さを克服するための力を授けてくださいます。謙遜さとイエス・キリストを信じる信仰とが相まって,人に能力を授ける力を備えた主の恵みと,主の贖罪によって得られる完全な祝福にあずかることができるようになるのです。
ネルソン大管長は次のように教えています。「真の悔い改めは,イエス・キリストはわたしたちを清め,癒し,強くする力をお持ちであると信じる信仰から始まります。……わたしたちの生活の中に神の力を解き放つのは,わたしたち自身の信仰です。」
第3に,主は恵みを通して,弱さを強さに変えることがおできになります。もしわたしたちがへりくだり,イエス・キリストを信じる信仰を抱くならば,そのとき主の恵みにより,わたしたちは変わることができます。言い換えると,わたしたちが変われるよう,主が力を授けてくださるのです。これが可能なのは,主がおっしゃるように,「すべての者に対して,わたしの恵みは十分」だからです。人を強め,人に能力を授ける主の恵みは,わたしたちが変わろうとするときに直面するあらゆる障害,あらゆる問題,あらゆる弱さを克服する力を与えてくれます。
最大の弱さが最大の強さになり得ます。わたしたちは変わり,「新たな者とな〔れ〕」ます。弱さは文字どおり「強さに変〔わり〕」得るのです。
救い主は無限にして永遠の主の贖罪を成し遂げて,わたしたちが実際に変わり,悔い改め,よりよい人物になれるようにしてくださいました。わたしたちは実際に再び生まれることができます。習癖や依存症,「悪を行う性癖」さえも克服できます。天におられる,愛に満ちた御父の息子,娘として,わたしたちには,変わるための力が備わっているのです。


変化の例

聖典の中には,変化を遂げた男女の例があふれています。
初期のキリストの教会を激しく迫害していた,パリサイ人のサウロは,主イエス・キリストの使徒,パウロになりました。
アルマは,悪しきノア王の裁きの場にいた祭司でした。アビナダイの言葉を聞いて完全に悔い改め,モルモン書の最も偉大な宣教師の一人となりました。
息子アルマは若いころに,教会を滅ぼそうとしていました。「罪人の中でも最も罪深い者」の一人でしたが,心の変化を経験し,努力により力ある宣教師となりました。
モーセはパロの家族に養子として迎えられ,エジプトの王子としてぜいたくな環境で育ちました。しかし,自分がほんとうは何者であるのかを知り,神から授かった行く末が分かったときに,モーセは変わり,旧約聖書の偉大な立法者となりました。
妻の曽祖父のジェームズ・B・キーサーが経験した大きな心の変化について聞く度に,わたしは感銘を受けてきました。1906年にソルトレーク盆地で,忠実な末日聖徒の開拓者を先祖に持つ家庭に生まれたジェームズは,若くして母を亡くし,若い時代を通して苦労を重ねました。10代のころもヤングアダルトのころも,教会から離れ,その間に悪い習慣がしみついてしまいました。にもかかわらず,彼は忠実な女性と出会って結婚し,ともに5人の子供を育てました。
1943年,大恐慌という困難な時代に引き続く第二次世界大戦のさなかに,彼はユタを離れてカリフォルニア州ロサンゼルスに引っ越し,仕事を探すことになりました。友人や家族にはバドと呼ばれて彼は,家を離れていたこの時期に,姉とその夫のもとに身を寄せました。姉の夫は当時,ワードのビショップとして奉仕していました。
姉と義理の兄の愛と影響により,バドは教会への関心を取り戻し,毎晩寝る前にモルモン書を読み始めました。
ある晩,アルマ書34章を読んでいたときに,次の言葉に心が動かされました。
「まことに,進み出て,もはや心をかたくなにしないでほしい。……
見よ,現世は人が神にお会いする用意をする時期である。まことに,現世の生涯は,人が各自の務めを果たす時期である。」
この聖句を読んでいたときに心を強く突き動かされたバドは,自分は変わって悔い改めなければならないことと,何をしなければならないかを知ったのです。バドはベッドから起き上がり,ひざまずいて祈り始め,自分を赦してくださるよう,また生活を変えるために必要な力を与えてくださるよう主に願い求めました。バドの祈りはこたえられ,そのとき以降,バドは決して後ろを振り返りませんでした。バドは教会で奉仕し,忠実さを保ち,生涯の終わりまで献身的な末日聖徒であり続けました。バドはあらゆる点で変わりました。思いも心も行いも,そして人格そのものが変わりました。
兄弟姉妹の皆さん,神から授かった行く末と目的とは,最終的に天の御父と救い主イエス・キリストのようになることです。変わるとき,つまり悔い改めるときに,これが達成されます。「〔自分〕の顔に」救い主の「面影を受け〔る〕」のです。新たな,清い,別の人となり,毎日それを目標に努力を続けます。時には,二歩進んで一歩下がっているように感じることもあるかもしれませんが,信仰をもって,へりくだりながら前進し続けます。
そして,へりくだってイエス・キリストを信じる信仰を働かせるときに,キリストの恵みと主の無限の贖罪の犠牲により,わたしたちに変化が生じるのです。
わたしは証します。イエス・キリストが実際にわたしたちの救い主,贖い主であられます。確かに,主の恵みは十分です。キリストは「道であり,真理であり,命である」と,わたしは宣言します。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2022年4月の総大会からご紹介しました。赤字青字は、追加しています。

人は、確かに生まれ変わることができます。 

私自身も、生来の短気が無くなってきました。まだ、完全ではありませんが。

蝉の抜け殻や蝶の脱皮を見るたびに、人も美しく生まれ変わることができると、感じます。