ファチマの聖母の会・プロライフ

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三種類の王

2022年01月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G.Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ビルコック(G.Billecocq)神父様のお説教  
三王(三人の博士)
2021年1月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる兄弟の皆さま、本日、ご公現の祝日をもって、カトリック教会は我らの主、イエズス・キリストの公けの現れを祝います。つまり、イエズスの天主性とその王権を外的に示されたことを祝うご公現です。なぜなら、我らの主、イエズス・キリストを礼拝しに来た三人の博士は王子でもあったことから、我らの主、イエズス・キリストの王権を祝うことになります。
聖伝によるとイエズスを礼拝しに来た王は三人いるとされています。
しかし、本日の福音の教えにおいて、三人の博士は三人の王のみならず三種類の王に関しても言及されています。

最初の王は王の王なのです。我らの主、イエズス・キリストです。馬小屋の桶の藁の上に置かれたこの幼き子はかよわい姿ではあるものの、天主ご自身なのです。そして天主である上、イエズスは王でもあるのです。天地の王なのです。そして、ほかの多くの王と違う王なのです。なぜなら、彼の王権が及ぶ統治は霊的なものだからです。世俗的な統治だけではありません。このようにイエズスの王権は常に隠されているのです。
これは外形などのうわべにとどまらないこと、またイエズスは外見上の統治、形式上の統治を望まれておられないことを示すのです。かえって、イエズス・キリストの王権は霊的な統治であり、内面的な統治であり、目に見えない統治であるということが示されているのです。なぜなら、霊魂、心への統治は目に見えないものの、確固たる現実であるということに関して変わりがないからです。



要するに、我らの主、イエズス・キリストは王なのです。霊的な王権です。そして、御受難の際、イエズスはピラトへ明白に仰せになりました。「私の(王)国はこの世のものではない。」(ヨハネ、18,36)
つづいて、「真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ、18,37)
要するに、真理を聞き入れる人はイエズスの臣下となり、イエズスの王国に属することになるということです。
言いかえると、霊的な生活によってこそ、信徳の実践によってこそ、我々はイエズスの臣下となり、イエズスの統治下に入るということです。
イエズスにおける統治の一つの柱は謙遜でありますが、我々信徒における我々へのイエズスの統治の柱は真理なのです。信仰上の真理によってなのです。信仰、真理によってこそ、我らの主、イエズス・キリストは我らの霊魂を統治したまうのです。
第一の王でした。王の王なるイエズスです。

次に福音において現れる王として、三人の博士がいます。世俗的な王です。王に値するすべての要素をもちます。服装もそうですが、また幼きイエズスへお捧げするプレゼントも王に値するのです。王である上に学者でもあります。いわゆる賢者ですね。これ故、三人の博士とも呼ばれています。彼らは権力者として強いだけではなくて、知識、賢明さ、知性としても強いことが示されています。

三人の博士は世俗の王の権威としても知識上の権威としても偉大なのです。しかしながら、貧しい馬小屋へ行き、イエズスを礼拝したと福音書に記されています。当時の礼拝のやり方で知られるように、きっと、三人の博士は地面までひれ伏して拝したでしょう。もしかしたら、聖家族はすでに普通の宿に移ったかもしれない、あるいは馬小屋のままだったかもしれない、これについて定かではありません。ともかく、これほど偉大な叡智のある強き王たちは、かよわい幼き子の前に礼拝することを恐れないのです。彼ら王の権力と世俗的な権威に比べてこれほど、か弱いのに、それでもイエズスを礼拝します。地面まで額を下げてひれ伏してイエズスを礼拝することを恐れないのです。このように、三人の博士は自分の王権よりも勝る王権があり、彼らよりも偉い王がおられるということを公然と行為で認めます。この優れた王は三博士の心を統治するだけではなく、かれらの国々をも統治しているということを認めます。

親愛なる兄弟の皆さま、次にどうなるでしょうか。この三人の国王はイエズスを礼拝したことによって地上の王権が損なわれることなく、かえって彼ら三人の王はさらに高められ、彼らの王権と統治は高められることになります。
なぜなら、恩寵すなわち超自然は人間性すなわち自然を否定することがなく、かえって人間性を完全に肯定して、治癒して、より上に高めるものです。イエズス・キリストに従えば、(天皇をはじめとして)世俗的な国王はそもそも恩寵のない普通の人間性だけで想像できない次元まで引き高められることになります。
このように三人の博士は別の途をとって帰ります。言いかえると、より完全化された形で、より成長して帰れたという象徴的な意味があります。つまり、イエズス・キリストのみ前に自分の王権をお捧げして、お供えしたのですが、これは自分の王権を見捨ててなくなったことにならないということです。逆です。より優れた王権、統治へ自分の王権を捧げたことによって、三人の博士の統治が引き高められるようになります。あえて言えば、王の王なるイエズスに従えば従うほどに三人の王は偉大な王になっていくということになります。



親愛なる兄弟の皆さま、次に第三の王の種類についてです。福音書においてヘロデ王も紹介されています。別の王です。三人の王と打って変わって、幼きイエズスのみ前に自分の王権を捧げようとしないどころか、イエズスの王権を退けたいのです。ヘロデ王もかなりの権力をもち、本当の王権です。しかしながら、三人の博士ほどに賢明ではないのです。幼きイエズスはどこに生まれるだろうかを知るために、ヘロデ王は律法学者に問い合わせざるを得ず、三人の博士ほどに知識がありません。

ヘロデ王は強かったですが、正統な王でも、イエズスという王を拒むどころか、幼き王が生まれたかもしれないという噂だけで、動揺して恐れで震えるのです。ヘロデ王は一人前の大人で知性も体も丈夫で成熟しているのに、貧しくかよわい幼い子の前に危惧してしまいます。ヘロデ王は地上の王でありますが、より上におられる王の存在を拒みます。より優れた王権に従うことを拒みます。ヘロデ王は傲慢に陥り、自分の王権は天主の全能に匹敵するだろうという幻想を抱いてしまいます。このようにヘロデ王は一瞬も迷うことがありません。三人の博士の訪問を受けて、堂々と嘘をつくことになります。ヘロデ王はイエズスを「礼拝したい」と言いながら、すでに幼き王を殺すことを決意しました。

そしてご存じのように、最終的にどうなったのかは周知のとおりですね。ヘロデ王は結局、ご公現を経て、悪化しました。三人の王はかえってより良くなって馬小屋から帰ったことに対して、ヘロデ王はイエズスへの礼拝をしないで、イエズスを王として仰がないことによってより悪い王となっていきます。暴君となります。その後、罪なき幼い子の虐殺をヘロデ王は命じました。罪なき子供の血を流すことを憚らないヘロデ王です。より優れた統治を仰がず、自分の身を守れない子供たちを殺すヘロデ王です。そして、ヘロデ王の最期は酷い苦しみにおいて死を絶えたのですね。

親愛なる兄弟の皆さま、以上は本日の福音の幾つかの教えをご紹介しました。
もしかしたら、「これらの教えは私と関係がないのでは?私は王でもないし」と思われる人もいるかもしれません。しかしながら、いわゆる国王ではないとしても、だれでもちょっとでも統治していくことがあるでしょう。帝国でも王国でも国でも村でも一族でも統治することがないとしても、少なくてもみんな、だれでも、物資的な財産を支配することがあるし、あるいは学者や知識人などなら、ある分野、ある学問を君臨したいようなことも多々あるでしょう。要するに、支配したい傲慢さは皆の心の奥にどこかすこしでも潜んでいるのです。つまり、僅かな小さな帝国でも、皆、支配したい何かがあるでしょう。

福音の教えは「ひれ伏す」ことになります。つまり謙遜に自分よりも絶対的上位におられる王の王のみ前にひれ伏して拝むように。我々が持つ判断、理論、権力、権威、欲望、支配したい欲望、他人に認めてほしい欲望など、すべてを王の王のためにお捧げしてはじめて、本当の意味で偉くなっていきます。牽き高められます。

「すべて自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者はあげられる」(ルカ、14,11)
はい、本日の教えはまさにこれにあたります。イエズス・キリストこそは王の王であるのに、一番下の奴隷になり、極めて貧しく、かよわい幼い子になることになさったのです。これは私たちに謙遜の心を持つように励む教えであり、我らの主にすべてをお奉げするように勧めるための教えです。

ですから、三人の博士に倣って王の王の前に私たちもひれ伏して礼拝しましょう。このように我々も引き高められて、この世に統治することはありませんが、天国でイエズスと共に君臨することになるでしょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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