ファチマの聖母の会・プロライフ

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聖パトリックと大鍋

2023年03月21日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


青銅のへび
D.Puga神父  
2023年3月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、いま、四旬節の最中であり、ご覧のように聖人の祝いは次席にとどまっているところがあります。聖人の祝日は四旬節の期間中は、典礼上にその記憶にとどめて、個別のミサを捧げないことになります。

本日、あさっての3月17日に祝われる聖人について話したいと思います。聖パトリックです。アイルランドの守護聖人です。アイルランドはかつてまでとてもカトリック的な国でした。聖パトリックはケルト族のアイルランドという島へ福音を運んだ宣教師です。

なぜ聖パトリックについて特に今日、話すことにしているかというと、3月17日になると、パリをはじめ世界の多くの場所で、聖パトリックの祝日ということで、ビストロでもバーでもパブでも結構、賑やかにすることが多いです。しかしほとんどの人々は聖パトリックが誰なのかなどよくわかりません。なぜ、聖パトリックになってこのような祝いをするのかもほぼ誰も知らなくなりました。

ですから、聖パトリックはアイリッシュ・コーヒーと緑色の帽子だけではないことを知っていただくために聖パトリックについて話しましょう。

聖パトリック現在のグレート・ブリテンのどこかで生まれました。おそらく現在のスコットランドの境界に近い辺りだったと思われますが、定かではありません。四世紀中葉に生まれました。372年でした。372年だと、ローマ帝国がカトリックを国教化して間もないころです。そして、そのころ、ローマ人は少しずつグレート・ブリテンから撤収しはじめます。大陸における防衛を強化するためでした。大きく言うと、ローマ帝国のいわゆる衰退の最初の最初ですが、このような衰退は先ず遠隔地、周辺地あたりから最初の兆候が確認できます。



聖パトリックはキリスト教の家庭に生まれましたが、彼自身が後世になって、不当に中傷されたため、それに応えるために、回顧録を書きましたが、その中で聖パトリックは明かします。少年時代は、キリスト教の信仰にあまり熱心に生きていなくて、忍耐強く実践しなくて、覚悟を持った信仰生活ではありませんでした。彼の家庭は敬虔なカトリックのようではありましたが、聖パトリックをはじめ、多くの少年は親に倣わなくてあまり熱心ではありませんでした。天主のお言葉をあまり実践していなかったのです。

司祭などはいつも少年たちにハッキリと真理を述べて警告していたのにもかかわらずです。つまり、天主の掟を無視して生きていったらいずれ罰せられるだろうと司祭たちははっきりと教えていたのに、聖パトリックはそれを無視しました。

しかしながら、16歳になると、ローマ人が時々、何かあって大きな島から撤収したり戻ったりしていた時期ですが、アイルランドから来る海賊が結構、はびこるようになっていました。これらの海賊は海岸をよくせめて、人々を拉致してそして奴隷として売買していました。囚われていた人々は特に若い人々でした。

そして、ある日、パトリックはその目に合わせられました。アイルランド人の海賊の一味に拉致されました。アイルランドで売られて主人から任せられた仕事は家畜の群れの番でした。そして夜になると、パトリックは牢屋に入れられて、鎖にも縛られて逃げられないようにされていました。聖パトリックは後で明かしましたが、奴隷になったおかげで、いろいろ考えることが多くなりました。この奴隷生活は六年間ほど続いたのですが、その間に、いろいろ自分の人生の意味について考えました。また、若い時に司祭たちが説教していたことを思い出しました。

「我々は夢の中に生きているかのように自分をごまかす。今日も明日もいつまでも楽しい日々が続くだろうと思い込んでいたが、一瞬で拉致されて、奴隷におちいって、非常に厳しい拘束される生活が強いられた」というようなことを思いおこしました。
ケルト族の性格は火のように燃えて、きつくて、強くて、そこでの主人らは非常に厳格だったとされています。また、アイルランドで一番広まっていた宗教はケルトの民族宗教でしたが、多神教で、非常に残酷な宗教でした。人の生贄などを常にしていて、我々が想像しづらいところがあります。

22歳まで、奴隷生活を送っていた聖パトリックはいろいろ考えました。自分の不幸ではなく、主人をはじめとする周りにいる多くの異教徒の不幸を知り、憐れみました。異教徒はキリストの掟と全く反対の掟の中に生きている結果、格好良くしようとしても、皆、悲しいということを目撃しました。自分よりも、奴隷よりもはるかに不幸なことだとおもい知りました。愛徳も信徳も望徳もない人生は不幸です。

アイルランド人たちは多神教に非常に慣れ親しんでいて徹底的に実行していたので聖パトリックはその現実と遭いました。
そしてある日、聖パトリックは逃亡しました。海岸まで行って、異教徒の船で雇われて、この船はガリアへ犬を運んでいました。アイルランドの訓練された犬は帝国中で攻撃力のある番犬としてとして高く評価されていました。

このようにして聖パトリックは何とかフランスへ着きましたが、船で主人らにかなりいじめられました。そしてまた逃亡して、本当に自由になれました。22歳でしたが、どこへ避難したかというとフランス南部へ行きます。なぜなら、犬の搬送はイタリア半島を目的地にしていましたので、カンヌあたりで、聖パトリックは逃亡したのです。レランス諸島へ避難します。そこには有名な修道院がありました。

そこで、信徳、望徳と愛徳の実践だけではなく、自己犠牲を捧げることを習い、また福音的勧告の実践に従いました。二、三年ぐらい、そこの修道院で修練しました。そして、理由はいまだに不明ですが、ローヌ川の谷を北方へ旅して、オセールまで行きます。そこに有名なる聖ジェルマンという司教がいました。聖パトリックは聖ジェルマンに奉仕することになって、司教から司祭職になるための養成を受けました。司祭となって10年か15年間ほど努めました。そして、聖ジェルマンは聖パトリックに司教聖別式を授けて、聖パトリックは司教となりました。

聖ジェルマンはよくローマにいる教皇と連絡していたものですから、聖パトリックを中心にした数人の聖職者のために、アイルランドへ宣教せよという召命を教皇から得ました。聖パトリックはずっと前からどうしてもアイルランドの異教徒たちのために尽くしたくて宣教しに行きたかったのです。それがいよいよ実現することとなり、司教としてアイルランドへ戻りました。

それからの一生を尽くして、粗暴な人だったと言わざるを得ないアイルランド人のための布教に尽くしました。ドルイド僧とよく論争して戦いました。人々はクランという部族単位で生きていました。

布教様式として、人々の回心を実現させるために、必ず部族長の回心を得なければなりませんでした。そして、部族長が回心したら、大体部族の構成員は回心していきます。近世になって、イエズス会が東洋への布教をしましたときに、同じような様式で宣教していきました。中国でも日本でもそうでした。

聖パトリックは多くの苦行と自己犠牲を果たし続けた暁に、すこしずつ部族長が回心していきました。聖パトリックは80-90歳まで長く生き、長年の使徒的な活動となりました。数人の司教を聖別して、また司祭などからしっかりとした位階制を建てて、また人々がドルイド僧の宗教を捨てる成果をもあげました。もちろん、そのせいで、ドルイド僧から強く嫌悪されました。聖パトリックは特に、ドルイド僧の悪魔的な儀式や魔法などと毅然とした態度で戦い続けました。その結果、いろいろ苦労しましたが、勝利しました。

そして、強固な異教の国からカトリックへの国となっても、アイルランドでの布教の特徴はほとんど流血を伴った迫害が異教から発生しつづけました。もちろん、虐殺とか、あったりしましたが、アイルランドの場合、キリスト教徒を破滅するためというより、いわゆるいつからもあったような単なる暴力沙汰であったという特徴があります。あともちろん、迫害もありましたが、ローマ帝国のような大掛かりな迫害とか、日本での徹底的な迫害とかのような、大体の場合、大掛かりな迫害は、アイルランドの場合はほぼありませんでした。

聖パトリックは非常に柔和でした。しかしながら同時に厳しかったです。どうしても真理を人々に伝えたくて、人々を真理へ導くように全力を尽くしました。
ご存じのようにアイルランドの徽章はクローバーです。なぜでしょうか。
聖パトリックに由来しますが、聖パトリックが公教要理を教えていた時のことから来ます。聖パトリックが信徳がまだない、多神教なる異教徒に向けて三位一体という最も説明しづらい玄義を教えていた時に、クローバーという例えを使っていました。



聖パトリックの御像には必ずクローバーがあります。三つ葉のクローバーですね。三位一体を説明するためにこういっていました。クローバーは一つしかないが、葉っぱ三つあります。三つの葉っぱは完全同じです。聖なる三位一体の三つの位格も完全におなじです。しかしながら、三つの葉っぱともちゃんと区別できます。しかし、花としてのクローバーは一つしかありません。三つの葉っぱからなる唯一なクローバーというたとえで、三位一体を説明していました。また、一つの葉っぱを除いたら、もはやクローバーといいません。
もちろん、このたとえはたとえに過ぎなくて三位一体の現実からは遠いですが、一応すっきりとした説明で、現代まで教会の中で、三位一体を教えるために有名な説明として残っています。

親愛なる信徒の皆さま、我々にとっても非常に重要なことです。三位一体という玄義は我々の信仰の礎です。ところが玄義の中でも一番不思議で、我々の理性を超えている玄義でもあります。

三位一体は間違って理解しやすいです。過剰にとらえてしまうと、神が三つあると思い違ってしまい、多神教となってしまいます。そして、もともと多神教だったケルト人たちには、そうならないように特に注意する必要がありました。

また、三つの位格の絶対的な同一性を強調するあまりに出てくる誤謬もあります。三つの位格の絶対的な同一性は福音書において主が仰せられています。「私と父とは一つである」(ヨハネ、10,30)。それを強調するあまりに、三つの位格の区別を否定してしまい、その挙句に、三つの位格といっても、同一の位格をちょっと違う視点で見たに過ぎないという誤謬になって、三位一体ではない一神教という誤謬になります。自然宗教系の誤った一神教となります。つまり、ユダヤ人とイスラム教徒のように、天主からの天啓を否定するか、無視するかという羽目におちいります。

ですから、求道者や信徒に三位一体という最も重要な玄義を説明するためには、誤解を与えないように、どちらの誤謬にもおちいらないように、工夫して旨く説明する必要がありますね。その中で、聖パトリックは有名な説明を残して、彼の宣教の結果、人々は全員が回心しました。重要なのは三位一体という玄義は、理性で、頭ではいつまでも理解尽くせないものになるということです。我々をはるかに乗り越える天主の現実を示すからです。三位一体はいつまでも玄義です。

また聖パトリックはどういう人であるのかを感じさせるために、彼の人生の中の一つの面白い話を取り上げましょう。
ある日、ある丘で、聖パトリックは聖堂を建てることにしました。そのために、そこの部族長の許可を仰ごうとしたら、部族長から拒まれました。絶対に建てるなと。時間がしばらくたって、この部族長が病気になったと聖パトリックは聞きました。この部族長のために特別に祝別した聖水を彼のもとに届けさせました。部族長は聖水を貰って、掛けたら、大変よく回復しました。

感謝の意を込めて、部族長は礼として大鍋を贈りました。まあ、我々現代人から見たら、大鍋といってもあまり貴重品ではないと思われるかもしれないが、当時は大鍋ということは貴重品でした。また日常生活上も必需品でした。ケルト製の大変華麗な大鍋はこのように聖パトリックへ贈られました。部族長が召使いを送って、大鍋を届けさせますが、召使いは部族長のもとに戻って、部族長はどうだったのかなど報告を求めますね。なにか、私が贈った大鍋にお気入りだったのかなというような質問でした。

召使いは「聖パトリックが「Deo Gratias(天主に感謝!)」と言いました」と報告しました。
それを聞いて部族長は自尊心を傷つけられたというか、なんか「これだけの感謝言葉か、私が苦労してよいプレゼントを用意したのに返礼もないし」と怒って、召使いを再び、聖パトリックのもとに派遣して、大鍋を返してもらえと命じました。ちょっと困った召使いが聖パトリックのもとに行って、返してもらって部族長のところに大鍋をもって帰りました。また報告でしたが、部族長から「さあ、聖パトリックはなんといったのか」と聞いて、召使いは「Deo Gratias(天主に感謝!)と言いました」と報告しました。

以上の聖パトリックのちょっとした話ですが、そこには彼の現世利益に対する無関心が現れています。ヨブの模範したかったことですね。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1,21)
ヨブがこれを行ったときは、生命についてのことでした。大鍋のような品物ではなく、生命のことでした。これはキリスト教徒がとるべき基本的な態度です。キリスト教徒なら、すべては天主から与えられていることを知っているからです。ですから、天主から与えられたものを取り戻されたら、理由があって、より大きな善のためであるとキリスト教徒が知っているからです。

数年前の思い出をはなしましょう。若い夫婦でしたが、すでに二人の子がいましたが、三人目の娘がうまれたばかりでした。彼らはとても喜んでいました。しかし、娘は敗血症という深刻な病気でした。赤ちゃんで、治療しづらいところまで行っていました。そして心臓発作が併発して、蘇生のための救急医療で医者たちは頑張りました。数日だけの生まれたばかりの赤ちゃんでした。
その中で、敬虔だったこの夫婦は一緒にいた司祭に言いました。「我々はうれしいです。天主から授かれてうれしかったです。天主が娘を呼び戻すというみ旨なら、天主のみ名が祝されるようにといいました。」
そして、天主のみ旨はこの時、娘を呼びもどすことではなく、遺し給いました。娘は救われました。いまは、この娘は大人となり、多くの子どもを産みました。

ご覧のように、我々は常に天主のみ摂理への従順を増やす必要があります。でもこの天主のみ旨への従順はいわゆる愛をこめての従順でなければ意味がありません。天主は独裁者ではありません。独裁者だから、従わざるを得ないような暴君ではありません。我々は天主の奴隷ではありません。
我々は天主の子たちです。ですから父を愛して、頼まれることに愛している故に従って、送られる試練などを受け入れます。我々を憐れみ給う天主が用意し給た試練であることをよく思い出しましょう。ですからその試練は我々の善のためにあります。

聖パトリックはこのように愛徳と柔和と福音的な善行を施したおかげで、アイルランドをカトリックへと導きました。そしてアイルランドは大変に長い間にカトリック国のままでした。

そして聖パトリックは隣人に対していつも柔和でしたが、自分自身に対して非常に厳しかったです。例えば、凍ったような水風呂に入るような非常に厳格な苦行をしていました。それは厳しすぎる苦行といえるかもしれません。これに由来して、アイルランド系の修道会の伝統は特に厳しいということで知られています。それはともかく、同じ苦行をしなくてもいいですが、このような精神が重要です。自分自身に対して厳しくて、隣人に対して柔和でなければなりません。

考えてみると、人々は普通、よく、逆のことをします。自分自身に対して言い訳を見つけたり、甘くなりがちですが、隣人の軽い過失でもすぐ厳しくて許せないような態度をとりがちですね。
死の時が近づいたと感じた聖パトリックは自らの修道院へ引退しました。司教の座を譲って数年の間に、死を準備するために、天主との出会いを準備するために、修道院での生活を送りました。

ご覧のように、奴隷になったという大きな試練は、数十万人以上の霊魂の救霊につながりました。現代まで入れたら、数億人ものの救霊といえましょう。後世になっても、さらに、アイルランドから多くの宣教師も輩出しました。このすべては16歳の少年が受けた試練のおかげです。6年間、酷い奴隷の生活を送ってきたことが出発点でした。聖パトリックがこの試練は天主から用意されているということを肯定して受け入れたおかげで、多くの実りがうまれました。

ですから、聖パトリックを祝うことをとおして、何よりも信仰を大切にして、今、復活しつつある新しい異教の闇が天主の光によって照らされますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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