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「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死んだ」教皇聖ピオ十世|聡明で剛毅の方。教皇の使命は信仰を強めること。

2023年09月28日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼



教皇、聖ピオ十世、聡明で(上智をもった)剛毅の方。
ビルコック神父様(G.Billecocq)
2023年09月4日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。
親愛なる兄弟の皆様、

聖ピオ十世の祝日にあたり、この偉大な教皇の聖性は、教皇ピオ十二世の下で行われたこの日のミサ典文に要約することができます。この祈祷の中で、まず第一に、教会は教皇の使命を思い起こさせます。集祷文にあるように、教皇の使命は信仰を強めることです。

教皇は、我らの主、イエズス・キリストの目に見える代表者である聖ペトロの後継者であり、イエズスは教会の創立者であるだけでなく、目に見えない頭でもあり、教皇は地上におけるイエズスの代理人にすぎません。つまり、教皇は、イエズス・キリストご自身が使徒たちに伝えたもの、すなわち、私たちの魂を養い、永遠に導くために必要な信仰の預かり物、啓示されたものを伝えているにすぎないのです。

そして、この同じ祈祷の中で、教会は教皇聖ピオ十世がこの信仰の預かり物を与え、それを完全に伝え、つまり真理を伝えるだけでなく、それを守ることにおいて輝いた美徳を強調します。聖トマスが言うように、これは継承における第二の側面であり、誤謬からこの信仰を守ること、すなわち、誤謬を糾弾することによって誤謬を非難することでもあります。

教皇、聖ピオ十世には二つの特質があります。第一は天の上智。二つ目は使徒的な剛毅です。

そして、興味深いのは、今日の祈祷の最後に、聖ピオ十世に倣うようにとありますが、たとえ私たちが教皇でなくても、私たちは皆、この信仰によって救われることができるように、信仰の完全性を守る使命をこの下に持っているのです。

まず第一に、天の上智(智慧)です。上智とは何でしょうか?上智とは、真理を知ることであり、真理を愛することです。
上智は一言で言えば語源的にいうと「味わうこと」です。上智とは、天主のものを味わうことです。賢者とは、聡明な方は教理である神聖な食物、すなわち信仰を味わう人のことです。

だからこそ、すべての天の上智には、この二つの要素が必要なのです。第一に、知識、啓示された教義に関する知識です。司祭は神学校で学ぶ間に啓示された教義について学びます。ルフェーブル大司教様が私たちに与えてくださった6年間、最初の1年間はフラヴィニーで、残りの5年間はエコンで学びました。健全な哲学は健全な神学の正しい土台です。そして、その下に台座のように、堅固で強固な哲学がなければ、長期的に持ちこたえることのできる真の神学は存在しません。

ですから、私たちにとって、この知識は神学です。しかし、親愛なる兄弟の皆様、皆様にとって、この知識とは、それぞれの能力に応じて、それぞれの時代に応じて、聖なる教義を学ぶことです。簡単に言えば、カテキズム(公教要理)を知ることです。すべてのカトリック信者はカテキズムをすでに知っているはずです。そして、同じカテキズムを、おそらく説教を通して、おそらく勉強を通して、おそらく講座を受けることによって深めることです。ここでは、この教会が多くの講座を提供しており、もちろん、信仰のために招待され、お勧めします。

残念なことに、第二バチカン公会議以来語られてきた教会の危機は、公会議ほど残酷にはいきなり到来しませんでしたが、多くの知識人、そして残念ながら聖職者の中の多くの知識人の無知の中に、こういった教会の危機が根を下ろし、無知は教会の危機を養い、準備しました。

無知のせいで盲目となるため、教義上、教会上の問題において、無知はおそらく最悪の事態の一つです。私たちの主はすでにファリサイ人の無知を糾弾し、盲人が盲人を導き、両者が落とし穴に落ちると述べておられます。

だからこそ、親愛なる兄弟の皆様、私たちはこれまで以上にこの無知を克服する必要があるのです。
現代での無知は最大であり、おそらく歴史上のどの時代よりも最大です。今日私が話しているのは、もちろん教義上の無知についてです。なぜなら、今日の正常の聖職者たちでさえ、教義、道徳、秘跡、そして人間に対する助言の問題において、この無知を見出すからです。

このような知識は、真の上智、天主の上智、この集祷文の中で語られている天の上智を確立するには十分ではありません。この知識は、既知の真理を愛することにほかならない志向を伴っています。つまり、カトリック信者は、神学的な推論をつなぎ合わせ、真理を結びつけることのできる純粋な頭脳の持ち主ではありません。

カトリック信者とは、単にカテキズムを知っている人ではなく、カテキズムの真理を味わう人なのです。もちろん、知っていることそれは良いことであり、美しいことですが、それだけでは十分ではありません。この教義に従って生きるには、この教義を愛し、この教義を味わわなければなりません。教義を愛するためには、時間をかける方法を知らなければなりません。ただ勉強するだけでなく、黙想する時間も必要です。


私たちに提供された真理を黙想し、天主の臨在の中に自分の身を置き、天主の内に生きるための時間を取るのです。親愛なる兄弟の皆様、私たちはまだ非常に活動的な時代にいます。というのも、活動主義は霊魂をこの世のものに、時には物質主義に、あるいはとにかく物質的な悩みに陥れるからです。

活動主義は司祭を脅かし、司祭職を脅かし、すべての霊魂を脅かす危険です。そして、このような心配事は、霊魂が持つべきすべてを支配してしまい、最後には、本質的なもの、すなわち、イエズス・キリストの愛に満ちた知識を窒息させてしまうのです。だからこそ、この天の上智において、聖ピオ十世がご聖体の前で過ごした時間、お祈りに費やした時間、天主の御前で過ごした時間の中で輝いていたことを理解しなければならないのです。天の上智とはこのことです。

聖ピオ十世はこの集祷文の中で、その使徒的な剛毅の模範として挙げられています。

実際、どのような指導者であれ、教会的な問題、特に教皇の問題については、決断を下すために強くなければなりません。聖ピオ十世がそうであったように、このような決断は、ときには他の地上の君主や国家元首と対立するものであり、周りの皆の意見と必ずしも一致しない決断であり、時には特定の国家から軽蔑されるような決断であるため、よく痛みを伴います。

聖ピオ十世はこの使徒的な剛毅で輝いていました。このことは、フランスの歴史を見ればよくわかります。しかし、その剛毅とはどのようなものだったのでしょうか?聖トマス・アクィナス曰く、剛毅の対象は恐れであり、危険に対する恐れです。

そして、位階制における地位が高ければ高いほど、権威があればあるほど、自分自身より人々を疎外することへの恐れ、誤解されることへの恐れが大きくなることは確かです。聖ピオ十世はこの恐れを克服しました。どのように克服したのでしょうか?

まず第一に、恐れは現世的な計算の上に成り立つものですが、聖ピオ十世はこのような単純な計算を求めることはありませんでした。聖ピオ十世は教会に権力を求めることもありませんでした。私たちは、彼が教会の位階制の中でどれほど高いところに登ったかを知っていますが、彼が決してそれを求めなかったことも知っています。教皇庁で働くためには、しばしばローマで学び、各省に入らなければなりません。聖ピオ十世の場合はそう単純ではなかったのです。最初はただの助任司祭でした。その後、小教区の主任司祭となり、教会の位階制を一歩一歩登り、司教、ヴェネツィア枢機卿、そして最終的には教皇となったのです。

聖ピオ十世は、この世のものを嗜むことはありませんでしたから、この世のものを失うことも恐れませんでした。彼の墓碑に刻まれた言葉は非常に明確です。「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死にました」と。この世のものは聖ピオ十世の霊魂にとって何の興味もないものであったからこそ、彼はこの世のものを計算の基準にしなかったのです。

この世のものに執着すればするほど、それが物質的な所有物であれ、自分の名声であれ、(私たちがそれらに執着していることは天主もご存じですし、それはごく普通のことですが)そして、私たちが天主の敵を恐れれば恐れるほど、私たちは彼らに服従する羽目となります。聖ピオ十世は決して彼らを恐れませんでした。

フランスに関して、豊富で奴隷的な教会よりも、貧しくとも自由な教会を選ぶという決断を下さなければならなかったとき、彼はテーブルの上に拳を叩きつけ、それによって彼の堅固さ、決断力、意志、そして実際、彼の剛毅を示したと言われています。そして、この使徒的な剛毅は、偉大な堅忍によって育まれるのです。この堅忍さは、一方では徳の実践を通して、他方では改悛と苦行を通して、善を行おうとする意志の中に見出されるのです。

聖ピオ十世は、その列聖の過程が示すように、すべての徳において知られています。聖ピオ十世の列福の文章を読み直すだけでも、彼が実践したすべての善徳を強調した素晴らしい文章を読むことができます。しかし、聖ピオ十世は、私たちが見て賞賛するような善良な教皇であっただけではありません。改悛と苦行の熱心で規則的な実践なしには、真の徳、すなわち、堅忍で、愛徳によって形成された徳さえも存在しないからです。

親愛なる兄弟の皆様、これが聖ピオ十世が私たちの模範であり、今日の集祷文が述べていることなのです。ルフェーブル大司教がこの偉大な教皇、そして歴史上、今日まで最後に列福された教皇を私たちの修道会の守護聖人に選びたかった理由もここにあります。

まず第一に、その天の上智、教義の知識、教義とイエズス・キリストへの愛のゆえでした。また、現世を軽蔑し、善徳と悔悛を実践することに根ざした意志の剛毅にもよることです。親愛なる兄弟の皆様、私たちも聖ピオ十世にこれらの同じ善徳を実践するようお祈りしましょう。この観点からすれば、聖ピオ十世が生きたのは20世紀の初め、今から1世紀以上も前のことですが、彼は今も私たちの美しい模範であり続けているのです。

聖ピオ十世は、その善徳のゆえに、私たちに模範としてふさわしいのです。聖母が、彼に倣い、信仰の完全性を保ち、善徳の堅忍な実践を通してそれを味わい、そうして永遠を得る熱意を与えてくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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