白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
プーガ(D.Puga)神父様のお説教
典礼編・「カリスとご聖体を小さく上げる」(小奉挙)
2021年12月1日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、この間、新しいミサなど、典礼や公会議後の典礼上の解釈を弁護する方と話していました。次のようなことを言われました。「君らのミサ」。彼にとって聖伝ミサを「君らのミサ」といっていましたが、「君らのミサは若者に向いていない。若者はわからないだろう。誰かの前に跪いたりして、若者にとって意味をなさないだろう」と。
彼の話を聞きながら、ここの教会で数年前に起った実際の話が思い浮かびました。
18歳前後の少年がいました。たったの18歳だったものの、もうすでにかなり世間ずれしていました。郊外の下町っ子のような感じでした。彼から言われたのです。彼は「前からずっと何者の前にも跪くまいと決意していました」と明かしてくれました。たったの18歳でしたよ。
そして、ある友人に紹介されて、はじめて聖伝ミサに与ることになりました。彼の場合、回心の恩寵を受けることになりました。
その時、明かしてくれました。「神父様、今日のミサの時、私の人生ではじめて跪いたんだ」と。
そして、跪いたおかげで、すべてが変わったと彼は明かしました。
愛する兄弟の皆さま、聖伝の典礼の典型的な特徴ですね。だいたい、皆様はよく慣れてしまったのであまり気づかなくなっているかと思いますが、皆様の内には聖伝ミサに与るのが最近からの方もいらっしゃると思いますので、まだまだかなり印象に残る様子でしょう。
つまり、ミサのカノンから、信徒たちの全員は跪いて、教会はしんとなって深い沈黙となります。そして、皆、礼拝する姿勢となります。
何かが始まろうとします。司祭は小声で天主へ全員の名において話しかけます。
そして、いきなり、小さな鐘は鳴らされます。「Hanc Igitur」という祈祷です。これは信徒たちへの合図です。これから聖変化が始まるので、心の準備をしてくださいという合図です。最高の玄義がいま、これから実現されようとしておりますので、準備してくださいと。
そして、「Hanc Igitur」の時、このように我らの主の御体となっていくパン、そして御血となっていくワインの上に司祭は両手を伸ばします。
その時、「Hanc Igitur」という美しい祈祷を唱えます。御父へ捧げます。
「主よ、主の全教会としもべら(信徒全員と司祭とのこと)の捧げ奉るこの供え物を、受け入れ給え。そして、主の正義をなだめ、我らを日々主の平安の内に生きさせ、永遠の罰より救い出し、かつ、また、御身の選び給う者のうちに、われらをも加え給え。我らの主、キリストによって。アメン。」
以上の祈祷はパンとワインの聖変化の前の最後の天主へのお願いです。この祈りは司祭が捧げる我々のための祈りです。一番重要なことを頼みます。つまり、「日々主の平安の内に生きさせ」、つまり、本物の平和を願います。また、「永遠の罰より救い出し」、つまり地獄は本当に存在して、我々も地獄へ落ち得るので、そうならないようにお願いすることです。そして、救い、至福、永遠の命に加えられるように天主へ願います。
「ut placatus accipias」とは「主の正義をなだめ」ということですが、つまり、天主の御慈悲を乞い、そのお赦しを希うのです。ミサ聖祭は御赦しを願い、我々に対する天主の御怒りを鎮め給うための生贄(犠牲、供え物)です。
そして、司祭はこのように供え物の上に両手を伸ばす所作があります。これは旧約聖書において大司祭の所作に由来しています。贖罪のヤギの儀式の時でした。大司祭は神殿にいます。ヤギが連れてこられて、大司祭はヤギの上に手を伸ばし、「イスラエル人のすべての罪はこの生贄に負わせるように」という祈りを行います。
その後、ヤギは砂漠に放たれました。エルサレムから砂漠は近かったです。砂漠だったので、ヤギは行方不明になって、死んでいくという運命でした。ヤギと一緒に、イスラエル人たちの罪も消えるだろうという象徴でした。
以上のように、聖伝ミサの僅かな所作にすぎないものの、以上のような象徴と長い伝統が含まれています。
そして、何を象徴するかというと、イエズス・キリストは贖罪のヤギであるということを表します。我々の罪を負って贖罪し給うのです。
このように、祈祷の最後に、「我らの主、キリストによって」と結ばれます。
我々の罪はイエズスが負い給いました。また贖罪のヤギと同じように、聖なる町からイエズスも追い出されました。このように、死に給うことによって姿を消して、我々の罪も消されました。僅かな一例に過ぎないですが、どれほど美しい典礼であるかがお分かりになったと思います。
残念ながら、新しい典礼においては、このような祈祷や所作は消されました。また天主を鎮め、天主の御慈悲を願うようなことすら、跪くことを拒む近代人にとっては憎むべきことになりました。
愛する兄弟の皆さま、このように、犠牲は「御慈悲を希う」、「天主の御怒りを鎮める」ためにもあります。そして、やはり、聖伝のミサは避雷針のようなものです。天主の御怒りなる雷から守られるための聖伝ミサです。天主の御怒りを思い出しましょう。もう、現代では悪がはびこっています。これほど蔓延している挙句に、普通はもはや我々が気づかないかのようになってしまっています。悪に対して鈍感になったかのようです。
また、先日、報道をみて自称「国家」では、堕胎期間は二週間ほどに延ばされたという法律が決まったと知りました。妊娠してから14週間まで、堕胎は合法化となりました。すでに16週間まで伸ばそうとしています。そして、このような法律に誰一人も文句が言わないで、声を上げないで、誰も抵抗しないで、あっさりと通されてしまいます。さらにいうと、500数人もの議員がいるのに、「可決」は僅かな60票だけで成立しました。他の議員たちはどこにいたのでしょうか?手を挙げて、文句を言い出し、立ち上がる一人もいないのですか?
これだけではなく、この堕胎期間の延長法を弁護するために、八カ月の妊婦の議員は演壇に登ったのですよ。そして、その女性は自分自身が妊娠して八カ月なのに、恥知らずにも、過去にはすでに二度とも堕胎したことがあると明かしました。そして、これは後悔しないよ。このおかげで議員になったものと。。。是非とも、この報道、国会の議事録を確認してください。本当に呆れます。
このようなありさまになって、このような国になって、天主の御怒りはどうやって避けられうるでしょうか?
愛する兄弟の皆さま、ですから、キリスト教徒なら、贖罪の生贄、天主の御怒りを鎮める唯一の生贄の下に集まりましょう。
典礼の次は皆、よくご存じですね。
パンをご自分の御体、ワインをご自分の御血へ初めて聖変化し給うた最後の晩餐の所作と祈りは再現されます。そして、御体となったパンの聖変化のすぐ後に、聖体奉挙があります。
司祭は御体の前に跪きます。これは典礼に従ってのことです。典礼書において、祈りだけではなく、司祭の所作も記されています。赤字で書かれていることから、「朱文字」と呼ばれています。
この「朱文字」によると、聖変化されたホスチアを聖壇においてから、「司祭が跪いて礼拝して」とあります。跪くだけではなく、跪いて礼拝するということです。
その後に、「奉挙」があります。愛する兄弟の皆さま、「奉挙」についてある勘違いをよく聞きます。いわゆる「天主へ捧げる所作」だという勘違いです。そうではなく、「奉挙」とは、信徒たちにも礼拝させるために、司祭が奉挙するということです。つまり司祭が礼拝したように、信徒たちも礼拝させるための所作です。
また、奉挙は聖変化の前に起こさないのです。なぜなら、単なるパンとワインを礼拝するわけにはいけないので、聖変化の後、我らの主、イエズス・キリストの御体と御血を礼拝するのです。
ですから、ミサに与る時、以上の礼拝を行うことは重要なことです。そして、身体上の所作によって美しく礼拝を表すのです。跪きながら頭を下げて、ひれ伏して、身を屈めます。そして、それだけではなく、頭などを起して、御体を眺めながら礼拝するのです。
以上の大奉挙は比較的遅くなって典礼において追加されました。10-11世紀の追加です。当時のフランスにおける御聖体に関する異端に対しての追加でした。トゥールのベレンガリウスという神学者は御聖体におけるご現存を否定したことによって生まれた異端でした。
このように、大奉挙を少しずつ行うようになりました。それは信徒たちも御聖体を見ることが出来て礼拝できるようにするためでした。そして、典礼書の朱文に明記されて、奉挙して、信徒たちにも見えて、礼拝させるようにと書いてあります。
そして、古い聖伝ですが、大奉挙の際、ちゃんと礼拝すれば信徒はその一日の間、変死しないと言い伝えられています。このように、司祭がもしも、ホスチアをこれほど高く揚げなかった場合、信徒たちは「もっとも高く、もっとも高く」と声を上げることが結構あったようです。
奉挙の際の礼拝は重要です。
聖アウグスティヌスはこのように言います。「事前に礼拝せずに御肉(我らの主ですね)を食べることなかれ」と。
残念ながら現代では、礼拝する行為とは何であるかが見落とされています。跪くことも、礼拝することも稀になった時代です。
このような時代になったので、世の終わりの兆しを見つけるために、多くの人々は黙示録を読んでいるのです。そして、多くの解釈を加えようとしますが、黙示録を解釈する前に、単純に、黙示録を文字通りに見てください。そこでは、天における典礼が描写されます。美しい典礼で、選ばれた人々は天主の王座の御もとにひれ伏して礼拝し奉る姿。そして、我々も加わってほしいと熱願しながら。
で、近代主義者は「このように跪くのは、人間の尊厳に値しない」と言われるかもしれません。
しかしながら、その逆です。天主のみ前に跪く時こそ、まさに人間の尊厳に値します。天主ご自身は我々を救うために跪かれた天主ですよ。天主ご自身は我々を救うために、跪かれた天主ですよ。
ミサ聖祭の時、信経(Credo)を唱える際、「Et incarnatus est」という部分の時、全員は跪くのですね。なぜなら、天主の御子の御謙遜に倣おうとするからです。天主であるのに、肉体を執り給えり、御自分を自分の動きで貶められることに倣うのです。
典礼の最後の福音の朗読の時も同じです。ちなみに、新しい典礼からもその最後の福音は消されましたね。
最後の福音の朗読の時、「Et verbum caro factum est」の時も、みんな、跪くのです。いわゆる、深く愛しあう二人が相手への愛を示すために、相手よりさらにへりくだってへりくだろうとする姿です。
愛する兄弟の皆さま、忘れないでください。ご受難が始まろうとしたとき、ゲッセマネの園でのイエズスは御父のみ前に跪かれていたことを忘れないでください。我々のために模範を与えられています。イエズス様に倣いましょう。
またカノンの後半部分では、「Hanc Igitur」の時と同じように、もう一回、鐘を鳴らす時があります。司祭はカリスとご聖体を執り、上げる時です。「小奉挙」と呼ばれています。
その所作を行いながら、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso(かれによって、かれと共に、かれにおいて)」と祈ります。「かれ」とはもちろん、イエズス・キリストのことですね。
続いて「かれによって、かれと共に、かれにおいて、全能の父なる天主よ、聖霊との一致において、御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う」
そして注意していただきたいですが、信徒たちは「アメン」と応答します。これは大事です。
信徒たちの名において司祭が捧げ奉る生贄を信徒たちは追認するということを表します。
「アメン」とは「そうありますように」という意味です。
「かれによって、かれと共に、かれにおいて、全能の父なる天主よ、聖霊との一致において(聖なる三位一体ですね)、御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う」
小奉挙です。
以上の祈りを唱える際、五回、十字架の印を切ります。三回は「かれによって、かれと共に、かれにおいて、」に合わせてです。イエズスは聖なる三位一体の一つの位格であることを示します。さらに、二回の十字架の印が切られます。
その後、司祭はカリス(聖杯)と聖体を軽く上げるのです(小奉挙)。天主への小奉挙です。
全部で五つの十字架が切られますが、それは我らの主、イエズス・キリストの五つの御傷を示します。
十字架上のイエズス様の死によって我々は救われました。また、十字架上のイエズス様の死によってこそ天主はほまれと栄光を受け給うのです。
イエズス様が御父のみ旨に従い、御自分の命を捧げ給うたことによってです。
以上のアメンの次に、「天にまします我らの父よ」が唱えられています。「Pater Noster」という祈祷は贖罪された人々の祈りです。
現代では、天主は父だということで、いろいろなことが言われていますが、天主は受洗者の御父であり、洗礼を受けていない人々の父ではないのです。父ではなく、その主人というだけです。
信徳、望徳、愛徳をもつ人々にとってだけ、天主は父となります。残りの人々はそうではありません。洗礼を受けない人々は単なる被創造物で、父子の関係ではなく、単に創造主・被創造物の関係だけになります。
さきほど示したように、カトリック典礼の中心の一つはやはり礼拝です。
そして、人間は必ず霊魂と身体の両方ですので、身体をも含めて礼拝しなければ、礼拝できないのです。
亡くなった士官の一人について思い浮かびます。インドシナの戦争に参加した方ですが、その後、落下傘の事故にあって、両足の腿なかばまで、砕かれました。彼は人工補綴をしていたにもかかわらず、苦しかったにもかかわらず、天主の御子を拝領するために、必ず跪くことにしていました。このような年配の方々は若い人々へ模範を与えます。
また、ここにいる若い人々の皆さん、あなたたちも年配になって、同じような模範を自分の子供に伝える義務がいずれ来るのです。
このような現代であったとしても、残念ながら教会内の少なくない司教たちは、聖伝ミサを迫害するフランシスコによる致命的な「Motu Proprio」を適用して、「年配なら、一応聖伝ミサを黙認します」と。つまり老人のミサであるかのように言われています。「一切、子孫へ伝えてはいけない」という考えになっています。
聖母マリアに祈りましょう。しっかりと継承するための堅い決心が与えられるように。
また聖アウグスティヌスの言葉を黙想しましょう。「事前に礼拝せずに御肉(我らの主ですね)を食べることなかれ」と。
ですから、本日のミサに読まれた福音にある我らの主の言葉をも黙想しましょう。我々に御仰せになります。「身を立てて頭をあげよ、あなたたちの救いは近づいたのだから…」(ルカ、21,28)
大奉挙の際、礼拝してから、我々の主を眺めるため、「身を立てて頭をあげよ」。なぜなら「あなたたちの救いは近づいたのだから…」。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
プーガ(D.Puga)神父様のお説教
典礼編・「カリスとご聖体を小さく上げる」(小奉挙)
2021年12月1日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、この間、新しいミサなど、典礼や公会議後の典礼上の解釈を弁護する方と話していました。次のようなことを言われました。「君らのミサ」。彼にとって聖伝ミサを「君らのミサ」といっていましたが、「君らのミサは若者に向いていない。若者はわからないだろう。誰かの前に跪いたりして、若者にとって意味をなさないだろう」と。
彼の話を聞きながら、ここの教会で数年前に起った実際の話が思い浮かびました。
18歳前後の少年がいました。たったの18歳だったものの、もうすでにかなり世間ずれしていました。郊外の下町っ子のような感じでした。彼から言われたのです。彼は「前からずっと何者の前にも跪くまいと決意していました」と明かしてくれました。たったの18歳でしたよ。
そして、ある友人に紹介されて、はじめて聖伝ミサに与ることになりました。彼の場合、回心の恩寵を受けることになりました。
その時、明かしてくれました。「神父様、今日のミサの時、私の人生ではじめて跪いたんだ」と。
そして、跪いたおかげで、すべてが変わったと彼は明かしました。
愛する兄弟の皆さま、聖伝の典礼の典型的な特徴ですね。だいたい、皆様はよく慣れてしまったのであまり気づかなくなっているかと思いますが、皆様の内には聖伝ミサに与るのが最近からの方もいらっしゃると思いますので、まだまだかなり印象に残る様子でしょう。
つまり、ミサのカノンから、信徒たちの全員は跪いて、教会はしんとなって深い沈黙となります。そして、皆、礼拝する姿勢となります。
何かが始まろうとします。司祭は小声で天主へ全員の名において話しかけます。
そして、いきなり、小さな鐘は鳴らされます。「Hanc Igitur」という祈祷です。これは信徒たちへの合図です。これから聖変化が始まるので、心の準備をしてくださいという合図です。最高の玄義がいま、これから実現されようとしておりますので、準備してくださいと。
そして、「Hanc Igitur」の時、このように我らの主の御体となっていくパン、そして御血となっていくワインの上に司祭は両手を伸ばします。
その時、「Hanc Igitur」という美しい祈祷を唱えます。御父へ捧げます。
「主よ、主の全教会としもべら(信徒全員と司祭とのこと)の捧げ奉るこの供え物を、受け入れ給え。そして、主の正義をなだめ、我らを日々主の平安の内に生きさせ、永遠の罰より救い出し、かつ、また、御身の選び給う者のうちに、われらをも加え給え。我らの主、キリストによって。アメン。」
以上の祈祷はパンとワインの聖変化の前の最後の天主へのお願いです。この祈りは司祭が捧げる我々のための祈りです。一番重要なことを頼みます。つまり、「日々主の平安の内に生きさせ」、つまり、本物の平和を願います。また、「永遠の罰より救い出し」、つまり地獄は本当に存在して、我々も地獄へ落ち得るので、そうならないようにお願いすることです。そして、救い、至福、永遠の命に加えられるように天主へ願います。
「ut placatus accipias」とは「主の正義をなだめ」ということですが、つまり、天主の御慈悲を乞い、そのお赦しを希うのです。ミサ聖祭は御赦しを願い、我々に対する天主の御怒りを鎮め給うための生贄(犠牲、供え物)です。
そして、司祭はこのように供え物の上に両手を伸ばす所作があります。これは旧約聖書において大司祭の所作に由来しています。贖罪のヤギの儀式の時でした。大司祭は神殿にいます。ヤギが連れてこられて、大司祭はヤギの上に手を伸ばし、「イスラエル人のすべての罪はこの生贄に負わせるように」という祈りを行います。
その後、ヤギは砂漠に放たれました。エルサレムから砂漠は近かったです。砂漠だったので、ヤギは行方不明になって、死んでいくという運命でした。ヤギと一緒に、イスラエル人たちの罪も消えるだろうという象徴でした。
以上のように、聖伝ミサの僅かな所作にすぎないものの、以上のような象徴と長い伝統が含まれています。
そして、何を象徴するかというと、イエズス・キリストは贖罪のヤギであるということを表します。我々の罪を負って贖罪し給うのです。
このように、祈祷の最後に、「我らの主、キリストによって」と結ばれます。
我々の罪はイエズスが負い給いました。また贖罪のヤギと同じように、聖なる町からイエズスも追い出されました。このように、死に給うことによって姿を消して、我々の罪も消されました。僅かな一例に過ぎないですが、どれほど美しい典礼であるかがお分かりになったと思います。
残念ながら、新しい典礼においては、このような祈祷や所作は消されました。また天主を鎮め、天主の御慈悲を願うようなことすら、跪くことを拒む近代人にとっては憎むべきことになりました。
愛する兄弟の皆さま、このように、犠牲は「御慈悲を希う」、「天主の御怒りを鎮める」ためにもあります。そして、やはり、聖伝のミサは避雷針のようなものです。天主の御怒りなる雷から守られるための聖伝ミサです。天主の御怒りを思い出しましょう。もう、現代では悪がはびこっています。これほど蔓延している挙句に、普通はもはや我々が気づかないかのようになってしまっています。悪に対して鈍感になったかのようです。
また、先日、報道をみて自称「国家」では、堕胎期間は二週間ほどに延ばされたという法律が決まったと知りました。妊娠してから14週間まで、堕胎は合法化となりました。すでに16週間まで伸ばそうとしています。そして、このような法律に誰一人も文句が言わないで、声を上げないで、誰も抵抗しないで、あっさりと通されてしまいます。さらにいうと、500数人もの議員がいるのに、「可決」は僅かな60票だけで成立しました。他の議員たちはどこにいたのでしょうか?手を挙げて、文句を言い出し、立ち上がる一人もいないのですか?
これだけではなく、この堕胎期間の延長法を弁護するために、八カ月の妊婦の議員は演壇に登ったのですよ。そして、その女性は自分自身が妊娠して八カ月なのに、恥知らずにも、過去にはすでに二度とも堕胎したことがあると明かしました。そして、これは後悔しないよ。このおかげで議員になったものと。。。是非とも、この報道、国会の議事録を確認してください。本当に呆れます。
このようなありさまになって、このような国になって、天主の御怒りはどうやって避けられうるでしょうか?
愛する兄弟の皆さま、ですから、キリスト教徒なら、贖罪の生贄、天主の御怒りを鎮める唯一の生贄の下に集まりましょう。
典礼の次は皆、よくご存じですね。
パンをご自分の御体、ワインをご自分の御血へ初めて聖変化し給うた最後の晩餐の所作と祈りは再現されます。そして、御体となったパンの聖変化のすぐ後に、聖体奉挙があります。
司祭は御体の前に跪きます。これは典礼に従ってのことです。典礼書において、祈りだけではなく、司祭の所作も記されています。赤字で書かれていることから、「朱文字」と呼ばれています。
この「朱文字」によると、聖変化されたホスチアを聖壇においてから、「司祭が跪いて礼拝して」とあります。跪くだけではなく、跪いて礼拝するということです。
その後に、「奉挙」があります。愛する兄弟の皆さま、「奉挙」についてある勘違いをよく聞きます。いわゆる「天主へ捧げる所作」だという勘違いです。そうではなく、「奉挙」とは、信徒たちにも礼拝させるために、司祭が奉挙するということです。つまり司祭が礼拝したように、信徒たちも礼拝させるための所作です。
また、奉挙は聖変化の前に起こさないのです。なぜなら、単なるパンとワインを礼拝するわけにはいけないので、聖変化の後、我らの主、イエズス・キリストの御体と御血を礼拝するのです。
ですから、ミサに与る時、以上の礼拝を行うことは重要なことです。そして、身体上の所作によって美しく礼拝を表すのです。跪きながら頭を下げて、ひれ伏して、身を屈めます。そして、それだけではなく、頭などを起して、御体を眺めながら礼拝するのです。
以上の大奉挙は比較的遅くなって典礼において追加されました。10-11世紀の追加です。当時のフランスにおける御聖体に関する異端に対しての追加でした。トゥールのベレンガリウスという神学者は御聖体におけるご現存を否定したことによって生まれた異端でした。
このように、大奉挙を少しずつ行うようになりました。それは信徒たちも御聖体を見ることが出来て礼拝できるようにするためでした。そして、典礼書の朱文に明記されて、奉挙して、信徒たちにも見えて、礼拝させるようにと書いてあります。
そして、古い聖伝ですが、大奉挙の際、ちゃんと礼拝すれば信徒はその一日の間、変死しないと言い伝えられています。このように、司祭がもしも、ホスチアをこれほど高く揚げなかった場合、信徒たちは「もっとも高く、もっとも高く」と声を上げることが結構あったようです。
奉挙の際の礼拝は重要です。
聖アウグスティヌスはこのように言います。「事前に礼拝せずに御肉(我らの主ですね)を食べることなかれ」と。
残念ながら現代では、礼拝する行為とは何であるかが見落とされています。跪くことも、礼拝することも稀になった時代です。
このような時代になったので、世の終わりの兆しを見つけるために、多くの人々は黙示録を読んでいるのです。そして、多くの解釈を加えようとしますが、黙示録を解釈する前に、単純に、黙示録を文字通りに見てください。そこでは、天における典礼が描写されます。美しい典礼で、選ばれた人々は天主の王座の御もとにひれ伏して礼拝し奉る姿。そして、我々も加わってほしいと熱願しながら。
で、近代主義者は「このように跪くのは、人間の尊厳に値しない」と言われるかもしれません。
しかしながら、その逆です。天主のみ前に跪く時こそ、まさに人間の尊厳に値します。天主ご自身は我々を救うために跪かれた天主ですよ。天主ご自身は我々を救うために、跪かれた天主ですよ。
ミサ聖祭の時、信経(Credo)を唱える際、「Et incarnatus est」という部分の時、全員は跪くのですね。なぜなら、天主の御子の御謙遜に倣おうとするからです。天主であるのに、肉体を執り給えり、御自分を自分の動きで貶められることに倣うのです。
典礼の最後の福音の朗読の時も同じです。ちなみに、新しい典礼からもその最後の福音は消されましたね。
最後の福音の朗読の時、「Et verbum caro factum est」の時も、みんな、跪くのです。いわゆる、深く愛しあう二人が相手への愛を示すために、相手よりさらにへりくだってへりくだろうとする姿です。
愛する兄弟の皆さま、忘れないでください。ご受難が始まろうとしたとき、ゲッセマネの園でのイエズスは御父のみ前に跪かれていたことを忘れないでください。我々のために模範を与えられています。イエズス様に倣いましょう。
またカノンの後半部分では、「Hanc Igitur」の時と同じように、もう一回、鐘を鳴らす時があります。司祭はカリスとご聖体を執り、上げる時です。「小奉挙」と呼ばれています。
その所作を行いながら、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso(かれによって、かれと共に、かれにおいて)」と祈ります。「かれ」とはもちろん、イエズス・キリストのことですね。
続いて「かれによって、かれと共に、かれにおいて、全能の父なる天主よ、聖霊との一致において、御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う」
そして注意していただきたいですが、信徒たちは「アメン」と応答します。これは大事です。
信徒たちの名において司祭が捧げ奉る生贄を信徒たちは追認するということを表します。
「アメン」とは「そうありますように」という意味です。
「かれによって、かれと共に、かれにおいて、全能の父なる天主よ、聖霊との一致において(聖なる三位一体ですね)、御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う」
小奉挙です。
以上の祈りを唱える際、五回、十字架の印を切ります。三回は「かれによって、かれと共に、かれにおいて、」に合わせてです。イエズスは聖なる三位一体の一つの位格であることを示します。さらに、二回の十字架の印が切られます。
その後、司祭はカリス(聖杯)と聖体を軽く上げるのです(小奉挙)。天主への小奉挙です。
全部で五つの十字架が切られますが、それは我らの主、イエズス・キリストの五つの御傷を示します。
十字架上のイエズス様の死によって我々は救われました。また、十字架上のイエズス様の死によってこそ天主はほまれと栄光を受け給うのです。
イエズス様が御父のみ旨に従い、御自分の命を捧げ給うたことによってです。
以上のアメンの次に、「天にまします我らの父よ」が唱えられています。「Pater Noster」という祈祷は贖罪された人々の祈りです。
現代では、天主は父だということで、いろいろなことが言われていますが、天主は受洗者の御父であり、洗礼を受けていない人々の父ではないのです。父ではなく、その主人というだけです。
信徳、望徳、愛徳をもつ人々にとってだけ、天主は父となります。残りの人々はそうではありません。洗礼を受けない人々は単なる被創造物で、父子の関係ではなく、単に創造主・被創造物の関係だけになります。
さきほど示したように、カトリック典礼の中心の一つはやはり礼拝です。
そして、人間は必ず霊魂と身体の両方ですので、身体をも含めて礼拝しなければ、礼拝できないのです。
亡くなった士官の一人について思い浮かびます。インドシナの戦争に参加した方ですが、その後、落下傘の事故にあって、両足の腿なかばまで、砕かれました。彼は人工補綴をしていたにもかかわらず、苦しかったにもかかわらず、天主の御子を拝領するために、必ず跪くことにしていました。このような年配の方々は若い人々へ模範を与えます。
また、ここにいる若い人々の皆さん、あなたたちも年配になって、同じような模範を自分の子供に伝える義務がいずれ来るのです。
このような現代であったとしても、残念ながら教会内の少なくない司教たちは、聖伝ミサを迫害するフランシスコによる致命的な「Motu Proprio」を適用して、「年配なら、一応聖伝ミサを黙認します」と。つまり老人のミサであるかのように言われています。「一切、子孫へ伝えてはいけない」という考えになっています。
聖母マリアに祈りましょう。しっかりと継承するための堅い決心が与えられるように。
また聖アウグスティヌスの言葉を黙想しましょう。「事前に礼拝せずに御肉(我らの主ですね)を食べることなかれ」と。
ですから、本日のミサに読まれた福音にある我らの主の言葉をも黙想しましょう。我々に御仰せになります。「身を立てて頭をあげよ、あなたたちの救いは近づいたのだから…」(ルカ、21,28)
大奉挙の際、礼拝してから、我々の主を眺めるため、「身を立てて頭をあげよ」。なぜなら「あなたたちの救いは近づいたのだから…」。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン