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ご復活の流れ 【公教要理】第五十二講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年08月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十二講  贖罪の玄義・神学編・その六 ご復活の流れ




「三日目に死者のうちよりよみがえり、」
前回、玄義としてのご復活をご紹介しました。つまり、信条としての真理である「イエズス・キリストのご復活」をご紹介しました。私たちの主イエズス・キリストは、御自分を御自分でよみがえらせたことによって、「死に対して勝利」したということです。

私たちの主のご復活という事実は、福音書によって立証されています。ご復活の歴史的な流れ自体を見るのは非常に価値のあることですから、ご紹介したいと思います。


ご復活自体は玄義ということなので、確かに私たちに隠されている神秘ではあります。というのも、玄義なので、厳密に言うと人間の理性だけでは把握できず知り得ない神秘なのです。その玄義の中心なる部分は、天主なのに本当に死に給うたうえに、「御自分でご自分を」よみがえらせたという玄義です。

イエズス・キリストは、分離してしまった物事(神体と霊魂)を元に戻せる御力があるという玄義です。人間なら、無理なことです。だれも、自分の力だけで、自分を復活させることは不可能です。もし自分で自分を蘇らせることが可能だとしたら、人間が命に対して全能であるということを証明することになります。ところが、人間が命に対して全能であることは、「死ねない」ということになりますが、人間にはこういった力はありません。

もしかしたら、次の批判が言われるかもしれません。「でも、イエズスが死んだでしょう。それでも命に対して全能であるというのですか」と。はい、それでも全能であるのです。私たちの主ご自身は仰せになりました。「その命は私から奪い取るのではなく、私がそれを与える」 と仰せになりました。つまり、「死ぬ時でさえイエズス・キリストは御自分の命を与える」ということであり、命に対して絶対の支配者、全能者であることの証明なのです。
そして、ご自分の命をご自分の意志だけで与え給う事実を証明するために、イエズス・キリストが御自分をご自分でよみがえらせ、ご自分でご自分に命を戻したのです。
明白なことでしょう。ご復活を通じて、私たちの主はご自分が真の天主であることを証明されました。「ご自分でご自分をよみがえらせ、ご自分でご自分に命を戻す」というこのことこそ、ご復活の玄義なのです。

それで、私たちの主は以上の玄義を使徒たちに示されました。人間を完全に卓越するような出来事なのですから、示さないわけにはいきませんでした。「普通の復活」と違います。旧約聖書において、ある預言者が子どもをよみがえらせたら、確かに大奇跡なのかもしれないが、預言者は天主の名においてこそよみがえらせたし、天主が主役になって、天主が預言者を「通じて」行われたにすぎない奇跡です。勿論、大奇跡ではありますが、道具となる預言者を通じて「だけ」ということで、天主こそがよみがえらせるのです。

一方、イエズス・キリストのご復活の場合には、「道具」はないのです。私たちの主はご自分の力だけでご自分をよみがえらせたのです。このことこそはご復活の玄義の中心部分をなします。さらに言うと、「ご自分でご自分をよみがえらせた」という事実こそは、イエズス・キリストが真の天主であることを証明して裏付けるのです。旧約聖書における子供をよみがえらせた預言者なら、自分の力で自分をよみがえらせることは出来ません。「命」に対して、絶対的な支配力を持たないからです。
一方、旧約聖書の前例に続いて、私たちの主は、何人かの人々をよみがえらせたことがあった上、イエズス・キリストだけが、ご自分だけの力でご自分を甦らせることが出来たということです。
そして、もうよみがえった私たちの主は弟子たちと使徒たちにご自分を見せ、彼らの前に現しました。四つの福音書ともご復活の証言を残しました御復活を根拠づける証言は非常に大事です。というのも、前回にご紹介したように、ご復活こそがカトリック信徒を根拠づける事実なのですから。

だから、「玄義だから信じるだけでよい」というだけでは足りないのです。勿論、天主の権威によって与えられた信条なので、信じることのためには足りるだけは十分に足ります。ところが、天主は、単なるご啓示なさった信条だけにとどまらず、ご復活という事実が福音書に記されるようになさったのです。従って、福音書記者の全員がご復活に関する証言と流れを記しています。聖マテオ、聖マルコ、聖ルカと聖ヨハネの全員が記しています。四人による福音書の中に、私たちの主が本当にご復活した根拠が記されています。
さらに言うと、立派な証言だと言わざるを得ません。なぜかというと、「死者の内からよみがえった」という一行でのような証言ではなく、それらの証言におけるすべての細かいところまで、「ご復活」の真実性・現実性・歴史性が裏付けられているからです。また、私たちの主のご復活は「捏造のようなものを無理やりに信じさせる」ようなことではないということが、福音書における証言を読んだら目に見えるかのように明白です。


【ご復活の時間的な流れ】

それでは、ご復活の流れはどうなっているでしょうか。ご復活の日の夜明けとなりました。まず、私たちの主が正確にいつよみがえったか不明のままです。確かなのは、地震があったことです。福音者もその地震があったということをしるしています。しかしながら、きっと、地震のちょっと前に、静寂の内によみがえったのでしょう。少なくとも、3日目がはじまってから、よみがえったというのは確かです。というのも、3日ほどお墓に残ったからです。現代の人の目から見るとよく分かりませんね。三日というと、3かける24ということで、72時間ほどにお墓に残ったはずなのに、聖金曜日の死から日曜日の復活まで72時間には足りないから分かりませんね。いや、勿論「一日」とか言われるのは、丸一日になっているというのではなくて、「第一日」という期間を表す表現なのです。つまり、お墓に葬られたのは聖金曜なので、数時間だけになりますが「第一日目」として数えられます。それから、聖土曜日は丸一日にお墓の中にましました。もう「一日」となります。そして、3日目の日曜日が始まって、お墓にまだいたから、数時間だけでしょうが、もう「一日」として数えられています。だから信経においても、私たちの主のご自身のおっしゃる通りに、「三日目に死者の内よりよみがえり」というのです。
まず、私たちの主がご自分の復活を預言なさったのです。ご自分を指しながら、「この神殿を壊せ。私は三日でそれを立て直そう」 と仰せになりました。言い換えると、3日目に建て直されるという意味です。また、旧約聖書では、主の前兆であるヨナについてもイエズスが取り上げられました。ヨナが三日と三夜ほどに鯨の腹にいたという旧約聖書の場面です。

【地震】

そして、ご復活の日の夜明けごろ、私たちの主はよみがえったのです。福音書にしるされているように、その時に地震がありました。その上、その地震の際に、お墓を塞いでいた岩は飛び転びます。そういえば番人たちがいましたね。ポンシオ・ピラトが用意してあった番人ではなくて、大司祭たちが番人たちをお墓の前に聖金曜日からずっと番をさせておいたのです。なぜかというと、大司祭たちは、どうしても死体が無くならないように番人をおいていて、もう「この冒涜者の事件が収まるように」、また何かのさらなる政治事件にならないように、番人を置いておいたのです。つまり、イエズス・キリストの預言は嘘であることを証明するために(特にご復活の預言)、お墓の前に番人たちを置いておいたのです。で、記憶が正しかったら、三人あるいは四人の番人を置いておいて、四時間ごとぐらいで、当番が変わるという体制だったと思います。つまり、お墓の番は厳格でした。

【兵士たちの逃亡】

地震の後に、いきなりお墓の岩が飛び出すのを番人の兵隊たちは唖然として見ました。それから、天使たちによる眩しい光を見ました。兵隊たちは大恐怖に陥ってしまいました。すっかり恐れ、兵隊たちは逃亡してしまいました。で、すぐさまに、大司祭たちのところに行きました。

【婦人たちの到来】

その間、日曜日の朝早く、安息日も明けたので、聖なる婦人たちがイエズス・キリストの死体の防腐処置を終わらせるためにお墓に向かっていました。聖なる婦人たちが、当時の死体埋葬用の定番の没薬や芳香類の道具を用意してありました。そして、チェナクルムに恐る恐る隠れて引きこもっていた使徒たちと違って、私たちの主イエズス・キリストに対する深い敬虔と礼拝の心をもった聖なる婦人たちが日曜日の曙になって、没薬類をとって、勇気を出して墓へ向かったのです。イエズス・キリストのご死体に世話をするために、向かっていました。深い敬意を表す行為でした。また、イエズス・キリストに対する深い愛は称賛すべきです。
興味深いことに、聖なる婦人たちの愛は非常に強く、重い岩を転ばすために男を連れずに行ったわけです。ある意味で、前もって、愛によってそういった障害は消えることを知っていたかのように。考えてみるとかなり面白い場面でしょう。福音書によると向かっている時になって、初めて「彼女たちは「墓の入り口にある石をだれに転ばしてもらおうか」と話し合っていた」 と書かれています。
婦人たちのこういった単純さは私たちの主に対する深い信仰を示します。結局、転ばす必要はなかったのです。というのも、お墓に着いたら、既に岩が飛び出て転ばされていたからです。

【婦人たちが到着すると墓は空だった】

その次の場面を整理して語るのはちょっと難しいところです。聖マテオ、聖マルコと聖ルカが合わせて同じようなことを語るのですが、聖ヨハネの方は次の場面で多少違います。四人とも一致するのは、聖なる婦人たちがお墓まで到着したことです。それは間違いないのです。また、確かなのは、お墓は空っぽだったということで、これも間違いないことです。
で、天使たちが婦人たちの前に現れて「主はご復活した」と知らせました。この次の場面の整理が難しいというのは、この場面の前後を整理するのが難しいからです。



【マリア・マグダレナがまず聖ペトロと聖ヨハネとに報告する】

順番として一番あり得ることから言うと、こういう順番になったでしょう。
つまり、マリア・マグダレナがまず一旦聖ペトロと聖ヨハネの許に戻ってみて報告しました。「もうお墓には主の体が無くなりました」ということを報告しました。すると、聖ヨハネと聖ペトロがお墓へ走り出しました。聖ペトロより聖ヨハネの足が速いので、先にお墓に到着しました。福音書の中に、聖ヨハネ自身がこの場面を語ります。お墓の中に頭を突っ込むが、入りませんでした。そして、聖ペトロが続いて到着して、先にお墓の中に入って、聖ヨハネがその後を付いて入りました。私たちの主の死体は消えていました。しかも、不思議なことに、体を包んでいた布などは、綺麗に折り畳まれていたのです。というのは、何かの盗賊者による業ではないということを意味しています。死体を盗みに来た盗賊者なり泥棒なりがいたら、わざわざ綺麗に、盗みながら時間を無駄にして布類を折り畳む余裕があるわけがありません。いや本当に無理ですね。盗賊なら、死体を取って捕まらないようにすぐ逃亡するに違いないからです。
ところが、お墓の中に、布類が綺麗に整頓され、ただしく折り畳まれていました。まさに、整頓を大切にする業なのでした。あえて言えば「死体が消えた」のは整頓正しく秩序正しく起きた事実なのだといったようなことを表すのです。そして、聖ヨハネと聖ペトロはお墓が空っぽだということを目撃したら、マリア・マグダレナの知らせを確認して、布などを見てもピンと来なくて、確かに主の死体が「盗まれた」と思いました。で、お墓を去って帰りました。



【残りの聖なる婦人たちは、しばらくして墓を去り、他の弟子たちの所に「主がご復活した」と報告する】

その間に、残りの聖なる婦人たちが、お墓を去って、他の弟子たちの所に「主がご復活した」ということを知らせるために行っていました。

【聖マリア・マグダレナだけは、その後、お墓に戻る】

聖マリア・マグダレナだけは、その後、お墓に戻って残りました。以上の出来事がそれぞれにあったのですが、どういった順番で起きたか、ちょっと整理しづらいところがあります。福音書の中に、ばらばらに語られていますから。

一方、聖ペトロと聖ヨハネがお墓に行って、死体がなかったということを確認しました。また、聖マリア・マグダレナは、その間に何とかお墓に戻ってお墓に一人で残りました。そして三つ目の出来事は、他の聖なる婦人たちがお墓を去ってあちこちに知らせに行ってきました。「ご復活した」ということを知らせるために、使徒たちが引きこもっているチェナクルムの戸を叩き彼らが小窓を開いて「何だろう」と聞いたら、婦人たちは「主の死体が盗まれてしまったよ。死体が無くなったよ。天使たちが復活したと言っていたよ」と。

天使たちは「死者の内より復活した。弟子たちに知らせに行け」 といわれましたので。弟子たちは婦人たちに言われても「頭がおかしくなった」と思って、全く真に受けなかったのです。つまり、使徒たちは聖なる婦人の話を信じることはなく、彼女たちを追い出しました。

ところが、福音書によると、彼女たちの前に私たちの主が現れたと記されています。「みなに先立ってガリラヤに行かれる。弟子たちに知らせに行け」と。

この間に、マリア・マグダレナはお墓に残っていました。なぜかというと、聖アウグスティヌスの言う通りに「マリア・マグダレナの心は主に対する愛で燃えていた」からです。だから、死体が消えても、愛している私たちの主を求め続けました。というのも、「愛の感情」というのは、愛されている対象を自分のものにする感情なのです。そして、マリア・マグダレナは格別に私たちの主を愛しています。以前にご紹介したように、その愛を示したことがありました。従って、どうしても私たちの主にお会いしたいと思っていました。愛していた誰かを失う時に、悲しみます。慰めを求めながら、聖マリア・マグダレナはお墓に戻りました。

天使たちの出現をも目撃して、空っぽの墓を見て、捜していたが死体は消えていました。以前にご紹介したように、お墓は小さな庭の中にありました。そして、お庭で聖マリア・マグダレナが振り向くと、そこに一人の男がいました。実はよみがえったイエズス・キリストでしたけれども、最初は聖マリア・マグダレナは主であることを気付かないままでした。庭の管理人だと間違ったのですけど、「私の主をだれかが取り去りました。どこに持っていったのかわからないのです」 と彼女は言いました。

考えてみると、不思議な発言です。私たちなら、マリア・マグダレナがなぜそこにいるかを知っていますから、その発言の意味を理解できますが、もう一人が本当に庭の管理人なら、分かるはずがありませんね。管理人にはわけがわからないのです。誰のことであるか、だれに取り出されたか、筋は全く不明になるはずなのですね。
「何の話だろう。誰のことだろう」と管理人が答えるような状況なのです。要するに、聖マリア・マグダレナの発言は相手が本当にイエズスではなかったとしたら、かなり不思議に聞こえたでしょう。同時に、この発言は、聖マリア・マグダレナの霊魂にある熱心をも示すのです。

それから、私たちの主はご自分の正体を気づかせてあげました。何によって気づかせてあげたかというと、「マリアム」とマリア・マグダレナの名で声をかけ給うたのです。その時マリア・マグダレナは、主の正体を分かりました。そういえば、私たちの主は「私たちの羊はこの声を聞き分け、私に従い、私も彼らを知っている」 と仰せになった通りです。
私たちの主の声が聖マリア・マグダレナの耳に入って、心を刺しました。「マリアム」 と仰せになったからです。それを聞いたマリア・マグダレナの心は喜びに溢れて、私たちの主の足元まで飛び出してひれ伏しました。でも、私たちの主が「私を引きとめるな」 と仰せになります。なぜかというと、もう「栄光の身体」になったから、マリア・マグダレナへ「物質的ではない霊的な新しい命をもって生きてほしい」というような意味がこめられています。(それから「兄弟たちの所に行き、<私の父またあなたたちの父、私の天主またあなたたちの天主の許に私は昇る>と言いなさい」 。)

以上、御覧の通り、ご復活した私たちの主は、聖なる婦人の前と聖マリア・マグダレナの前に現れました。
つまり、使徒らの前ではなく、聖なる婦人たちの前に現れ給ったのです。なぜかというと、聖なる婦人たちの愛徳の方がより熱心だったからです。彼女たちと違って、使徒たちは信じなかったからです。恐れで一杯で、チェナクルムに引きこもったままでした。


それから、福音書に記されていないもう一つの出来事があります。聖伝により、使徒たちから現代まで伝わった出来事ですけど、「私たちの主が第一に現れた方は聖なる御母だった」ということです。確かに尤も相応しいことだし、美しいことです。容易に理解できるでしょう。

一度も、一瞬も、聖母の信仰は揺るいだことのないお方なのですから、御子に約束されたご復活に対する信仰は揺るがされたことは全くなかったお方ですから。従って、私たちの主は、第一に、聖母の前に現れるのは一番相応しかったことだったと言えます。さらに言うと、いとも童貞なる聖母こそは、格別に神秘的に私たちの主の贖罪の玄義を共にされた御方なのです。以前にご紹介したように、私たちの主はご自分の贖罪の元に聖母がともにすることになさったのです。また、十字架上の私たちの主の御苦しみを共にして、十字架の許にいとも童貞なる聖母は苦しまれました。そして、御母の苦しまれたことを、人類救済のために価値のあることにするために、私たちの主は御母をご自分の贖罪の玄義を共にさせることをされました。



従って、教義とはなっていないけれども、贖罪の玄義における聖母とイエズス・キリストとの特別な絆の故に、いとも童貞なる聖母を「共贖者」と呼んでいます。そして、こういった絆があったからこそ、きっと、私たちの主は、御母の前に、第一最初に現れ給ったでしょう。それは、聖母の信徳と望徳とを報いるためでした。また、より溢れる愛徳を与えるためでもありました。その後に、聖なる婦人の前にも現れ給います。そして、聖なる婦人の前に現れてから初めて、弟子たちの前にもつぎつぎと現れ給うたのです。

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