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品級の秘蹟は救霊の秘蹟|主が司祭に託された権能、叙階の条件とは?

2021年05月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十五講 品級の秘蹟について



品級の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

さて、最後の秘蹟を見ていきましょう。品級の秘蹟であって、我らの主、イエズス・キリストが制定なさった秘蹟のなかでも素晴らしい秘蹟です。品級という秘蹟を通じて、我らの主、イエズス・キリストは人々をお選びになって召命したまい、司祭と成し給うのです。司祭の叙階というのはイエズス・キリストの代理者を任命し給うという意味です。言いかえると、司祭は地上においてイエズス・キリストの代わりに代理人として任命される人々なのです。我らの主はご自分の全ての権能を司祭たちに託し給うのです。これが品級の秘蹟なのです。

品級の秘蹟によって、聖職や司祭の義務を果たすための権能、それからこれらの使命を正しく果たすための恩寵が与えられます。
品級の秘蹟によって、我らの主は地上の特定の人々を選び出し給い、イエズス・キリストの代表者として、代理人として、イエズス・キリストご自身のみ名において、そしてイエズス・キリストの全権能を託し給い、この世に働くために品級の秘蹟を制定なさいました。

これが品級の秘蹟なのです。ここの品級はまたラテン語で「Ordo」で、秩序という意味もあって、つまり、秩序づけるという意味も色濃く出ています。言いかえると、各々の物事を各々の相応しい場にあるように努めること、これこそがまさに「品級」や秩序の役割です。そもそもの「秩序づける」という意味は、「それぞれの物事をそれぞれの目的地に向かわせて導き出す」という意味です。

要するに、「秩序づける」とは、品級の秘蹟のお陰で、司祭たちは霊魂たちを自分の目的地にたどり着くように導いていくという意味ということです。そして、霊魂の目的地は天国です。言いかえると霊魂の救霊を助けるのが司祭職なのです。
つまり、品級の秘蹟は救霊の秘蹟といえます。品級の秘蹟のお陰で、司祭たちは霊魂たちに救霊を与える秘跡となるのです。当然といえば当然です。


というのも、御(ご)聖体をお配りする司祭は天主ご自身を与えるということになるので、永遠の命である天主を与えるということであり、つまり救霊を与えることになるということです。思い出しましょう。御聖体の秘蹟は永遠の命の保証となるような秘蹟だからです。

また同じように司祭はお赦しの言葉を与えますがこれは、言いかえると、イエズス・キリストの御名において大罪を赦すという秘蹟です。つまり、救霊である聖寵を改めて与える秘蹟となるのです。同じように、終油の秘蹟を授ける時、最期を迎える信徒に救霊を与える秘蹟なのです。
要するに洗礼からはじまるすべての秘蹟はそもそも救霊を与えるために存在します。そして、品級の秘蹟のお陰で、他の秘蹟を授けられるようになるという意味で、品級は「救霊の秘蹟」なのです。

品級の秘蹟は他の秘蹟と同じように、我らの主、イエズス・キリストによって制定されました。トレント公会議は十分にこれを再断言しました。
そして、福音において我らの主は品級の秘蹟を明白に制定なさいました。最後の晩餐の時です。イエズス・キリストは使徒たちに向けて、「これを行え」と仰せになります。つまり、イエズス・キリストは使徒に命令を下します。そして行動せよ、「行え」という命令となります。

我らの主が使徒に与えた権能は本物の権能です。この権能はミサをもう一度行うことができる力をイエズス・キリストは使徒に与え給いました。ミサを再現する権能です。言いかえると、最後の晩餐の際、イエズス・キリストより、司祭たちはミサ聖祭を執り行い、再現する力を預かりました。「これを行え」と我らの主が仰せになりました。

我らの主は「これを記念せよ」とはあえて仰せにならないで、「これを行え」と仰せになられました。つまり、「私の記念のために、今の生贄をまた行え」ということです。ですから、イエズス・キリストは明白に記念することを命令するのではなくて、この犠牲を改めて執り行うように命令なさったのです。「記念せよ」と勝手に解釈するのはプロテスタントですが、福音書の原文に照らしても誤りですし、聖伝に照らしても誤りです。



それから、我らの主は福音の別の場面に、使徒に授洗する権能を与えて、授洗するように命じられました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ、28、19-20)
また使徒たちに直接、罪を赦す権能をも我らの主が与えられました。
「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人にはゆるされない。」(ヨハネ、20、23)

以上のような場面において、イエズス・キリストは使徒たちに品級の権能を与え給うたことを明白に示し給いました。

品級の権能には位階制があります。つまり、司祭になるために、いくつかの段階を登らなければならないのです。
最初の段階は「カトリック教会」という位階制の社会に入る段階です。入会する段階です。カトリック教会は完全な社会であり、他の社会から別にある社会であり、世俗社会に依存しないで、自ずから社会のすべての要素を持ち、成り立つ社会なのです。そして、教会という社会の構成員は「聖職者」と呼ばれる人々です。

たとえてみましょう。国家は完全なる社会であるとされています。ある国家には国籍を持っている人々がありますね。フランスならフランス人がいて、日本なら日本人がいます。このように、世俗社会ではないのですが、霊的かつ超自然なる完全な社会である教会も国籍のような「戸籍」の人々があります。受洗者はもちろん、カトリック教会の構成員となります。そして、その上、カトリック教会に「入籍」する人々は、つまり、法律上もカトリック教会の法律の管轄にある人々もいます。「聖職者」と呼ばれる人々です。

聖職者というのはカトリック教会に入籍する人を指します。カトリック教会に入籍するために、剃髪式という儀礼があります。剃髪された人は聖職者となって、つまりカトリック教会に入籍しているということで、完全に教会の法律の管轄に移る人となります。
それから、司祭職までに、いくつかの段階があります。このように、剃髪された聖職者は少しずつ昇級していって、素晴らしい司祭職に近づいていきます。これが品級の秘蹟です。つまり、上下関係があって、位階制のある品級の秘蹟です。

まず、下級四段があります。最初の四つの段階ですね。第一、守門の段があります。守門の段に就いたら、鐘を鳴らす権能が与えられます。そして、この段の名前が示すように、教会にいることが相応しくない人々を教会から追い出す仕事もあります。第二の下級の段は読師です。この段に就いたら、聖職者は儀礼の際に信徒たちのために聖書などを朗読する権能が与えられます。第三の下級の段は祓魔師です。

ご覧のように、段ずつにミサ聖祭に近づいていくようにされています。というのも、司祭職のすべて、いやすべてはミサ聖祭を中心にしているからです。祓魔師の段に就くと、悪魔などを祓う権能が与えられていますが、この段についても、「制限付き」の権能であって、上司の許可なしに悪魔を祓うことはできません。そして、第四の下級の段は侍祭です。侍祭の段に就いたら、聖職者は聖壇まで、ミサ聖祭の質料(パンと葡萄酒の小瓶)を持っていく権能が与えられています。

このように、段ずつに聖壇に近づいていきます。「門」から聖域の辺境のある「朗読壇」へ、ミサ聖祭を始めるため、聖壇の階段の下に行くための悪魔祓い、それから、聖祭を助けるために祭壇のすぐ近くまでパンと葡萄酒を持っていく侍祭という段階がありますね。

以上は下級の四段です。剃髪者、それから下級の四段の聖職者たちはスータン(法衣)を着用する特権があります。現代は、スータンの着用の義務は免除されて、残念ながら弊害が多いです。というのも、司祭は地上においての天主の代理人たる人になるので、この司祭職を外面的にも示す必要があります。イエズス・キリストは人々にご自分を公に表し給ったように、司祭も公に常に人々に自分の司祭職を示す義務があります。スータンはいつも着用する法衣で、儀礼の際、スータンの上に、サープリスと呼ばれる白衣を着用するのです。

それから、上級三段があります。司祭職自体は上級の第三段であって、それを準備するために第一と第二の段があります。
上級の第一段は副助祭であり、第二段は助祭です。



副助祭に就くと、取り消しのできない決定的な約束が聖職者によってなされます。副助祭の段に就くと、祭壇へ決定的に近づいていく、司祭職への予備段なのです。同時に、副助祭の段に就くと、永続的な貞節と独身生活を送る義務が出てきます。つまり、副助祭は永続的な独身生活を送ることを誓います。副助祭以上の段に就くと、もはや結婚することはできません。副助祭になるために、独身生活を送る誓いをしなければならないということです。

また、副助祭の段に就くと、毎日の聖務日課を唱える義務もあります。しない場合、副助祭の大罪となります。聖務日課というのは、我らの主、イエズス・キリストが祈っておられた祈祷を続けるということなのです。つまり、上級の段から、聖務日課を唱えることになりますが、副助祭、助祭、司祭は聖務日課を祈る時、我らの主の名において、お祈りするという意味となります。聖務日課はイエズス・キリストが祈っておられた祈りとして、カトリック教会の祈祷中の祈祷で、至上の効果を伴う祈祷なのです。

以上の義務の他、副助祭の段に就くと、祭壇のより近くにいる栄光を持つのです。それを表すため、儀礼の際、副助祭服を着用する特権もあります。
そして、ミサ聖祭の時、副助祭は水の一滴を聖杯に注ぐのです。つまり、小瓶を持っていく侍祭よりも一歩先にミサ聖祭の中心に近づいていきます。副助祭は水の一滴を聖杯に注ぐのです。この水の一滴は何を象徴するでしょうか?すべての信徒たちの生贄を我らの主の生贄に合わせて一致することを象徴する儀式なのです。

また、副助祭はミサ聖祭の間、書簡を詠う権能もあります。最後に、副助祭はミサ聖祭の間、司祭を助けるのです。
上級の第二の段は、助祭なのです。副助祭より上です。司祭職の一段前の重要な段です。助祭も副助祭と同じように、儀礼の間、助祭服を着用します。副助祭の義務を引き継いで、永続の独身生活と聖務日課があります。



助祭はミサ聖祭の奉献の部の時、司祭と一緒に聖杯とパテナ(聖皿)を献げるのです。それから、助祭は説教する権能もあります。また、福音を詠う権能もあります。それから、司祭の許可で、聖体をお配りする権能もあります。また、助祭は荘厳に洗礼を授ける権能もあります。以上は助祭の権能でした。儀礼の時、助祭はスータンとサープリスを着用する上、斜めに結ばれているストラをも着用しています。左肩からストラが垂れて、右腰に結ばれています。助祭です。

最後の段は司祭の段です。司祭職です。
司祭の祝別式によって、司祭となる聖職者は我らの主の代理人となり、この世での「代わりのイエズス・キリスト」となります。司祭職に就くと、生贄を捧げる権能があります。つまり、ミサ聖祭という聖なる生贄を捧げる権能を持ちます。また罪を赦す秘蹟をも授ける権能を持ちます。品級の秘蹟と堅振の秘蹟以外、すべての秘蹟を授ける権能があります。品級の秘蹟と堅振の秘蹟は司教のみ授けられます。

厳密に言うと、上級の第三段は二つの小段に分けられています。司祭職と司教職に分けられています。司教職は大司祭であるということで、司祭職を完全に持っている時、「司教」となります。ですから、司祭職と司教職は本質的に違うのではなくて、同じ段に属します。司教職に就くと、品級の秘蹟(神父を作ることですね)と堅振の秘蹟を授ける権能もあります。また、司教は聖杯、教会、聖壇、聖油、童貞などを祝別する権能をも持ちます。

その上、司教職になると、別次元の権能も追加されます。ここは要注意で、この追加の権能は司祭職に属する権能ではありません。司教になると、統治権、指導権もついてきます。ようするに、司教は第一、完全なる司祭職の権能を持ちます。そして、その傍に、司祭職に属しない別次元の「統治権」をも持っています。

この統治権は教える権威、指導する権威でもあります。この統治権は教皇から直接に与えられています。
言いかえると、この統治権によって、司教たちはカトリック教会の統治に参加することになります。言いかえると、司教は「教える教会」の一員となります。しかしながら、司祭の場合、統治権はないことから、「教える教会」の一員ではなく、教えられる教会の一員なのです。



以上の区別は要注意です。というのも、司教は事実上に司祭職の全権と重なって、統治権をも持っています。が、統治権は司祭職から来るのではありません。別次元にあって、統治権は上司(教皇)の意志によって与えられているのです。簡単に言うと、統治権はカトリック教会において統治する権威と権能なのです。

ですから、ある小教区の主任司祭には小教区において統治権がありますが、あくまでも司教に委任された形でその統治権を持っているということです。裏を返せば主任司祭の統治権を司教がいつでも取り戻せるということです。

助祭と司祭(司教職を含めて)の段では、秘蹟の質料は司教の按手なのです。
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それから、秘蹟の形相は按手しながら司教が唱える諸祈祷なのです。

品級の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。だれが品級の秘蹟を受けられるでしょうか?もちろん、洗礼以外の他の秘蹟と同じように、受洗者でなければなりません。洗礼は「秘蹟の門」です。それから、男性でなければなりません。女性は品級の秘蹟を受けることはできません。女性はこのような秘蹟を授かったとしても、無効の儀礼となります。統治権は男性専用のことである他、イエズス・キリストが明白に男性にのみ司祭職を授け給いました。

他に、教会法はいくつかの妨げなどを制定しています。
簡単に言うと、もう一点だけを紹介しましょう。受洗者であり、男性である上に、品級の秘蹟に与るためは、召命もなければなりません。召命とは天主によって召し出されるという意味です。我らの主は明らかに使徒に次のことを仰せになります。「あなたたちがわたしを選んだのではなく、私があなたたちを選んだ」(ヨハネ、15、16)。

召命は神秘でありますが、天主が直接にある霊魂を選び給い、呼びかけ給うというようなことです。
司祭職に就くには、もちろん、身体上の能力は前提になります。いわゆる、司祭職を体力的に耐えられる身体がなければなりません。また、善徳を実践する慣習は深く身につけている条件もあります。要は、良き風習がなければなりません。残念ながら最近、カトリック教会において多くの風習の問題が出ていて、どれほど弊害があり、どれほどカトリック教会の汚れになり、どれほど信徒にとっての悲劇であるか、計り知れないのです。

また、司祭職に就くには最小限の知性もなければなりません。というのも、司祭は信徒に福音を伝えて伝道して、「よき知らせ」を説教する役割もあります。また、信仰を広めるだけではなく、誤謬から信仰を守る義務も司祭にあります。ですから、知性上のある程度の能力も前提です。

以上の条件は、わかりやすい条件ですが、その上、天主の召命、つまり、天主よりの呼びかけで「行け」という命令もなければなりません。それは神秘的なことというか、というのも、天主は物質的にわれわれに話しかけることはそもそもありませんので、この召命を示すために、叙階式の時、司教はそれぞれの受戒者を呼び出す儀式があります。

具体的に言うと、「召命があるのでは?」と考えている男性はまず、司祭に相談を受けてもらうのがよいです。
以上は、手短に品級の秘蹟をご紹介しました。この素晴らしい秘蹟のお陰で、地上において「Alter Christus」は作られています。つまり、イエズス・キリストの代わりに司祭はおられ、永遠の命をもたらすため、救霊のための秘蹟を授けていって、福音を伝道させる素晴らしい秘蹟なのです。
これで、公教要理の本講座は終了といたします。


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