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私たちの主は使徒たちの前に現れる 【公教要理】第五十三講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年08月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十三講  贖罪の玄義・神学編・その七 私たちの主は使徒たちの前に現れる




よみがえった私たちの主は使徒たちの前に現れる


よみがえった私たちの主は、聖なる婦人たちの前に現れ給うた後、使徒たちの前に現れ給います。聖書によると、最初に現れたのは聖ペトロの前だったと記されています。聖ペトロの前にご出現したことについての証言は一ヶ所しかありません。なぜ最初に聖ペトロの前に現れ給ったかというと、聖ペトロが使徒たちの長であるからです。

【エンマウスの二人の弟子らに私たちの主が現れ給う】

次は、エンマウスの二人の弟子の前に現れ給いました。エンマウスの二人の弟子はエルサレムに滞在していたところから、エルサレムを去ったときに出現し給うたのです。エルサレムでの滞在はきっと使徒たちと一緒だったと思われます。チェナクルムに引きこもっていた使徒たちと一緒に何人かの親しい弟子たちもいたと思われますから。そして、エンマウス出身の二人の弟子がエルサレムを去ることになり、エンマウスへ旅立つのです。エンマウスの方向は、エルサレムの北西の方にあります。エルサレムから徒歩で半日・一日ぐらいかかると言えましょう。それで、エンマウスの二人の弟子は、憂いつつエンマウスへ出発します。

福音書の文章によると、二人の弟子の心は非常な悲しみで重かったということが伝わります。この場面を描写する形容詞を見ると、心の重さが特に強調されています。御存じのように、私たちの主は二人の弟子たちの前に現れ給いますが、「彼らの目はさえぎられてイエズスを認めることができなかった」 のです。要するに、二人の弟子たちは主を認めないまま、イエズスであることが分からないまま、悲しんでいます。私たちの主イエズス・キリストとずっと一緒に過ごしていたし、イエズスの起こされた奇跡をも多く目撃してきたし、イエズスが天主であるが故に、二人の弟子はイエズスに憧れ切って驚嘆し続け、本当に素直な心でイエズス・キリストを信じ続けた二人の弟子なのです。

しかしながら、3日前に私たちの主は亡くなられてしまったのです。まあ、この朝、婦人からの不思議な知らせが確かにあったのですが、「婦人の噂を信頼するわけにはいかない」と思われ、あまり気にしなかったのでしょう。だから、悲しみに沈んでいるまま、悲嘆に暮れて出発しました。その時、私たちの主が二人の弟子の前に、奇跡的に現れ給ったのです。しかし最初は誰なのか分からないままでした。



イエズス・キリストがまず彼らに声をかけたまいました。「あなたたちは歩きながら何を話し合っているのか」 と。「かれらは悲しげなようすで足を止めた」 。
「クレオパと言われる一人は「エルサレムにおられたのに、あなただけが、このごろそこで起こったことをご存じないのですか」といった。「どんなことか」とイエズスが問われたので答えた。」  
次のことですね。「ナザレトのイエズスのことです。その方は、天主とすべての人々の前に、行いにおいてもことばにおいても力ある預言者でしたが、私たちの司祭とかしらたちが、死刑にしようとその方を引き渡し、十字架につけました。私たちは、イスラエルを救うのはその方であろうと望みをかけていました。なお、そのことが起こって今日でもう三日めです。」
つづいて、弟子が言い加えます。「ところが私たちは、仲間のある婦人たちに驚かされました。その婦人たちが朝早く墓に行きますと、死体が見当たらず、そのうえ天使たちが現れ、イエズスは生きておられると告げたと言って帰ってきました。私たちの仲間のある人々が墓に行ってみますと、婦人たちが言ったとおりでしたが、イエズスは見えませんでした」 。
だから、二人の弟子が悲しんでいました。
「すると、イエズスは、「ああ、預言者たちの言ったすべてのことを信ずるに鈍い愚かな者たちよ。」」  確かに、イエズスが目の前にいるのに、預言を信じすらしなかったのですね。

続いて、イエズス・キリストが、二人の弟子に、聖書の解説を丁寧に美しく説明してくださいます。旧約聖書の預言やそれからすべての奇跡と前兆を取り上げて、ご自分が公生活の際に、それらすべてを実現させたということを説明し紹介なさいます。要するに、正当なことに二人の弟子が信じたイエズス・キリストは実際に旧約聖書のすべての予言と前兆を実現させて果たしたということを思いおこさせてくださいます。その際、聖書に織り込まれている神秘のすべてのことを明らかにさせて二人の弟子に垂訓なさいます。残念ながら、この聖書の解説についての授業ともいうべきこの垂訓の詳細は福音書に記されていません。なにか、私たちの主ご自身による聖書の解説講演なんて聞きたくなりますね。どれほど素晴らしい解説だったでしょう。きっと、われわれがとんでもない苦労した挙句に何とか聖書に見いだせる諸真理を一つ一つ イエズス・キリストはあっさり教訓なさったのでしょう。

それから、目的地のエンマウス村に近づいたら「イエズスが先に進みいかれるようすだったので、彼らはしいて止め」 、二人は主に晩御飯を一緒にするようにと誘ってみました。イエズスであることは分からないままでした。それから、私たちの主は二人の弟子の家で晩御飯を共になさるのですが、「イエズスはパンを取り、祝福をとなえ、それを裂き、彼らに与えられた」
それを見た暁にいよいよ「二人の目が開きそれがイエズスであったと悟ったとき、イエズスは彼らの前から姿を消された」
つまり、二人の弟子がイエズスであることを分かった瞬間に、かれらの信仰は新たに燃え上がっているかのように、信仰は新たに輝かしい光となって、イエズスがもう実際に傍にいる必要がなくなりました。もう弟子たちは光を心に持っているので、信仰を持っているので、主は姿を消されます。

続いて、弟子たちは何といったでしょうか。「途中で聖書を説明された時、私たちの心は中で燃えていたのではないか」 と言い合った。

以上は、エンマウスの二人の弟子の前に私たちの主がどうやって現れ給ったかをご紹介しました。
以上のご出現には特に驚嘆すべき点があります。弟子たちは悲しみに沈んでいるという点です。つまり、イエズスに対して彼らはゆるしがたい態度になっていたということです。信仰を失っていたと言えます。愚かな者でもないし、馬鹿な者でもないし、正気を失って、冷静でいられなくなった二人でもないから、いわゆる、気まぐれで思いついた偽りの証言を言うような状態では全くない二人です。これほど悲しんでいたので、二人とも絶望に陥っているところでした。絶望という状態に陥ったら、快く物事を見受けることは到底あり得ません。逆に言うと、なにもかも負の側面ばっかり物事を見受ける傾向があります。だからこそ、それほど長く、イエズスがいても認めることはできませんでした。その悲しみによってこそ、エンマウスの二人の弟子の証言をより強くして、より信憑性を与えるのです。非常に悲しんでいたから、弟子たちの証言がより根拠づけられているということです。

そして、二人はどうするでしょうか。当然、すぐさまにエルサレムに急いで戻りました。11人の使徒たちの許に行くと、「本当に主はよみがえられてシモンに出現された」 と言われます。


【私たちの主は、チェナクルムで使徒たちの前に出現される】


次の私たちの主の出現は、チェナクルムで使徒たちの前です。ご復活の日の夕方ぐらいの時でした。使徒たちは集まっていて、晩御飯を取るところでしたが、「戸は閉じてあったのにイエズスが来られた」 というふうに福音書に強調されています。戸が閉じているのに、入れたということで、イエズス・キリストが天主であることのもう一つの証明です。

そして、「あなたたちに平和」 とイエズスが使徒たちに仰せになりました。ご復活後の使徒たちへの最初の御言葉は「あなたたちに平和」なのです。というのも、平和を失っていた使徒たちでした。もう、熱心な信仰を失っていたからです。で、「あなたたちに平和」と仰せになりました。「Pax Vobis」。父が私を送られたように、私もあなたたちを送る と続いて仰せになりました。使徒たちは黙ったままです。もちろん、イエズスであることをわかりました。私たちの主を直視して、彼らの信仰があらためて燃え上がります。

続いて、私たちの主は、たしかにご自分であることを確かめさせました。どうやって確かめさせたでしょうか。ご自分の御傷を見せ給うのです。この場面をみて、「栄光の身体」の一つの特性である「輝き」を出現の際に持たないことになさった理由はそこにあります。つまり、よみがえった身体も本当のそのままのご自分のご身体であることを使徒たちに示すためでした。「本当に私の身体だよ。脇の傷を見なさい。足の傷と手の傷もあるよ。触ってもよい。私をみて。一緒にご飯を食べてあげるから」と言わんばかりに。

それから、私たちの主は、使徒たちと一緒にご飯を取ります。それも大事です。つまり、食べられるというのは、単なるうわべとか姿ではなく、本物の体であるということで、それを示すために、一緒にご飯を取ってくださいました。その上に、使徒たちがお身体を触ることもできました。どれほど使徒たちが喜び溢れたか想像に難くないでしょう。

そして、ご飯が終わると、私たちの主は消えました。ところが、一人の使徒が出現の時に不在でした。聖トマでした。「疑い深い」聖トマと呼ばれているが、まさにそうなのです。この場面もなかなか大事なのです。聖トマにとって、イエズスが目の前に現れてもそれほど疑うというのは、確かにかなり恥じることでしょうけど、その分に、ご復活の真実性をより強く裏付ける証言なのです。つまり、使徒たちでさえ、ご復活を信じようとしなかったのです。いや、信じうることでさえ彼らにとって論外でした。使徒たちにとって、主の死で、もうすべて終わっていたと信じ込んでいたのです。「疑い深い」の聖トマの場面は、ご復活に対する疑いが使徒たちの内にかなりあったということを示す場面です。


【ご復活に対する使徒たちの疑いは、主のご復活を証明し裏付ける】


つまり、主が墓に葬られてから、使徒たちが何か企んで、「よみがえったことにするために、どうすればよいか」といったような捏造は一切あり得なかったということをこの場面とその他の場面で確認できます。いや、逆に、最初から、使徒たちでさえ、ご復活を信じていなかったのです。信じようともしなかったのです。疑ったのです。まず、婦人たちの証言を全く疑って信じませんでした。それから、エンマウスの二人の弟子は悲しんでいました。つまり、ご復活は彼らにとって論外だったということを表す悲しみなのです。使徒たちが集まっても悲しんでばかりいました。

イエズスが現れたが、聖トマが不在で、聖トマが戻ったら、他の使徒たちが「主がよみがえったよ!」と知らせましたね。聖トマが笑わんばかりに「違うだろう、ふざけないで、無理だ」と言わんばかりに。「いや、実際にこの指で傷に触れない限り、この手で脇の傷を触れないかぎり、あなたたちの言うことを信じないぞ」という感じですね。

要するに、幾つかの場面で見取れる使徒たちの心の底にあるご復活に対する疑い深さこそは、私たちの主のご復活をより立派に証明し裏付けて示すのです。捏造されたことではないということを証明します。というのも「ご復活の場面」はかなり使徒たちの負の側面を表すわけだから、とうていこういったふうに捏造することはあり得ないからです。従って、これらの悲しみや疑いのおかげで、福音書の証言をより強くして、確立させます


【復活の一週間後、もう一度、使徒たちに主が現れ給う】

続いて、一週間後、もう一度、使徒たちの中に私たちの主が現れ給いました。今回は、聖トマがいました。一回目と同じように、「あなたたちに平和」と仰せになりました。「Pax Vobis」 。聖マルコによると「復活を見た人たちの話を信じなかった彼らの不信仰と頑固を咎められた」 とあります。

繰り返し申し上げますが、信徒たちにとって、なかなか恥ずかしい話ばっかりでしょう。その分、福音にあるご復活などは、捏造がありえないことを裏付けるような醜い使徒たちのようすだと言えます。もし捏造されたと想定されたら、福音書のすべてがこういった想定に逆らってばかりいます。また次回に、ご紹介しますが、ご復活は捏造され得なかったのです。

そして、使徒たちの中に私たちの主が現れ給い、「あなたたちに平和」と仰せになりました。
想像してください。そこにいた聖トマが主を直視します。唖然とね。主を認めた時に、恥じて恥じて部屋の隅っこに隠れて目立たないようにしただろうということは想像に難くないですね。他の使徒たちはイエズスを一週間前に見ていたからもう信じていましたが、疑い深い聖トマは疑い続けました。他の使徒たちは、聖トマへ目をやって「ほら、見たかい」と言わんばかりに。で、聖トマは目で答えて「お願い、目立たないように庇って!」何か「はい!わかった! 信じるよ」と言わんばかりにしていました。

ところが、私たちの主は心を貫く天主で、聖トマを見てすぐわかったのです。聖トマはもしかしたら「お願い、お願い、怒らないでください。何もいわれなきゃいいのに」と思ったかもしれません。
ところが、私たちの主は「トマ、おいで」と合図されます。想像してみると聖トマは可哀そうですね。恐る恐る近寄る聖トマ。
私たちの主は聖トマに「さあ、ここにおいで」と。この場面は、まさに私たちの主は心のすべてを読み取れる力があることをも示します。
「あなたの指をここに出して私の手を見なさい。あなたの手を出して私の脇に置きなさい。」 と仰せになりました。明白でしょう。その前に、使徒たちに「私はその手にくぎの跡を見、私の指をそのくぎの跡に入れその脇に入れるまで、私は信じません」と言った聖トマですよ。私たちの主は、そう言ったことをそのまま貫いて触らせます。
聖トマはそうしなくても、私たちの主のもとに伏して「私の主、私の天主」 といいました。信仰宣言です。「私の主、私の天主」 と、私たちの主は「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」 と仰せになりました。以上、私たちの主のご復活の幾つかの実りを見取りました。



以上を見る時に、大事なのは、ご復活はどれほど使徒たちの予想外のことだったかということを念頭に置くということです。使徒たちはどうしても信じられなくて、最後まで信じませんでした。
その分、ご復活の歴史性、実際に合った事実であるということが、より強く立派に裏付けられます
その分、カトリック信仰はさらにより強く根拠づけられます


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