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新しいミサ(パウロ六世のミサ)について 【その2】

2021年03月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十講 新しいミサについて



新しいミサについて
Gabriel Billecocq神父

さて、新しいミサについて、手短に具体的にご紹介しました。欠陥だらけのミサです。なぜでしょうか? まず、変更箇所は数えきれないほど多いです。また、朗読と大声での言葉は過剰に重視されています。それよりも、少しずつでしたが、いくつかの重要な現実を取り消して、その代わりに他のことを重視するような典礼になっていきました。つまり、贖罪などの教義を隠すかのようにされていて、その代わりに教義でもないことを過剰に示している典礼となっています。これこそ、新しい典礼の根本的な問題です。

例えば、罪に関する教義を見ましょう。司祭が罪人である事実を想起する儀礼は聖伝ミサにおいて多々あります。多くの清め、告白も、祈祷も、自分を咎める祈祷もいっぱいあります。一番目立つのは、階段祈祷でしょう。階段祈祷はさらに信徒も罪人であることを認めて、赦しを願うわけです。

これらのすべての祈祷は取り消されたか(階段祈祷がそうなのですが)、見えないようにされたか、少しずつ、なくされてきました。
また同じように、霊的な戦いの意義と促進を表す儀礼と祈祷も聖伝ミサにおいて多々ありました。が、新しいミサはもはやこのような戦闘精神は消えました。

例えば、1969年の段階だけでも、告白は残っているものの、天主の赦しの儀礼は取り消されました。なんか、許されなくても良いかという印象をあたえるような。階段祈祷の時、司祭がお辞儀しながら告白して、お赦しを願うのですが、これらの儀礼なども取り消されました。また、奉献の部のところ、「Suscipe Sancte Pater(聖なる父、全能永遠の神、不肖の下僕である私が、活けるまことの神にささげるこの汚れなきホスチアを受け入れ給え)」という祈祷も取り消されました。ここで、司祭は自分が非常に罪人であることを認めているのですが、それも取り消されました。また、現世利益とこの世を侮蔑する祈祷もすべて取り消されました。また、霊的な戦いに関するすべての祈祷も取り消されました。

また贖罪についてはもはや何も言われていません。つまり、十字架上の生贄によって全人類が贖われたということを曖昧にさせて、もはや贖罪はなくなって、「救済」という言葉を使うのは殆どなくなりました。

いとも処女なる聖母マリアの永遠の童貞性に関する祈祷なども取り消されました。諸聖人の通功に関するすべても取り消されました。王たるキリストとして、キリストの王としての統治も完全に取り消されました。地獄と天国、つまりあの世での我々の目的地についてのことも完全に取り消されました。周知のように、死者に関する典礼や祈祷も大幅に変更させられてしまいました。

そういえば、死者のための典礼は新しい典礼を指して「もはや埋葬ではなく、天葬だ」とからかわれることがあります。つまり、死者のために祈らなくても良いような典礼となっていて、煉獄なども完全に取り消されて、地獄に対するもっともな心配を慰める祈祷などもすべて取り消されました。その代わりにあえて言えば「ばかばかしく優しい神」という誤った印象が与えられています。それは深刻です。天主を侮辱するようなことですから、また、もはやその侮辱すること自体がわからなくなったら、天主はなんであるかを全く理解しなくなっているということを意味します。
以上のような典礼の変更のせいで、結局、このように信仰も変わります。
ある祈祷を取り消して、ある動作を取り消して、ある儀礼を取り消すと、このように信仰は変わるのです。



現在、新しいミサを見たら一瞬で感じることです。ミサの構成は不安定で乱れていて、二週間の間でも変わることがなくはありません。また、祈りは全くなくなっていて、長い「騒音」になっています。うるさくて黙想もできない、祈ることもできないという信じられない状況にあります。

私はパリの中心にあるSaintNicolas du Chardonnet(サン・ニコラ・シャルドネ)教会に任命されていますが、聖伝ミサが初めての方が、頻繁にいらっしゃいます。ときどき、本当にいきなり、教会の前を通行していたら興味をもったので、さりげなく入って見たという方もいます。すると、皆さん、最初の印象はおなじです。「ここは黙想に耽っているなあ、祈っている空気、聖域に入った感覚、天主の実存を感じる場所」といったようコメントばかりです。

このような印象は感動でも感情でも関係ありません。信仰は感情ではないからですが、単純に聖伝ミサのすべては、聖伝ミサの一つ一つの言葉と動作まで、万象の主である天主、全能永遠なる天主、創造主なる天主を外的に表しているからだけに過ぎません。

聖伝の生贄、ミサ聖祭の典礼のもう一つの立派なところは、天主の恩寵を得るためにどれほどわれわれは罪人であること、卑劣であること、そしてどれほど平伏してつつしんで、天主のみ前に出なければならないという必要性を強く教える典礼であるということです。また、どれほど強く救霊を得るために戦う必要があるということです。これらの根本的な要素が取り消されたのは非常にひどいことです。犯罪的なことです。

また、新しいミサでは「信徒の参加を増やす」という方針の下に行われたのですが、その裏で、「司祭」を貶(おとし)めることになりました。司祭職の本当の意味を曖昧にさせて、なにか集会の司会だけをやっているかのような典礼になっています。



また新しいミサにおいては、もはや天主へではなく、信徒へ向かっています。天主に生贄を捧げるかどうか微妙になるほど信徒にむかっています。
それから、ホスチアを天主に捧げることではなくなって、「人間による労働の実り」を捧げるということになっています。言いかえると、超自然を捧げることではなくなって、自然次元なものだけを奉献することになります。

信徒の過剰な参加のせいで、本当に神父が生贄を捧げるか、あるいは信徒も生贄を捧げえるかということも微妙となってきます。
これらの典礼の変更のせいで、品級と司祭職についての教義が少しずつ変えられていきます。つまり、一般的な信徒も神父であるかのような印象を与えます。「信徒たちが共有する司祭職がある」という表現が第二ヴァチカン公会議以降に使われているのですが、非常に覚束ない曖昧な表現で、危険な表現で、信徒を惑わす表現です。



以上のような変更のせいで、一言でいうと、典礼の非神聖化が起きています。またラテン語の廃止と現地の言語の利用はまさにこの非神聖化を促進しました。また、一部だけではなく、ミサ典文まで訳されて、そして大声で読まれています。ミサ典文は小声で唱えられていたのにです。トレント公会議は小声で唱えるべきだと命令しているにもかかわらずです。

それに想像してください。神父が信徒たちに向かっているまま、よく集中しているままにいられるのは至難の業です。一番聖なる執り行いを実施しているのにです。
また新しいミサにおいて、信徒がよく神父に代わって聖体を配るのですが、これは天主に対する不敬を表しています。その結果よくある話ですが、御聖体が手から地面に落ちた時です。これは知り合いの神父様が目撃したことですが、そこの主任司祭は足で御聖体を踏んだという恐ろしい冒涜行為をやってしまいました。もちろん、どこでもそうはなってはいないかもしれませんが、数えきれないほどの恐ろしい結果の一つの例です。

それよりも一番恐ろしい変更は、秘跡としての生贄としての要素が取り消されたことです。思い出しましょう。ミサ聖祭は生贄でありますが、償いを得るための生贄であって、言いかえると、天主の我々に対するご好意を得るための生贄です。つまり、罪のせいで天主は人間に対して怒っておられます。憤怒しておられます。



肉体になり給えり、十字架上の生贄を捧げたイエズス・キリストのみ、天主の怒りを鎮めることができます。だからこそ、毎日、我々カトリックはミサ聖祭を捧げることになっています。十字架上の生贄の再現なので、同じ効果をもたらして、天主の怒りが静まるように希い奉って、我々の罪へのご慈悲が得られるようにミサ聖祭を執り行うわけです。

新しいミサにおいては、以上のようなすべての要素は取り消されたのです。つまり、罪はそれほど深刻ではないかのように、どうでもいいかのようにされてしまい、また天主にとっても罪はどうでもいいかのようにされているという恐ろしい状況です。

信徒のかたから聞いた話ですが、新しいミサの神父様に罪について聞いたら、このように答えられたそうです。「罪って?どうでもいいよ。神にとってどうでもいいから、神は罪なんて構わない」という答えがあったようです。なんて天主に対して不敬であり、信徒に対して惑わすことになるのでしょう。このような信じられない返答があり得るのも、新しいミサの一つの結果だと言えます。聖伝ミサだと、罪は軽いものではないことがその内容でわかりますから。



また、新しいミサにおいては、奉献の部も完全に取り消されました。生贄を示すために非常に大事だったのに、また罪の償いのために奉献されることが強調されていて、内面的な献身と奉献も強調されていた部分なのに。すべては取り消されたのです。

贖罪と罪の償いという要素は殆ど完全に取り消されました。実は新しいミサのミサ典文も変更されていて、変えてはならぬカノンですら、なくなっていて、四つの文章があって、司祭が選べるということになっています。それに、実際においてそれ以上、カノンが変わることがあります。

それはともかく、新しいミサの第二のミサ典文において、一番短い文章になりますが、生贄・犠牲という単語自体が取り消されました。恐ろしいことです。そうなったとき、どうなったかということです。もはや犠牲ではなくなって、普通の食事、ちょっとした記念に過ぎなくなります。

あと、聖変化の祈祷は大声で唱えられて、記念であるかのように唱えられるようになっているので、聖なる典礼の中心中の中心的な執り行いという性格を失うかのように、もはや記念となっています。
聖伝ミサなら、聖変化の時、一旦沈黙して、体を慎み深く傾けて、聖変化の祈祷を小声で唱えてから、沈黙して跪いて、それから御聖体を取り上げますが、その差は歴然でしょう。また、聖変化の祈祷を唱えるのは司祭自身です。司祭だけです。昔の話を語るのではなく、十字架上の生贄を再現するということです。つまり、聖変化の祈祷の内、確かに記念する部分がありますが、聖伝ミサでは、記念の部分が終わったら一旦止まって、沈黙して、身体の態勢をも変えてそして聖変化へ入ります。つまり「いまはもう記念ではなく、再現だよ」と典礼が叫びます。

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残念ながら、新しいミサにおいて聖変化になっても「叙唱」の口調は維持されています。特に何もおきていないかのようにされています。聖変化であるのに!司祭たちはおそらくあまり教わっていないと思われるのでしょうがないかもしれません。神学校では何を教えているかわかりません。

また新しいミサにおいて、我らの主のご現存を強調し、表す動作と儀礼などは非常に少なくなってしまいました。例えば、跪(ひざまず)きの数は殆どなくなっています。司祭の手指も重要でなくなったのです。ご存じのように、聖伝ミサでは、御聖体に触れた司祭の指先をこのようにくっついているままにして、清めてから初めて離れてもよいとなっています。御聖体に触れたので、清めない限り、何も触れてはいけないことになっているからです。ですから、聖変化のあと、このように摘まみの姿勢のままに司祭がミサを続けるのです。これも取り消されました。また指の清めの儀礼も取り消されました。

また、聖杯あるいは聖皿、つまり御血と御体に触れる聖具は本来ならば金属にならなければなりません。天主なので、なるべく貴重なものではなくてはならないと。でも今では何でもつまらない器でもよいわけです。
また、聖器(聖杯とパテナ)の清めの儀式も取り消されました。聖杯を覆うため(御血の中に何も落ちないようにするため)パラという聖具も取り消されました。聖壇の祝別も取り消されました。聖壇に布かれるべき、三重の祭壇布も取り消されました。本当に恐ろしいことです。何も残っていません。聖職者の貴重性を象徴する荘厳性も殆どなくなりました。

以上のように、新しいミサはプロテスタント的なミサとそっくりです。プロテスタントは「カトリックの新しいミサに参列してもよい」といっているほどです。またルターを引用しましょう。
「(カトリックを潰す)目的をなるべくかならず達成するために、古いミサの幾つかの儀礼を維持せよ。そうすれば、急な変更によって憤怒しそうな信者は文句を言わないだろう。」

信じられないのですが、これがなんと20世紀後半になって実現されました。新しいミサにおいて、もはや聖なることは何も残っていません。そして、そのせいで教義、信仰も損なわれています。これは悲劇的なことです。ミサを変えることによって、信仰を変えることになりました。要するに、新しいミサに行くと、信仰を危険に晒すということになります。必ず。新しいミサに与ると、信仰を失う可能性が高いということです。

で、悲しい現象であり、また、面白い現象でもありますが、この典礼改革の一つの言い訳は「一般人に合わせるため」だということでしたが、数年で教会は空っぽとなりました。これは必然的な結果です。今の「信徒」は尊敬も畏敬も畏怖も抱いていないのです。聖なることなんてどうでもよくなっています。教義と信条なんてどうでもよくなっています。



新しいミサに行っている信徒のかたに、試しに聞いてみてください。「信仰と教義について殆どしらない。」「地獄なんてしらない。」「地獄は空っぽだろう」といわれるかもしれません。煉獄については「それはなに?」でしょう。
また教義だけではなく、道徳についても聞いてください。新しいミサに与る信徒のかたに、堕胎や避妊などについて意見を聞いてみてください。また貞節に関することを聞いてみてください。

新しいミサの神聖性を最少限にしたせいで、信仰を非常に弱めたということです。裏を返せば、最初は信仰が強くても、新しいミサに行くと信仰を守れない、信仰を失って行くしかありません。ですから、新しいミサに与ってはいけません。ですから、もしも、ある信徒がその近辺に新しいミサしかないから、どうするかと迷っていたら、簡単です。ミサに行かないことです。その場合ミサに行く義務は免除されているからです。ミサに与る義務は信仰を守るためにあるからです。新しいミサに行くと、信仰を失って行くから、信仰を危険に晒すことは非常にだめなことです。この場合、ミサに行かなくても罪になりません。絶対に新しいミサに与ってはいけません。信仰が危険ですから。

ミサと信仰は密接につながっています。聖伝ミサに与ったら、信仰は強くなっていきます。正しいままなのです。



要するに、新しいミサとは冒涜そのものです。非神聖化そのものです。プロテスタント化そのものです。カトリック信徒なら、一切、新しいミサに与ってはいけません。無理です。

最後に、新しいミサに関する細かい分析に興味のある方は次の文書があります。一番よくできている新しいミサへの反駁だと思われます。
二人の枢機卿による文章です。戦闘の天使である大天使聖ミカエルの祝日、1969年9月29日に発表された文章です。Ottaviani(オッタビアーニ)枢機卿とBacci(バッチ)枢機卿による文章で、二人とも、当時のヴァチカン政府の主要な地位に立っていました。
「Bref examen critique(手短な批判的な検討)」。この文章は最適なのでお勧めします。比較的短い文章で読みやすいのでぜひともお勧めします。その文章は次のことを確認します。新しいミサは全体としても詳細においても聖伝ミサのカトリック神学から非常に遠ざかっていると。この文章をお勧めします。



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