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カトリックには、罰するためではなくて赦すための裁判所があります。そこでは憐みの判決しかなされません。

2021年04月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十一講 改悛の秘跡について



改悛の秘跡について
Gabriel Billecocq神父

さて、次の秘跡をご紹介しましょう。洗礼、堅信、ミサ聖祭の次に、改悛と呼ばれる秘跡をご紹介しましょう。
「改悛」といった時、一般的に二つのことを指すのです。第一、いわゆる改悛という徳を指すことがあります。悔い改める善徳ということで、例えば、旧約聖書においてヨナは天主のお言葉を預かり、ニネベの人々へ改悛をしなければニネベは破壊されると告げます。同じように我らの主、イエズス・キリストは我らの改悛を求めておられます。これは単純に悔い改める善徳ですが、もう一つ、秘跡を指す時の改悛もあります。

改悛という善徳は徳ですので一つの習慣ですが、自分が犯した罪を憎み、これらを糺すように頑張る習慣なのです。言いかえると、改悛という徳を実践するということは、自分が犯した罪を嫌って、何かの犠牲あるいは施しあるいは苦行などをもってこれらの罪を償おうとしていて、そしてできるだけの用意と努力をしてもう一度、罪を犯さないようにしておく徳です。

改悛の秘跡において、もちろん改悛の徳が含まれます。というのも、改悛という徳を実践しないかぎり、改悛の秘跡を効果的に受けることはできません。

改悛という秘跡は秘跡なので、我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印号なのですが、改悛の秘跡をもって、洗礼を受けてから犯された罪を司祭が赦すことになります。要するに、改悛という秘跡によって、洗礼のあとに犯された罪が赦されるということです。
我らの主、イエズス・キリストご自身は罪を何度も赦されました。というのも、罪は天主への侮辱であるから罪を赦せる御(おん)方は天主のみです。侮辱を赦すためには侮辱された者こそが赦しえるとの前提があるからです。

そして、天主なる我らの主、イエズス・キリストはその意味で、すでに地上での人生の間、何度も罪を赦されました。例えば、姦通の女の場面では、イエズス・キリストは「あなたたちの中で罪のない人がまずこの女に石を投げよ」(ヨハネ、8、7)。そして、そこにいた人々は皆、去っていきます。そして、我らの主と姦通の女は残って、我らの主は「あなたを罰した人はいなかったか」と尋ねます。「女は「主よ、一人も」。そこでイエズスは「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」」(ヨハネ、8、10-11)つまり、この場面で、我らの主は罪を赦されます。聖マリア・マグダレナの場面も有名ですね。我らの主の下へ泣きに来た場面です。「この人の罪、その多くの罪はゆるされた、多く愛したのだから。」(ルカ、7、47)

要するに、我らの主、イエズス・キリストは罪によって侮辱された天主であるがゆえに、罪を赦す力があります。そして、罪を赦す力を使徒たちにイエズス・キリストは託しました。その力、その根源を託したことによって、改悛の秘跡を制定なさいました。その結果、司祭はイエズス・キリストのみ名において、その代わりとして、罪を赦す力があります。

改悛の秘跡の制定は我らの主の復活のあとにありました。我らの主は使徒たちの前に現れ給います。「あなたたちに平安」(ヨハネ、20、19)と仰せになります。これはまさに復活の実りです。「彼らに息を吹きかけて、『聖霊をうけよ。あなたたちが罪を赦す人はその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」といわれた」(ヨハネ、20、22-23)

この場面は改悛の秘跡の制定であって、我らの主は使徒たちに罪を赦す力を与え給いました。改悛の秘跡は必要不可欠です。特に大罪を犯した人ならなおさらです。言いかえると、霊魂の生命が亡くなるほどの罪を大罪というのですが、霊魂の生命を失った人は、言いかえると聖寵の生命を失った人は改悛の秘跡を通じてのみ、霊魂の生命を取り戻せるわけです。

あえていえば、これこそはプロテスタントの不幸なのです。というのも、プロテスタントは改悛の秘跡を廃止しようとしました。全力で。いまも、昔も、プロテスタント教徒の証言がありますが、カトリック信徒に対して「この秘跡があって幸せだなあ。そのおかげで良心にやましいところがないから羨ましい」といったようなコメントが多いのです。

プロテスタント教徒に言わせれば「私は直接に天主に罪を明かすから」といっていますが、実際に罪が赦されたかどうかという確信を持てないわけです。しかも残念なことに、基本的に改悛の秘跡を通じてのみ罪が赦されます。というのも、天主ご自身は改悛の秘跡を通じて罪を赦すことになさいましたから。こういった秘跡を制定なさったのも天主のこの上ない善良をしめしています。というのも、我々人間は身体をもって、感覚があって、霊的な現実に触れるためにも、物質的な、感覚的な媒体が必要となります。

それだけではなく、更に言うと、人間には確信を得ない限り、落ち着かないという性質があるため、よく生きるためには確信が必要です。秘跡はそういった確信を与えてくれます。改悛の秘跡の印号は実現された途端、秘蹟の効果は確保されているというようにイエズス・キリストは秘跡を制定なさいました。

このようにして、司祭は秘跡の時、罪を赦す印号を与える瞬間、罪は赦されることになり、そして天主の友好関係を失っていた状態であれば、天主との友好関係を取り戻すことになります。要するに、改悛の秘跡は何よりも素晴らしい秘跡です。また、この上なく、天主のいと高き慈悲を示している秘跡です。

改悛の秘跡の別の名前は「死者の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?死んでいる霊魂、言いかえると天主の生命、聖寵を持っていない霊魂は文字通りに死んでいるから、改悛の秘跡に与って、初めてこれらの死んでいる霊魂は天主の生命に復活するという意味です。ですから、「死者の秘跡」と呼ばれています。

また、以上で分かるように、改悛の秘跡は必要不可欠です。改悛の秘跡に与らないと、基本的に天国に行くことはできません。天主との友好関係を持たない人は、永遠に天主の内に生きていくことは一体どうやってあり得る話になるでしょうか?あり得ません。大罪を犯している人は天主を自分の霊魂から追い出している状態ですから天主のおられる天国に行けるわけがありません。

それで、良き天主はそのいと高き善良さを示して、罪を赦すための秘跡を制定なさいました。改悛の秘跡はイエズス・キリストの十字架上の犠牲から生じます。十字架上の悪人の話を思い出しましょう。彼はイエズス・キリストとともに十字架上につけられたのですが、彼は少なくとも重い罪を犯して十字架刑に処されたことが知られています。その悪人自身が明かします。「われわれは行ったことの報いを受けたのだから当然だ。だがこの人は何の悪事もしなかった」(ルカ、23、41)と悪人が求めます。我々の主は何もしなかったのに十字架上におられるということをその悪人がはっきりと断言しますが、次にその悪人が言います。「イエズス、あなたが王位を受けて帰られるとき、私を思い出してください」(ルカ、23, 42)。そして、我らの主は答えます。「真に私は言う。今日あなたは私とともに天国にいるだろう」(ルカ、23,43)

十字架上の犠牲はなんて素晴らしい実りをもたらすのでしょうか。その悪人の罪が赦されたほどの犠牲。そして、悪人はそのあと平安のうちに死んでいきます。直接、十字架上の肉体のイエズス・キリストに罪の赦しを頼んで赦されたからです。

ですから、改悛の秘跡は洗礼を授かってからの罪人のための秘跡です。洗礼を受けないと改悛の秘跡を受けることはできません。
罪人は赦しを希って、告解室へ跪きにいきます。

他の秘跡と同じように、改悛の秘跡は物質的な印号なのですが、質料と形相からなっています。改悛の秘跡の質料は何でしょうか?遠因の質料は洗礼を受けてから侵されたすべての罪なのです。そして、特に大罪が対象となります。ですから、告解に行った時、一番優先に大罪こそを明かすべきです。もちろん、義務化になっていなくても、小罪を明かすことも大事ですが。

それから、近因の質料は罪人の「三つの行為」と呼ばれるものです。三つの行為に関する詳細は次回の講座の時にご紹介します。簡単に言うと、罪人の三つの行為は「痛悔」があり、「告白」があり、「償い」があります。詳細は次回の時、ご紹介します。要するに、質料は大きく言うと、告解の時に明かすべき罪です。

では、改悛の秘跡の形相は何でしょうか?つまり、我らの主の御血が霊魂を清めた、秘蹟が実現された具体的な印はなんですか?形相は司祭が与える「赦しの言葉」なのです。神父のみ、赦しの言葉を有効に与えられます。もちろん、司教も司祭なので、赦しの言葉を与えられます。しかしながら、助祭も他の聖職者も赦しの言葉を与えることはできません。信徒ならなおさらのことです。改悛の秘跡を預けるためには、司祭でなければなりません。

さて、「赦しの言葉」は何でしょうか?イエズス・キリストの名において、相応しい状態にある罪人のために、神父が述べる次の言葉です。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝の罪を赦す」というお言葉です。「Ego te absolve a peccatis tuis, in nomine patris et filio et sipiritus sancti」という赦しの言葉です。司祭が罪を赦せるのは天主より直接に与った権限にすぎません。

しかしながら、以上の赦しの言が発せられた途端、実際に天主が罪を赦したということになります。そういえば、「赦しの言葉」を言いながら、司祭は罪人に十字架の印を切ります。罪の赦しは十字架のお陰で実現された、また十字架においてこそできるということを示すためです。「お赦しの言葉」が発せられる途端、天主の生命を失っていた信徒であれば、天主の生命をその瞬間に取り戻すのです。

形相はつまり決まったお言葉ですが、「判決」とも呼ばれます。天主の判決です。「赦したぞ」という処分。ですから、告解室を指して「裁判所」とも呼ばれています。ただし、罰するための裁判所ではなく、赦すための裁判所です。憐みの裁判所です。告解という裁判所においての判決は必ず「御憐みの判決」となります。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝の罪を赦す」。

正義を全うするための裁判所もありますよ。それは皆、死んだ瞬間、出廷する裁判所です。

ですから、とりあえず、御憐みの裁判所は天主によって用意されているので、頻繁に行きましょう。それを活かしましょう。天主は改悛の秘跡という具体的な形で、折角、無償に御憐みを我々に与え給うという業はなんて素晴らしいことで、それはしかも簡単なことなのです。
もちろん、自分の罪を明かすのは不愉快ですが、天主のゆるしを得るためなら、安いことでしょう。そして、死後の裁判の時、罰を避けるためなら、非常に安いことでしょう。

改悛の秘跡のお陰で、あらゆる罪が赦されるのですよ。「赦すぞ」という判決しか出られない裁判所なので、我々、罪人はどうしても行きたくなるでしょう。赦せない罪なんて存在しないので、どんな罪でも赦されます。

さて、改悛の秘跡の効果は何でしょうか?以上を踏まえると簡単です。第一の効果は、改悛の秘跡は罪人が痛悔している大罪と小罪を取り消すのです。思い出しましょう。罪という時、二つの現実が重なっています。罪には過失があります。つまり、天主に対する侮辱の行為。そして、その行為に対する罰も決まっています。つまり、罪を償うために払わなければならない対価です。

告解の「赦しの言葉」はすべての過失をチャラにします。取り消すのです。その借りをないことにします。天主は我々が犯した罪をと忘れてくださいます。つまり、告解のあと、何もなかったかのように一からやり直せるということです。これは素晴らしいことです。というのも、我々は誰かと喧嘩して仲悪くなった時、すべてを赦して、忘れて、何もなかったかのように一からやっていくことは非常に困難でしょう。人間って、すぐ恨みを持ってしまうし、「赦してあげる」といっても、実際に「が、忘れていない」ということは多いでしょう。一方、天主はすべての罪を本当の意味で赦し給います。罪を取り消して、忘れてくださいます。



あとは、罪を犯したせいで生じる罰に対して、どうなるでしょうか?そもそも、罰というのは侵された罪の深刻さに相当しています。つまり、罪が重ければ重いほど、罰も重くなります。で、大罪の場合はどうなるでしょうか?大罪というのは霊魂から天主を追い出す罪であって、霊魂の生命を失わせる罪です。この場合の罰は永劫なのです。つまり、地獄です。で、「お赦しの言葉」のお陰で、この永劫という罰は取り消されます。言いかえると、本来、そのままに死んだら地獄に落ちそうになっていた霊魂は改悛の秘跡によって、天国への道に再び乗せられたということです。これもなんとも素晴らしいことです。もう、我々が地獄に落ちることに値するのに、その永劫をチャラにしていただけるなんて、どれほど素晴らしいことでしょう。

さて、永劫は大罪に伴う罰で、まさに地獄ですが、改悛の秘跡によって取り消されます。が、減刑というか、それでも償う必要はありますので、時間的に限定されている罰が残ります。そういった、時限の罰も改悛の秘跡によって多少にかかわらず取り消されることがありますが、どれほど取り消されるかは残念ながらだれもわかりません。というのも、時限の罰の取り消しは、我々の痛悔と直接につながっています。慎み深くて、誠実に深くに痛悔すればするほど、罰は減らされています。残念ながらも、これは心の中の状態なので、それを具体的に図ることは困難で何とも言えません。また次回、ご紹介しますが、そういうことになりますので、痛悔という徳をできるだけよく実践していくこと習うことが大事です。

それはともかく、時限の罰への取り消しの程度は天主のみがご存じです。で、死んだとき、時限の罰は完全に赦されていない場合、煉獄に行かざるを得ません。煉獄で、時限の罰を受けて、その償いを果たします。


そして、改悛の秘跡の効果は永劫の罰が赦される分、霊魂においてあたらためて聖寵が入っていきます。で、聖寵を失っていなかった罪人も改悛の秘跡によって、その聖寵は増やされています。

また、改悛の秘跡は過去の死んでいた功徳を復活させます。また、いくつかの秘跡上の聖寵を受ける特権を与えます。特に、明かされた罪を再び侵さないように抵抗するための聖寵を頂ける特権を与えてくれるのが改悛の秘跡です。

そして、それよりも、改悛の秘跡は平安を与えます。安泰と静謐を与えます。これはなによりも素晴らしいことです。プロテスタント教徒なら、あるいはカトリックの近代主義者は「天主に直接に告白する」といっても、結局何の平安を得ることはありません。罪人は告解に行って、犯した罪を明かす苦労を遂げたら、告解室から出ると平安になります。「平和の内に行け」と神父が告解の最後の時に言う通りです。で、しばしば、告解室から出ると、この平安を感じることがあります。

要するに改悛の秘跡は非常に素晴らしいです。この秘跡を活かさないことは勿体ないというほかありません。


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