ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

新しいミサ(パウロ六世のミサ)について 【その1】

2021年03月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十講 新しいミサについて



新しいミサについて
Gabriel Billecocq神父

以前、生贄を見る中で、聖なる生贄であるミサ聖祭をご紹介しました。ミサ聖祭は「流血を伴わない十字架上の生贄の再現」でした。
今回、一般的に「新しいミサ」と呼ばれることについて触れなければなりません。それは、「パウロ六世のミサ」とも呼ばれますが、最近できたミサで、第二ヴァチカン公会議の直後にできたミサです。新しいミサの詳細を見る前に、少し歴史を見ることにしましょう。つまり、いわゆる聖伝ミサ、また「ピオ五世のミサ」といわれるミサはピオ五世の時代のミサではないことを思い出すのがよいでしょう。

聖ピオ五世は16世紀の教皇ですが、トレント公会議を執り行った教皇であり、またそのトレント公会議の決定をなした教皇です。それから、聖ピオ五世はいわゆる「聖ピオ五世のミサ」と現在呼ばれるミサの典礼を確定させる勅書を発しました。この勅書をもって、教皇聖ピオ五世は聖伝ミサを神聖化し、永遠の価値を与え、そのミサをいわば列聖したと言えましょう。というのも「いつまでも、廃止すること能わず」というミサであると教皇が明確に命じたからです。



どちらかというと、「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれるミサは実は聖ピオ五世のつくったミサでないのです。その呼び名は「Quo Primum」の勅書に由来していて、つまり聖ピオ五世が最終的に聖伝ミサの典礼を確定したという出来事を記念した呼び名にすぎません。つまり、聖伝ミサのすべては聖ピオ五世以前から存在していました。聖ピオ五世は何も新しい典礼を制定することもなく、新たなミサを作ったわけではないのです。聖ピオ五世はただ、当時の聖伝ミサの典礼を編纂したにすぎません。

聖伝ミサは使徒時代から継承されてきたわけです。聖伝ミサのカノン(ミサ典文)は、つまりミサ聖祭の中心部分、序誦から主祷文までの部分ですが、使徒時代には、すでに定着していた聖伝ミサの核心です。というのも、使徒たちはミサ典文にある諸祈祷をすでにそのままに唱えていました。

さらに言うと、中心中の中心部分である聖変化の祈祷は福音書において明記されており、また聖パウロの書簡においても明記されています。御聖体を取り上げる儀礼は逆に11世紀あたりの遅い時代になって追加されました。いわゆる、Beranger de Toursの異端と戦うためですが、御聖体の取り上げの儀礼以外に、ミサ典文のほとんどすべては使徒時代から定着していました。ほとんどの部分は「古より」といわれるほど、その起源を特定できないほど大昔から唱えられている祈祷でした。

要するに、ミサ聖祭の核心部分は非常に古いのです。最も中心中の中心はイエズス・キリストご自身が制定されて(聖変化)、使徒時代の時に定着しました。

それから、ミサ聖祭の典礼に追加されてきた他の祈祷や儀礼はいきなり追加されたものではなく、少しずつ時代ごとに慎重に適切に追加されてきました。それを示す資料として古文書である多くの典礼文があります。

ゲラシウス教皇典礼書(4世紀前半)、グレゴリウス教皇典礼書(8世紀)、レオン教皇典礼書(5世紀)などが残っていますが、そこでは、今の聖伝ミサのほとんどの祈祷はすでに使われていました。特に四旬節において現在でもつかわれている毎日の祈祷に関していえば、非常に古くてこれらの典礼書において既にあります。

つまり聖ピオ五世はこれらの祈祷などを一つも作っていないわけです。繰り返しますが聖ピオ五世は聖伝ミサの典礼を編纂したにすぎません。編纂する意味は、それから以降、聖伝ミサの典礼が変更できないようにしておいたという意味です。長い時間の積み重ねで、多くの聖職者の叡智で聖伝ミサの達した高い完成度をいつまでも保つための編纂でした。


というのも、当時はプロテスタントの異端によってミサが攻撃されていたことを思い出してください。ただし、使徒時代以降に追加された部分などは考えてみるとそれほど多くはありません。もう少し遅くできたのは階段祈祷(10世紀)と最後の福音(16世紀)ぐらいでしょう。

しかしながら、ミサ聖祭の典礼とその構成自体は何も変わっていません。使徒の時代と最初の諸世紀の時代にすでに定着しているわけです。ミサ典文、カノン自体は使徒時代の時にすでに固まっていました。

要するに、「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれるミサは、実を言うと、何も変わっていないミサ聖祭であり、「変わらぬミサ」と呼ばれることがありますがもっともな呼称です。この意味というのは、使徒たちがご自身がすでに唱えていたミサ聖祭という意味です。同じ祈祷、同じ言葉を使って、使徒たちは継承者へ伝えていき、数世紀の内に典礼書において成文化されてきたという聖伝ミサです。そして、この最終的な古典化は聖ピオ五世の編纂によって行われたということです。
~~

新しいミサを産んだ運動として「考古学主義」というものがありました。つまり、聖伝ミサよりも古い形のミサに戻ろうという考え方です。
この考え方は非常に誤っているのです。教皇ピオ12世はその誤謬を丁寧に否定しました。また回勅においてこの「考古学主義」を排斥しました。
問題は部分的に正しい指摘もあるものの、完全に誤っている部分が多いのです。

正しい指摘としては、例えば、聖体拝領は最初の数世紀の間に手で行われたということがあります。確かに、そうでした。問題はそれに戻ろうとするのは過ちです。教皇ピオ12世は丁寧に説明します。我らの主、イエズス・キリストによって制定されたカトリック教会は時代が下るにつれて、少しずつ経験を積み、成熟したかのように、成長しました。子供が大人になっていくのと同じように、カトリック教会も成長していきました。その本質は変わらないで、同じ本質、同じ顔立ち、おなじ体型ですが、成熟していきました。

聖パウロの書簡においてこう記してあります。「私が子どものころは、子どものように話し、子どものように考え、子どもように論じたが、大人になってからは子どもらしいことを捨てた」(コリントへの第一の手紙、13,11)。

聖伝ミサの典礼の歴史はまさにカトリック教会の成熟の歴史をもの語っています。確かに、事実としてカトリック教会は最初の数世紀の幾つかの慣習を捨てました。しかしながら、それは非常に限られた慣習であって、多くはありませんよ。例えば手での聖体拝領。8-9世紀になると、手での聖体拝領は完全になくなっていました。あるいは、二つの形色ともに拝領する習慣も12世紀から14世紀までにはなくなりました。これらの決定などはたまたまではなく、叡智と経験と成熟の結果の成果なのです。

ですから、長い経験の結果を決定したことを取り消す意志、つまり、原初のミサに戻るとする「考古学主義」はなかば夢想されている深刻な誤謬といえます。これは、カトリック教会の長い歴史によって得られた経験と叡智を蔑ろにすることでしかありません。たとえば、手での聖体拝領がわかりやすいと思います。不敬になりやすいから排除されました。そこまでいかなくても多くの問題がありました。御聖体に触れた信徒の手をどうすればよく清められるか、また、多くの人々が拝領すると、冒涜の可能性も増えて、御聖体の欠片が落ちたりするおそれも。舌で聖体拝領した方が絶対にご現存に対する畏敬は保たれやすいのです。そうすることによって、多くの不用意な冒涜を回避できるわけです。残念ながら、現在の新しいミサではこのような冒涜は頻繁に起きるのです。

二つの形色ともに拝領する習慣を維持するのもかなり困難でした。衛生上の問題もあるなかで、御血を拝領するのは実際上容易ではありません。液体ですから。しかしながら、御血として我らの主、イエズス・キリストに対して最大の礼拝をも払わなければなりません。そのため、実際上、御血の拝領は困難でした。液体を運ぶのでこぼし易くなるし、吹管を使って拝領していたから非常に不便が多かったのです。そして、御血の拝領は司祭以外に必要であるわけではないので、カトリック教会の叡智が働いて、その結果、西洋では御血の拝領を廃止しました。それでも、御聖体を拝領するだけで、我らの主、イエズス・キリストの御血、御体、ご霊魂とご神性のすべてを頂くことになりますので、信徒にとっては何も変わらないのです。

その上、聖伝ミサはこの上なく最も立派に信仰を示す典礼なのです。聖伝ミサにおいて、信仰のすべては要約されていて、信じるべき信条のすべてが入っています。このように、我々が執り行う聖伝ミサと我々が告白する信仰は密接につながっています。離れられない絆があります。聖伝ミサは信仰のすべてを表現します。



原罪は聖伝ミサにおいて示されています。信徒も司祭も罪人として聖壇の前に向かうわけです。贖罪の玄義は聖伝ミサにおいて、当然ながら非常に表現されています。御托身の玄義も言うまでもなく示されています。一番象徴的なのは、奉献部にある祈祷、葡萄酒において水の一滴を入れる儀礼の時に御托身の玄義が示されています。葡萄酒は神性を象徴して、水は人間性を象徴しています。無原罪の御宿りの聖母、それから贖罪の御業のおける聖母マリアの至上の役割と位置づけも示されています。霊魂における聖寵の働き、イエズス・キリストのご生命の働きも語られています。

要するに、カトリック信仰のすべての信条は聖伝ミサにおいて語られています。さらにいうと、ミサ聖祭の構成においても文章においてもこれらの信条は立派にうまくはめ込まれています。このように、聖伝ミサに与ると、信仰は教えられているだけではなく、信仰徳も増やされていきます。



教皇セレスティア四世の言葉だったと思いますが「Lex orandi, Lex Credendi」という格言があります。「祈っている法は信じている法だ」。つまり、典礼は信仰につながるのだという意味です。また信仰こそが典礼を方向付けるのです。このように信仰と典礼の絆は切り外せないのです。祈り方と信仰は密接につながっています。

俗に言ってもこのような諺がありますね。「君がやっていることを見て、君が誰なのかを教えよう」という格言があるように、「君がどうやって祈るかをみて、君がどういった信仰を持つかを教えよう」といえます。つまり、行為において、行動は本質を表すということですね。このように、ミサ聖祭はこの上ない典礼なので、正に「執り行う」ことであって、行為そのものです。そして、ミサ聖祭という行為は信仰がなんであるのかを表明します。要するに聖ピオ五世のミサはカトリック信仰のすべてを表します。

繰り返しますが、ミサと信仰は密接につながっています。そして、聖伝ミサは、本当の意味で聖伝であり、つまり、イエズス・キリストから使徒へ、使徒から司教へ、司教から司祭へ、代々引き継がれた聖なるミサなのです。ですから、変わらぬミサと変わらぬ信仰は密接につながっています。

ですから、お気づきになったと思いますが、ミサを変更しながら信仰を変更しないことは至難の業です。逆もしかりです。信仰を変更しながら、ミサを変更しないことは至難の業です。信仰とミサの間に密接な絆がある所以です。繰り返しになりますが、ミサ聖祭の構成と祈祷の儀礼において信仰がはめ込まれているからです。

従って、ミサを変えたら必然的に信仰が変わる危険が大いにあります。さらにいうと、信仰生活をも害する恐れが大いにあります。
例えば、聖伝ミサにおける信徒が取るべき態度、動作などは規定されていますが、これらも天主への礼拝を表すためです。言いかえると、外的な態度や動作を変えるだけで、天主への礼拝の仕方、祈り方をも変えることになります。その結果、天主へ払うべき畏敬を変えることになります。



残念ながら、以上のようなことを実際にやってしまったのが、第二ヴァチカン公会議だというべきです。第二ヴァチカン公会議の一つの結果となった新しいミサのせいで、以上のような変更がありました。

第二ヴァチカン公会議の正式の最初の文章(法令)は第二会期が終わった時、発表されましたが、典礼についての文章です。「Sacrosantum concilium」という文章です。この文章はいわば時限爆弾でした。というのも、この文章は曖昧過ぎるせいで、完全に好き勝手に解釈することが可能です。この文章においては、一応、変わらぬ教義が明記されてはありますが、同時に毎回、いつも「特例」あるいは「例外」を設ける余地が与えられています。

例えば、絶対的に典礼はラテン語になります。が、司教は違う言語を選んでもいいです。といったような感じです。
また、例えば「絶対に新儀(新しいこと)を典礼にいれてはいけない。が、固有文化に適応するためなら変更してもよい」という感じです。

要するに、この文章のやり方を一言で要約すると簡単です。一方で真理を一応再断言するものの、他方でこの真理を変更してもよい項目を設けておくというものです。この意味で、「Sacrosantum concilium」という文章はまさに時限爆弾となります。それに基づいて何でも正当化できるからです。本来ならば、教皇あるいは公会議が発する文章に期待すべき性質を持たない文章です。本来ならば、逆です。はっきりとした、解釈の余地のない明白な文章が期待されているのに、第二ヴァチカン公会議の文章の特徴でもありますが、もやもやしすぎて、好き勝手に解釈しても差し付けなく、結果とし何でもできるという。

「Sacrosantum concilium」の直接の結果が新しいミサなのです。またパウロ6世のミサと呼ばれるミサです。この新しいミサはいきなり出てきたものではありません。本来ならば、その歴史を紹介すべきですが、簡単にいうと「典礼運動」に由来しています。複雑な歴史なので割愛しますが、それにご興味のある方はBonneterre神父の研究に参照していただければと思います。

この中で典礼運動が研究されていますが、少しずつ、「どうしても変更すべき」空気の生成や「動作よりも言葉だけを重んじる」傾向や「考古学主義」の流行りや「犠牲の執り行いを軽視する」傾向などがよく描写されています。当然といえば当然ですが新しいミサは自然に発生したものではなくて、数十年の間、この典礼改革が準備されていたわけです。最初は典礼学において「改革希望」を操作した数十年の運動の結果なのです。


そして、新しいミサは1969年の時、パウロ6世によって正式に制定されました。「Novus Ordo Missae」と呼ばれる文章によってです。「ミサの新しい構成(あるいは典礼)」という意味です。この新しいミサを実現した主役は他でもないパウロ6世です。もちろん、一人でこの典礼を作ったわけではありませんが、パウロ6世はかなり関わりました。が、典礼改革の中心人物はBugnini(ブニーニ)司教でした。かれこそ、この改革を推し進めて実現させました。その他、改革の主役を担った人物として、Birminghak教区のBouyer(ボイヤー)司教の他、残念ながら、二人のプロテスタント信徒もいました。ここに言う人物は積極的に新しいミサの典礼を作った者たちであり、単なる「顧問」のような消極的な役割を持つ人ではなかったのです。

当時、エキュメニズムを担当していたBaum(バウム)司教の証言を引用しましょう。
「(典礼改革のための)これらのプロテスタント信徒たちは単なるオブザーバではなく、顧問もやり、さらには積極的にカトリック典礼改革の審議に参加しています。オブザーバだけならそもそも誘う意味がありません。彼らは積極的に改革に貢献しました。」

信じられないと言えば信じられないのですが、パウロ6世ですら普通に認めています。新しいミサの典礼が発表されてから数日後、1969年4月10日、パウロ6世は次のことを発言しました。典礼改革に参加したプロテスタントの牧師の前での発言です。聞いてください。本当に信じられない発言です。
「あなたたちが数年前から尽くしてくださった仕事に対し、誠に感謝の意を表する次第です。はい、正に、カトリック教会の善のため以外、何の報酬の期待をも持たないで、速やかに、また高度な見識の能力を示して、複雑かつ困難な作業に勤しんでくださったのですから。」



500年もの間、カトリック教会に対し、多大なる弊害を与えたから、そして、カトリック教会の基礎を覆そうとしていたから、歴代教皇や公会議はずっとずっとプロテスタントを排斥して、その誤謬を否定していたことを考えると、信じられない発言です。ある意味で新しいミサは「プロテスタント的なミサ」です。詳しく後述しますが、新しいミサは現にプロテスタント的なミサです。これは悲しいことであって、悲劇です。

ルターの言葉を借りましょう。彼はもちろん新しいミサを夢にも見たこともないのですが、象徴的なので引用します。ここで彼のいうミサはもちろん聖伝ミサですね。
「ミサが転覆される日が訪れたら、教皇の位が転覆されることを意味すると思う。というのも、教皇の位のすべては、つまり、教皇の下にある修道院、教区、学校、慈善施設(病院など)、聖職者と信仰(教義)のすべては巌(いわお)であるかのようにミサの上になり立っているからだ。憎むべき冒涜であるミサが崩れた瞬間に、これらのすべても崩れるのだ。」
非常に明白でしょう。面白いことに、教会のすべては、修道院を含めて、ミサの上に成り立つとルターが言っていますね。



Bugnini(ブニーニ)司教が新しいミサを紹介していた時の話です。ルフェーヴル大司教が参加されたときになされた発表でしたので、ルフェーヴル大司教は我々神学生に、次のような話をよく話されていました。それは、新しいミサの詳細をブニーニ司教が初めて説明した時、ルフェーヴル大司教はいつもすぐに発言するタイプなのに、その時はあまりにも信じられない内容だったせいで、ショックを受け、驚きのあまり、何も言えなかったと。

後で見ますが、新しいミサにおいては、信徒たちの積極的な参加が過剰に重視されているので、当時の説明会の時、一人の修道士が立ち上がって「では、修道院においては(基本的に信徒がいないので)どうやって執り行えるか」という質問をしました。その答えはなんと「ああ、考えていなかった問題ですね」というものでした。

なんか、信じられないことでしょう。新しい典礼という非常に重い改革がおもいつきのように作られたなんて。つまり、全教会のために作られてもいない典礼。修道士を視界に入れていなかった典礼。つまり、カトリックの典礼ではないということです。カトリックとは「普遍」という意味ですから。以上の話だけでも、どれほどカトリック的ではないミサであるか見えてきたと思います。

しかしながら、重要な点を強調しましょう。以上の新しい典礼を発表したからといって、パウロ六世は聖伝ミサを廃止したことはありません。全くありません。聖伝ミサは一度も廃止されたことはありません。ヨハネパウロ二世もベネディクト16世も枢機卿に相談した時、何度もはっきりと「聖伝ミサは廃止されていない」ということを明白に示されました。

要するに、今でも、すべての司祭は聖ピオ五世のミサを捧げることができて、聖伝ミサを捧げる権利があるということです。
聖ピオ五世は「Quo Primum」の勅書を発した時、次のように明確に書かれています。「廃止すること能わず」。また正確に言うと聖伝ミサを「神父が捧げることを妨げること永遠に能わず」と。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。