久しぶりに浅草に行った。
すごい人ごみだった。
雷門には多くの観光客が集まり、600Kgを超える大提灯の前で写真を撮っている。
いつ来てもこの風景はいっしょである。
そんな観光客に混じって、ボクも写真を撮った。
はい、パチリ。
ウッ、ちょっと、また太ったようだ。
雷門は、941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。その翌年、配置転換の願いが叶ったことから寄進を行った。山門はしばしば火災で消失し、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。
1960年、パナソニックの創設者、松下幸之助が門及び大提灯を寄進。現在の雷門が成立した。
雷門をくぐると仲見世だ。
ここは日本で最も古い商店街の一つ。幕府が江戸におかれてから、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近所の人々に出店営業が与えらた。
現在仲見世には東側に54店、西側に35店の店舗があり、約250メートルにわたってにぎわっている。
とりあえず、小腹が減ったので、団子屋でみたらしを買って食べながら歩いた。
しかし、手がべとべとになった。
OH、NO!
しかし、浅草は情緒のある街だ。
昔ながらの扇子や団扇を売る店や、人形焼き製造販売する店もある。
粋だね。
江戸っ子オヤジが焼く人形焼き・・・・外人観光客が美味そうに食っている。
そうこうするうちに、浅草寺の境内にきた。
さぁ、ここから先はレトロな街、花屋敷方面へ歩いてみよう。
花屋敷は、1853年、千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」として開園した。
当時の敷地面積は約80000m2だった。
江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場になった。そして明治に入り木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。
翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示。この頃園内は庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示をしたり、遊戯機器の設置を行うようになった。
大正から昭和初期には全国有数の動物園として知名度を高め、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。
戦後の1947年(昭和22年)東洋娯楽機との共同経営で再び開園し、遊園地「浅草花屋敷」と改名、2年後には東洋娯楽機に経営が委ねられ「浅草花やしき」と改名した。
花屋敷の前では、昼間っから道ばたで酒を飲むオヤジがいたり、また競馬?の予想屋がいたりと、昭和初期の空気そのままの地域がつづいている。
一瞬、タイムスリップしたような錯覚にとらわれる。
そういえば学生時代、こんな感じの呑み屋街がどの駅にもあった。
新宿のゴールデン街、しょんべん横町、渋谷の百軒店などなど・・・・
レトロでいかがわしくて、ちょっとヤバそうな街。そんなところが東京にもまだあった。
数年前、大阪のラグさんたちとジャンジャン横丁に行った。
まさに、あんな感じの街である。
帰りがけ、古びたラーメン屋で中華そばを食べた。
懐かしい味だった。
やっぱりラーメンも、昔ながらの醤油味がいい。最近、そんなことをつくづくと感じる。
また数年後、浅草に来たらどうなっているのだろうか。
70歳を越えたらもう一度来てみよう。
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