25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

「応仁の乱」を読む

2017年08月28日 | 日記

 新書版で「応仁の乱」が売れているので、買って読んでいる。なぜこの本が読まれるのか、ちょっと分かりにくい。

 奈良の興福寺の分裂騒動から始まり、この守護職のような権限領地をもつ興福寺が別当という大将をおきながらも、一乗院と十乗院という分派ができた。いちいちそんなことを書いておれないので、ぼくの見方からすると、権力、利権を巡って、上のもばかりが争っている。今で言えば、高学歴の政治家や官僚や利権団体の長などがバタクサと争い、利権に群がるのと同じだ。大和の国のリーダーはトンマばかりで、(これで大和魂などとよく言ったものだ)、足利幕府の不安定さがあるももの、日本人はこんな民族かと目を被いたくなる。登場する人物の名前すら覚える気にならない。

 同じような思いをしたもが、「昭和史」であった。ここでも陸軍、内閣のトンマさが露骨であった。やはり登場する人物に嫌気がさした。

 大衆はインテリの新聞やラジオに煽られ、踊らせられ、いかにも軍部を賛美すように仕向けた。戦争を批判すると非国民と言われる。徴兵には従わなければならない。かくして、国民国家で結末は一般の大衆が多く死ぬのである。

 応仁の乱により、下剋上の時代がくるが、農民もたまったももではない。戦争に引っ張りだされる。家は焼かれる。口のたつ、頭がよくまわり、生まれが元々武士や貴族であったものがいざこざばかりして農民を巻き込む。

 ぼくははたしてこの本を読み終えることができるだろうか。うんざりしながら読むのも大変なことなのだ。

 伝統、文化なんてよく言うが、ぼくは今の寺ひいては仏教などになにの敬意も持たない。日本国土の中で相当な敷地を持つ。信長の気持ちもわかるというものだ。

 というわけでもないが、ぼくが死んだら決して寺や、戒名や、読経、墓は要らないと言ってある。焼いてもらって、クラウドの中に生きた記録が残ればいいと考えている。