25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

1964年+アルファ

2016年05月24日 | 文学 思想

  極端かもしれないが、1960年代、もっと詳しく言えば、1964年まで日本は戻ってもいいと思う。産業革命以前とか江戸時代まで戻れ、と言えば想像もつきにくいだろうが、1964年と言えば、日本人の半分は知っている。僕はこの頃、14歳だから、結構生活も豊かになってきていて、食事の占める割合であるエンゲル係数も下がっていた。僕が思うのは1964年+アルファである。当然原子力はない。新幹線はあった。カラーテレビもあった。基本的なものはほとんど出そろっていた。アルファの部分はコンピュータの部分である。

 高層ビルもなかった。一極集中になろうとしていたが、高層ビルがなければ、企業は土地不足から地方に進出していたかもしれない。輸出産業ばかりを優遇する策もなかったかもしれない。第一、日本には借金というものがなかった。無駄な公共工事で借金してお金を使ってしまった。そのツケは今の若いものが払うのだが、払えるはずもない。

 医療の科学や新薬が開発されれば、国の医療負担まますますかかる。年金を減らすか、健康保険料を値上げしていくというのは、若い者からツケを払わせることと同じである。そして若い人が老人になる頃には年金の受給年齢は上がっている。70歳や75歳になっているのかもしれない。それも若い者が払うツケである。

 で、若い人はもっと怒ってもいいように思うが、政治には無関心で、遠いことだと思っている。政治のツケはみな、安保法制でも、年金制度でも、消費税でも若い者にツケが回るのである。高齢者はいわば、もう生産することもなく、死への段階に入っているのである。

 思うのだが、僕は1964年+清潔なトイレ・風呂、パソコンで、十分だという気がしている。日本はこのまま「経済成長」を目指していく様子である。消費税を上げると、消費が落ち込むので、政府は10兆円の財政出動をするかどうか検討している。これとて、いわば借金である。10兆円財政出動してもらっても、エコカーだのエコハウスだの、僕らにはほど遠いことで、消費するべきものがないのだから、10兆円を使うのは止めてくれよ、と言いたくなる。ツケは若者へいくのだから。

 宮城県の堤防、不要かと思える東京オリンピック。国土強靭化などと災害の列島でどれほどのものか。逃げる方が得策である。

 1964年以降に出てくるものは、選択消費の商品ばかりである。僕なら、またその時代に戻ったとしてもきっと耐えることができる。

 銭湯にいっていた時代だって、不便さは感じないものだった。テレビは家にひとつあればよかった。冷房がなくても我慢できた。冷蔵庫の氷トレイには自分で水を入れていた。洗濯機は全自動ではなかった。

 こういう風に考えてみることが必要だと思う。ムチャなことを考えてみるのも意味がある。なにも考えずに未来に突き進んでいくよりも、立ち止まって、日本はどのようにしていくのか、をじっくり考えることをしてみる必要があるのではないか。

 経済が幸せの最優先ではないこともそろそろ我々は知っている。