25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

外に出る

2016年05月18日 | 日記

   昨日は岡田さんと夜の街に繰りでた。食事して、スナックに行く。必ず普段より飲み過ぎる。寝不足もあって、今日はちょっとしんどい。話が弾むので、神経も活発になってくるのだろう。セロトニンなどは大量に出ているに違いない。話したことのひとつひとつをテープにでも取って、活字にしたら愉快なのかもしれない。剣道はなぜ、相撲と違って高齢になってもできるのか。「ぶつかることなく、間合いがあるから、瞬時に勝負をつけられる」と要約すれば岡田さんはそんなことを言っていた。

「映画『グラントリノ』は一番良かったな」と岡田さんが言い、

「よい映画やったなあ。あんたのセンスにぴったりくるんやろな」と僕が言い、

「そうさ」

 などと、路を歩きながら話す。居酒屋では、裁判のこと、相撲のこと、剣道のことに及び、そして路中での映画の話になったのだった。

 外に出ると人と会う。夫を三年程前に亡くした女性が、「やっぱりあたしは夫に支えられておったんやなあ」とか、「最近夜がおそろしくてセコムをつけた」とか近況を知ることになる。また別の男性と会った。「一度、会社の方に来てほしい。アイデアが欲しい」と言う。卒業生の女性とも会った。彼女もすでに48歳になっていた。彼女の近況も聞く。そうした中にいると社会の中に、世間の中にいるのだな、と思う。

 岡田さんにはなんとしてでも八段最高位を取ってもらいたい。僕の小説の中では彼らしき人物を登場させ、今から五年後までには八段を取っている。

  何の気兼ねもなく言いたいことを言っているので、酒は美味しい酒となる。日々は別々の生活を送っていることだから、だんだんこころの中に溜まってくるものがあって、それを発散させるということもあるのだろう。そうなると彼と「飯でもいかんの」となる。久しぶりの午前様であった。いつも思うことだが、人という字は二人を表しているが、もう一本右に支える線があっていいと思う。漢字としてこの頃、この字が気にかかる。人は二人によって支えられている、と言った方が、よいのではないか、と岡田さんと会うと、そんなことを思う。