25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

記憶、Wの悲劇

2016年05月09日 | 映画

 記憶というものは曖昧で不確かなものである。僕から積極的にフックしようと記憶するものは海馬で長期記憶もできるのだが、自らフックしないものの記憶はほとんどできない。この前、昔、1984年に見た映画「Wの悲劇」を再度見たが、ほとんど初めてみるような気がした。三田佳子が確か犯人だと思っていたのだが、これも間違っていた。薬師丸ひろ子の歌だけはよかったので、しっかり覚えている。

 記憶はどうやら書き換えられていくようで、何がなんだかわからなくなってくる。一般的教養というのは小さなうちに詰め込んでおいた方がいい、と思う。

 高校生の頃、現代国語や古典では最初が詩や歌であった。新学期になると、今年こそ勉強するぞ、と思って、一週間くらいは真面目になるのである。だからその一週間で習った詩歌は今でも諳んじることができる。佐藤春夫の「ためいき」や三好達治の「甃のうへ」、雄略天皇の歌などは今もスラスラと記憶の箱からちゃんと出てくる。勉強してこなかったので、中学や高校で習っているはずであったことを大人になってから習いなおすこともしばしばあった。日本の歴史もそうだが、生物も化学もほとんど知らないというものだったから、残念、後悔をよくしたものだ。

 考えられないのは、東大などに入って、在学中か、卒業後まもなく司法試験や上級公務員試験などに合格する人だ。現実的な経験はないのに、理解し、暗記していく。これにはたまげる。

 考え方とか、態度であるとか、こころの持ち方とか、胆力があるかどうかとか、そういう方が大事なことであるとは思うが、勉強することの持続力と集中力もたいしたものであるから、それは羨望に値する。

 人間は生まれながらにバカにできているか、賢くできているか、8ケ月の赤ちゃんに指を差しだして掴ませると、その手の圧力と目の視線で、判断できる、と小説の中で、言っているのを読んだ。果たして本当のことなのか、怪しんでいるが、僕がその赤ちゃんだったら、強くは握っても、相手の顔をじっと見ないだろうと思う。すると僕は生まれながらバカの部類である。

 記憶力が悪いことで得することもある。よかった映画を何度も見えるし、小説もなんども読める。慎重にもなる。

 だいたいが頭がよい人というのは先が読め過ぎて、臆病でもある。行動の結果はわるはずもないのに、わかると思ってしまうのだろう。これは頭が良い上の弊害だと僕は思っている。人間は安定、安心を好み、冒険は避け、つい今のままでいい、という保守性は人間に備わったいたしかたのない、「賢さ」にある。僕は嫌いなのだが。