テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -15-

2005年07月13日 20時54分29秒 | 歴史のこと
  【ワシントン会議】

 パリ講和会議の後、大正11年(1922年)にアメリカを中心として9ヶ国が集まり、ワシントン会議が開かれました。ここではまず、軍艦の数を決めました。当時のアメリカの海軍は強いとはいえませんでした。逆に日本海軍は強いとされ、アメリカはイギリスと謀って、主力艦の隻数・トン数を、英米それぞれ5に対して日本は3の比率とするように決められてしまいました。戦わずして、アメリカは日本の軍艦を沈めることに成功したのです。次のロンドン条約では、補助艦の潜水艦とか駆逐艦の比率も決められ、日本の戦力は弱められ、常に英米が優位になるような体制が作り上げられていくのです。
 そして次には、アメリカにとっては日英同盟は邪魔ですので、これを強引に破棄決議させます。第一次世界大戦で英仏は大変な戦費を使い、かなりの犠牲を出し、国力は随分と弱体化してしまいます。それに比して、後から参戦して甘い汁を吸ったアメリカは、世界一の強国となることができたのです。アメリカは世界覇権を狙い、日本を追い詰める必要から、軍艦戦力比の五・五・三体制を作り、日英同盟を止めさせ、代わりに米国の支配する4ヶ国同盟を作るのです。
 更には、9ヶ国条約を作り、ジョン・ヘイが提唱した中国の「門戸解放、機会均等」を条約にします。これも日本を抑え、アメリカが中国に進出する為のものです。これまで中国に権益を持っていた西欧諸国の力を弱め、後から入ってきたアメリカの権益を強めることを、主義主張ではなく条約として認めさせたのです。
 そして、日本が膠州湾と青島を中国に返還させることを決定します。
 最後には、満州での日本の立場を認めた「石井・ランシング協定」を御破算にします。ワシントン会議とは、こうした内容と性格を持った会議だったのです。
 昭和5年(1930年)、ロンドン会議が開かれ、補助艦の総数比率を、英米それぞれ10に対して日本は7とする条約を締結します。
 この結果、日本軍部の不満が頂点に達し、いわゆる統帥権干犯問題を引き起こし、浜口首相暗殺や血盟団事件、五・一五事件等、日本国内は昭和動乱期に突入することになるのです。

<続く>
 

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