テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -7-

2005年06月29日 21時05分06秒 | 歴史のこと
  【日本の命運を賭けた日露戦争】

 明治天皇の一生を綴った『明治天皇紀』という書物がありますが、それによりますと最後の御前会議の時「天皇涙潸々たり」とあります。天皇陛下は泣かれたのです。勝つ見込みなどないとされていたのです。しかし、ここで戦わなければ、日本は明らかにロシアの植民地となってしまう。コロンブスの時代から西欧の白人帝国主義は、かつて有色人種と戦って負けたことはありませんでした。しかもロシア帝国は、世界一の陸軍と世界第二位の海軍を誇る世界最強の大帝国であります。ニコライ皇帝は公衆の面前で、日本のことを「サル、猿」と言ってました。「サルどもなど歯牙にかけるな!」といった勢いです。
 御前会議の夜、伊藤博文は金子堅太郎を呼んで「君はルーズベルト大統領と同窓だそうだが、一戦終わったら仲介に立ってくれるよう頼んでくれ」と頼み、高橋是清には「イギリスに飛んで、日本の国債を買ってくれるよう奔走してくれ。大蔵省の金庫は空っぽだ!」と頼みました。そして伊藤自身、「私も一兵卒となり、銃をとって前線で討死する覚悟だ」と言いました。児玉源太郎参謀長は「緒戦で必ず勝ってみせますから、そしたら必ず和議を結ぶよう頼みますぞ」と伊藤や桂首相に幾度も念を押したのです。4000万国民が一体となってこの戦を戦った、文字通りの自衛戦であったのです。

<続く>

真実の歴史講座 -6-

2005年06月28日 12時07分00秒 | 歴史のこと
  【日英同盟の締結】

 このロシア帝国の傍若無人の侵略ぶりに危機感を抱いたのは日本だけではありません。支那に多くの権益を持つイギリスも、同様に危機感を抱いたのです。小村外相は林薫駐英公使をして日英同盟を打診するのですが、当時英国は超一流の誇り高き国家で、他国と同盟を結んだことのない国でした。それが極東の人口4000万人足らずの小国日本との同盟ですから、にべもなく断られても当然です。ところが義和団事件で見せた日本軍の厳正なる軍紀と国際法厳守の姿に、イギリスは注目していたのです。
 実は元老の伊藤博文は、ロシアを説得することが先決であるとして、日英同盟に反対していました。伊藤が反対では日英同盟を結ぶことなどできません。しかも伊藤は自信を持って単身ロシアの首都ペテルスブルクに乗り込みます。そして日露親交条約の話を持ちかけるのですが、適当にあしらわれた末、約束を反故にされます。かくて伊藤も遂に日英同盟の締結に賛成し、条約はめでたく成立するのです。

<続く>

真実の歴史講座 -5-

2005年06月25日 20時10分26秒 | 歴史のこと
  【ロシアの満州・朝鮮侵出】

 事件は終わり、八ヶ国と清国との講和条約も結ばれ、各国の軍隊はそれぞれ引揚げたにもかかわらず、ロシアだけは兵を引きません。各国は連名でいく度も抗議しますが、ロシアは兵を引くどころか満州に増兵し、恒久的陣地を構築します。そればかりか朝鮮にまで乗り出し、39度線まで兵を入れてきました。当時朝鮮は、日清戦争以後は自主独立を保障されたにもかかわらず、一向に独立の気概なく、大院君と王妃との内紛に明け暮れている有り様でした。
 三国干渉で、日本は「臥薪嘗胆」を合言葉に民族意識は高まり、「遼東還付の詔勅」を戴き、民族の団結と軍備の拡張に君民一体となって取り組みました。しかし朝鮮は、日本が三国干渉に屈服すると、親日派内閣を倒し、取って代わって親露派が勢力を拡大していきます。ロシア公使、ウェーバーは閔妃一派に接近し、これを懐柔してロシア軍をソウルに導き入れます。ロシア皇帝直属の「鴨緑江木材会社」に名を借りて偽装した軍隊を満州や竜厳裏に送り込み、ここに要塞を築きます。また、極東大守、アレキセーエフは、さらに朝鮮南端の巨済島や馬山裏にも侵出して来たのです。巨済島は日本の対馬の対面に位置し、晴れた日にはその姿が手に取るように見える島です。ここにロシアは軍港を作り、要塞を築こうとしたのです。まさに日本列島の腹部に刃を突きつけたのであります。
 外相の小村寿太郎はロシアと交渉し、「満州は中国の領土故何も言わないも、朝鮮に兵を入れたり要塞を築くことはやめて欲しい」と懇請します。これを「満鮮交換交渉」といいますが、この交渉も無駄でした。
 そうこうしているうちにロシア公使ウェーバーは、ロシア兵約200名をロシア公使館防衛という名目でもって引き入れ、親露派朝鮮人と謀って国王を王宮から奪取し、ロシア公使館に移しました。
 それから約2年間、朝鮮国王はロシア公使館の中で政務を執らされるという異常事態が続くのです。ということは、朝鮮政府はもはや完全にロシアの傀儡に成り下がったということです。

<続く>

愛知万博が開催できた真相秘話

2005年06月24日 12時15分20秒 | 社会のこと
 今年の3月25日から愛知県で国際万国博覧会(愛知万博・愛地球博)が開催されています。まずまずの人気ぶりで大勢の人々が訪れているようですが、そもそも何故日本で国際万国博覧会が開催されることになったか、その経緯、理由を知り、驚き、感動を受けました。
 その真相を明らかにしたのは、元南極観測船ふじ艦長で「マダガスカルに眠る特殊潜航艇を守る会」幹事の松浦光利氏で、次のように語りました。
 
 「8年前の平成9年(1997年)、万博開催地が決定される直前、世界各国の立候補地は熱心な誘致活動を展開していました。そのなかでカナダのトロントと日本の愛知が有望とされていましたが、カナダの方が優勢で、投票では大差でカナダになるだろうと言われていました。
 投票が行なわれる2ヶ月前の5月31日、アフリカのマダガスカル共和国の北端のディエゴスアレス湾を見下ろす高台で、日本海軍特殊潜航艇四勇士慰霊碑建立除幕式が、日本・マダガスカル両国の官民多数出席のうえ盛大に挙行されました。55年前の同日(昭和17年5月31日)、湾内に在泊していたイギリス艦隊を攻撃し、大戦果を挙げ、戦死又は行方不明となった四勇士、岩瀬勝輔大尉・高田高三兵曹長・秋枝三郎中佐・竹本正巳少尉の慰霊碑です。
 除幕式には、マダガスカル共和国総理大臣の夫人が出席されました。夫人は、祖国のために一命を捧げた4人の勇士と、それを称えた立派な式典に感激され、出席していた渡辺俊夫駐マ日本大使とマダガスカルに眠る特殊潜航艇を守る会の吹田幌会長に深甚の謝意を述べられました。そして、ご主人の総理に報告し、日本に対する協力を推進することを約束されました。
 当時、マダガスカルはアフリカ統一機構(OAU53ヶ国=現AU)の議長国でありました。マダガスカルの総理は、参加国に2005年万博開催地の日本への投票を呼びかけました。
 投票の結果、20数表の大差でカナダを逆転し、日本での万博開催が決定したのです。カナダに投票される予定のアフリカ諸国の票が日本に投じられたのです。」

 マダガスカルの国民は、初めて非白人国家が白人国家に勝利した日露戦争の偉業をよく理解しており、日本に尊敬と信頼の情を持ち続けているそうです。第二次世界大戦が勃発したとき、マダガスカルの人々の間では、日本帝国海軍がやって来て自分たちを白人(フランス)の植民地支配から解放してくれるのではないかという噂が囁かれたほどです。そして、実際に日本海軍の2艇の特殊潜航艇がディエゴスアレス軍港にやって来たのです。
 最後に松浦氏は次のように言いました。

 「マダガスカルの国民を感動せしめた四勇士。その余徳が愛知万博を導いた。万博開催に当たり、遠くアフリカの国の人々をも感動せしめた日本軍将校の勲を思い起こして欲しい。」

<以上>
 

真実の歴史講座 -4-

2005年06月22日 20時22分33秒 | 歴史のこと
  【三国干渉とロシアの南侵】

 この義和団事件が日露戦争の原因になるのです。この事件をきっかけにロシアは北からなだれ込んできました。土井晩翠の「アムール河の流血や」という歌をご存知ですか。アムール河に5千人の中国人をぶち込んで、人間筏にして流したという悲惨な事件ですが、この事件を手始めにロシア軍は南下して満州を占領してしまうのです。
 明治27年(1894年)から28年の日清戦争の結果、日本は下関条約で、次の条件を締結しました。
  一、清国は朝鮮が完全な独立国たることを認める。
  二、台湾、澎湖島及び遼東半島を日本に割譲する。
  三、賠償金2万テールを日本に支払う。
 しかし、締結からわずか1週間目に、ロシア・ドイツ・フランスの三ヶ国が日本政府に「遼東半島の割譲は東洋平和のためにはよくないので清国に返還せよ」と迫ったのです。いわゆる三国干渉です。日本はこの三国と戦う力などありはしません。涙を呑んでこの無謀な抗議に従いました。「夷を以て夷を制す」という支那流の外交政策で、遼東半島を取り戻したつもりだったのですが、この見返りとしてドイツは膠州湾(青島を含む)を、フランスは広州湾を掠取します。そしてロシアは、日本が返還させられた遼東半島をそのまま横取りするのです。清国は、この三国によって重要地点をもぎ取られてしまいます。清国の「生体解剖」と言われる所以です。
 そのうちロシアは、東清鉄道の施設権を取り、第二次アヘン戦争のドサクサを利用し、火事場泥棒式に沿海州を奪い、日本海にウラジオストックを開港します。このウラジオストックという名称は、ロシア語で「東方を制圧せよ」という意味だそうです。ロシアはシベリア鉄道をさらに延長して、このウラジオに連結すると同時にチチハルから南下して、大連と結ぶ「南満州鉄道の施設権」を得るのです。その時に義和団事件が起きたのですから、待ってましたとばかりに大軍を満州に送り込んできたのです。

<続く>

真実の歴史講座 -3-

2005年06月21日 20時53分56秒 | 歴史のこと
  【義和団事件(北清事変)】

 北京には日本の居留民もおり公使館もあります。他の七ヶ国(英・米・独・伊・仏・露・墺)の国々は日本に対し「あなたの国が一番清国に近いのだから大部隊を派遣してほしい」と要請しました。八ヶ国の総兵力2万8千人の内、半数以上の1万8千人を日本は派兵したのです。その総司令官は、シベリアを単独横断して勇名をとどろかせた福島安正少将(のち大将)であります。日本軍は天津に上陸し、各国軍の先頭に立って北京に入場します。
 北京の八ヶ国の公使館は、幸いに三方を城壁に囲まれ、一方に集中していました。この八ヶ国の公使館員及び居留民はあらゆる武器をかき集めて防戦したのですが、これを指揮したのが会津若松出身の柴五郎中佐(のち大将)であります。この柴中佐の勇敢にして適切な指揮によって、籠城60日間を持ち耐えたのです。八ヶ国の公使館は62日目に連合軍によって解放されるのです。この時、公使を義和団に殺害されたドイツ軍は、紫禁城に逃亡した義和団約2千名を砲撃すべく、紫禁城を見下ろす北側の丘に布陣しましたが、福島司令官の通訳、川島浪速が「待ってください。紫禁城は人類の文化財です。私が必ず城内に立て籠もる支那兵を降伏させますから、紫禁城の攻撃はやめてください。」とドイツ軍を説得したのです。川島浪速は単身紫禁城に乗り込み、得意の中国語で2千名の義和団を説得し、見事に降伏させることに成功しました。
 このときの日本軍の軍規の厳正ぶりは列国の賞賛の的となりました。先年のアロー号事件のとき、イギリス・フランス連合軍は有名な圓明園という清朝の離宮を目茶苦茶に掠奪しました。それに比して日本軍は軍紀粛清且つ勇敢で、ことに紫禁城を守った川島浪速の勇気と度量に感心した清朝の王族粛親王は、川島と義兄弟の契りを結び、川島を警務学堂(警察官養成学校)の校長に迎え、しかも自分の第七王女を川島の養女として嫁がせるのです。これが後の川島芳子、「男装の麗人」とか「東洋のマタハリ」とか言われたあの有名な川島芳子なのであります。
 そして八ヶ国と清朝との講和条約により、賠償金の他、居留民保護のための駐兵権が、日・米・英・仏等に認められるのです。後年、日支事変のきっかけとなった盧溝橋事件のとき、日本軍が北支に駐留していたのは、このときの条約に基づくものです。

<続く>

真実の歴史講座 -2-

2005年06月20日 19時17分03秒 | 歴史のこと
  【アヘン戦争とアロー号事件】

 このイギリスがアジアへと押し寄せてきます。フランスからインドを奪い、ビルマを領土とし、セイロン、シンガポール、マレーシアと奪っていきます。1840年には世界で最も醜悪な戦争、アヘン戦争を起こします。これはインドやビルマでできたアヘンを清国に売り込むのです。アヘンという麻薬は人体に非常な害を及ぼします。このアヘン中毒を防ぐために清国はアヘンの密輸を禁止して、林則徐という気骨のある男を広東に送りまして、取り締まりをさせました。するとイギリスはアヘンの密輸船を拿捕したのがけしからんと言って戦争を始めたのです。この戦争によって清国は香港を割譲され、上海や寧波を始め五つの港を開きました。
 それだけでは済みません。1865年には第二のアヘン戦争、アロー号事件を起こします。その原因もアヘンの密貿易を防ごうとしたものですが、今度はイギリスとフランスが手を組んで天津と北京を攻めます。このアロー号事件によって天津条約、後に北京条約が結ばれ、これによってイギリスは九龍半島を奪い、フランスは清国からベトナムの宗主権を奪ってベトナムをラオスやカンボジアと共に植民地にするのです。
 さらに揚子江沿岸の都市を始め北京・天津・広東など大都市に治外法権が設けられ、裁判権は白人が握ってしまい、関税がなくされ、いわゆる不平等条約が押し付けられるのです。キリスト教の布教は自由にされ、鉄道の施設権を握られ、つまり清国にとっては「生体解剖」状態です。清国を完全に半植民地化してしまったのです。
 これに反発して起こったのが義和団事件です。義和団は、西洋の勢力であり侵略の手先であるキリスト教会を破壊して、元の清国に復元しなければならないという運動に端を発しています。山東省に火を発し、北京に波及して、八ヶ国の大公使館を囲みます。このときの総大将は西大后という女性でありますが、この運動を抑えずに逆に煽り、八ヶ国に宣戦布告をしました。明治33年(1900年)のことであります。

<続く>

真実の歴史講座 -1-

2005年06月19日 11時13分47秒 | 歴史のこと
  【大航海時代に始まる白人帝国主義の世界制覇】

 世界の歴史を眺めるときは、15世紀から始まった大航海時代から見なければなりません。コロンブスが1492年にアメリカに到着しました。発見ではありません。あそこにはちゃんと先住民がいて、社会が成立していたのです。バスコ・ダ・ガマがアフリカの南端を回って1498年にインド洋に出ました。1522年、マゼランが南米の南端を回って太平洋に出ました。こういうスペイン、ポルトガルの航海術に長けた時代を大航海時代といいます。しかし、これは美名であって、その中身は西欧白人帝国主義による世界制覇が始まった時代であります。島を見つけて自分の国旗を立てれば、その国の領土になるのです。そして、そこに住む住民は武力でこれを征伐し、奴隷にし、その国から香辛料や金銀財宝を掠奪して帰国するのです。
 あの有名な歴史学者のトィンビーは、『歴史の研究』の中で、こう書いています。「さながら羊の毛を刈るがごとく侵略したのだ。相手は弓とか槍しか持っていないのに、大砲や鉄砲で攻めた。白人は半神であり、土着民は歩く木か、ものを言う動物であり、人間とは見ていないのだ。だから、鉄砲で次々に殺そうと奴隷にしようと、少しも良心が咎めることはなかったのだ。」
 そして、スペインとポルトガルがあちこちで領土争いをするものですから、ローマ法王が条約を作りました。それは、東経45度を境に東はスペインの管轄、西はポルトガルの管轄と決めました。つまり白人は勝手に世界を自分のものにしようとしたのです。次にはオランダが出てきます。フランスも台頭してきます。最後にイギリスが産業革命を成功させて、その力で世界を制覇していきます。こうして「七つの海に日没することのない」と言われるほどのイギリス植民地帝国が築かれるのであります。

<続く>

真実の歴史講座 -序-

2005年06月18日 19時30分18秒 | 歴史のこと
 「もう放っておけない。学校や先生には任せておけない。これ以上放置しておくととんでもないことになってしまう。」という良識ある多くの方々からの声により、私たち自らで本当の歴史、真実の歴史を子供たちに教え、伝えていかなければならないとの決意を固め、それが為にはまず私たち大人が改めて今一度、歴史の真実を勉強する必要があるとの結論に至りました。
 今回はその教材のひとつ、田中正明先生(教科書を正す親子の会会長・元国際平和協会専務理事)の著述を「真実の歴史講座」と題し、これから順次記していこうと思います。近現代の歴史の大きな流れを頭に入れるのに大変役に立つと思われます。
 「小学生、中学生、のお父さん、お母さん。あなたのお子様は、学校や先生から、嘘のことを教えられていませんか。洗脳されてはいませんか。」

<続く>