テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -32-

2005年08月19日 10時49分20秒 | 歴史のこと
  【大東亜戦争と東南アジアの国々(インドネシア)】

 インドネシアには「ジョヨボヨ伝説」という伝承があります。「黄色い肌をした英雄(インドネシアではトビメラと言います)が北方から現れ、白人どもを追っ払ってくれる。そしてジャゴンの花が咲く頃には、黄色い英雄は去って行く。」という伝説です。
 インドネシアに上陸した部隊の中に、拓大出身で陸軍中野学校を出た柳川宗成中尉がおりました。彼は二人の通訳を連れて、単身バンドンに乗り込みます。バンドンにはオランダ軍の司令部があり、テルボーデン中将が指揮を執っています。柳川中尉は上陸すると、参謀の命を受け、単身バンドンに潜行するのです。オランダ兵の目を誤魔化すために変装し、道なき道を主に夜間潜行します。その途中に民家で食事を戴くのですが、この時その家のお年寄りが、柳川中尉を神様のように拝んで、厚くもてなしをするのです。柳川中尉が不思議に思って通訳に尋ねさせると、老人は「ジョヨボヨのトビメラが来られたので歓待しているのだ」と言うのです。柳川中尉は「よし、俺は今日からトビメラになろう」と決意し、オランダ軍司令部に乗り込みます。
 「テルボーデン中将はおらんか、俺は日本の将校参謀だ」と言います。「いま寝ています」とオランダ兵が言うのに対して「ならば起こして来い」と言います。その気迫に圧倒されて、テルボーデンは二階から降りて来ますが、その足は震えていたそうです。柳川中尉はテルボーデンに迫ります。「日本軍は既にここバンドンを三方から取り囲んでいる。貴下は部下将兵のためにも市民のためにも、一刻も早く速やかに降伏しなさい。」柳川中尉もいきなり随分と目茶苦茶なことを言ったものですが、これは日本軍の上陸7日目のことです。9日目にはテルボーデンは、チャルダ将軍総督以下3人を連れて、白旗を揚げて今村軍司令官に降伏したのです。何故このようにたいした戦闘もせずに降伏ということになったのか。それはインドネシアの民衆が立ち上がったからです。「万歳、万歳」と民衆が日本軍を解放軍として迎え、オランダ軍は民衆から見放され、完全に孤立化してしまったのです。
 次に、日本軍はインドネシアを独立させるために、インドネシアの青年を教育し、独立への気概を養います。オランダは文盲政策を採っていましたので、独立するにしても指導者も行政官もおりません。そこで日本は、インドネシアの将来も考え、小中学校をはじめ、商業・農業・海水産等の色々な学校を作り、中堅層を養成するのです。それだけでなく、3万8千人の祖国防衛義勇軍(PETAと言います)を養成します。日本の陸軍士官学校に倣い、将校を教育し、戦える軍隊を作るのです。兵補、即ち軍隊を補完する武器弾薬の製造・輸送や、電話線を施設したりする兵卒を10万人作ります。これらが後にインドネシア独立戦争の主力となるのです。
 さらに、日本軍から、終戦後に帰国することを拒み、脱走してまでもインドネシアに残り、インドネシア軍を率いてオランダ軍・イギリス軍等と戦った日本の将兵は、1千人とも2千人とも言われています。4年間に亘りインドネシア軍を指導し共に戦ったこれらの日本兵は、戦死者だけでも400名、今もなお帰国せずにインドネシアに帰化している旧日本軍人も多くいます。これらの方々はジャビンドウと言われ、インドネシアの人々から尊敬されています。
 このインドネシアの独立がマレーシアに移り、ベトナム、ラオス、カンボジア、フィリピン、さらにはインドの独立へと結びつくのです。即ち、アジアの国々の独立の端緒となったのが、日本が養成したインドネシア独立防衛義勇軍(PETA)だったのです。スハルト大統領もPETAの将校の一人です。独立後は、PETAの人たちがインドネシア軍の中心となり、インドネシア政府の中核となったのです。
 インドネシア政府は、独立に貢献したということで、国家最高勲章である「ナラリア勲章」を前田精海軍少将、軍政官の稲嶺一郎、清水斉、金子智一、高杉晋一等7名に授与しています。大東亜戦争は、アジア侵略戦争などでは決してありません。実は、アジア独立解放戦争であったのです。

<続く>

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