テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -30-

2005年08月14日 20時32分48秒 | 歴史のこと
  【ハルノートは事実上の宣戦布告】

 既に開戦を決意しているアメリカは、甲案も乙案も蹴ってきます。つまり、11月26日に所謂「ハルノート」を突きつけてくるのです。これはもう宣戦布告です。日本が譲歩に譲歩を重ね、最終的に甲案・乙案まで作って努力したものを、ハルノートは木っ端微塵に拒否したのです。拒否したばかりか、ハルノートが突きつけてきた内容とは信じ難いものでした。
 一つには、「仏印は勿論のこと、支那全土から一切の陸海軍及び警察を全面的に撤収せよ。」
 二つには、「日本が日清と日露の両戦争で獲得した権益、即ち満州を放棄せよ。」
 三つには、「支那においては蒋介石の重慶政府以外は全部否認すること、つまり汪兆銘政権や満州政権も認めない。」
 四つには、「日独伊三国同盟条約を破棄しろ。」
 日本は真っ青になりました。閣僚全員が、これは宣戦布告と認識しました。このことをパール博士は次のように述べています。「このような最後通牒を受けたならば、例えモナコ王国やルクセンブルク公国でも、アメリカに対して武器を持って立ち上がったであろう。」これだけ舐められ、コケにされれば、どのような国でも立ち上がらざるを得ないだろうと言うのです。ハル国務長官自身も「私のやることはこれで終わり。後はスティムソン(陸軍長官)とノックス(海軍長官)の出番だよ。」と言ったそうです。
 スティムソンの日記には、「日本を最初の発砲者たらしめるのは危険であったが、どちらが侵略者であるかを明白にし、アメリカ国民の完全な支持を得るには望ましい方法だ」と書いてあります。その日記には、ハル、スティムソン、ノックス、ルーズベルトの4人が集まっては、如何にすれば日本が挑発に乗ってくるかを何回も何回も相談したと書いてあります。
 この日本に対する挑発の一例が、カムラン湾沖に出した4隻のおとり船です。おとり船というのは軍艦に仕立てた廃船です。これを浮かべて、日本軍がこれを攻撃したら応戦のきっかけにしろというのです。ルーズベルトは12月1日を日本の攻撃日と判断し、その日に各地の軍司令官宛に戦争準備指令を出しています。ところが、ハワイの軍司令官だけには出していません。
 もう一つ重要なことが後から発見されています。パトナム少佐の日記がウェーキー島で日本軍に押収されたのですが、この日記には、11月27日、即ちハルノートの翌日、アメリカが開戦の極秘命令を出していることが詳しく書かれてあるのです。パトナム少佐自身がウェーキー島に派遣され、日本の軍艦を発見次第、即刻攻撃してよいとの秘密命令を、彼が受けていたのです。

<続く>

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