テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

「中国の中学校歴史教科書」の真実 そのニ

2005年04月21日 12時26分54秒 | 歴史のこと
中国の教科書に登場する日本は残虐事件だけで、しかも嘘ばかり。

例えば、「済南事件」の記述は次のとおりです。
『……日本帝国主義は国民政府の北伐を阻止するため、公然と出兵して済南を占領し、中国の兵士や民間人6,000人余りを殺し、「済南虐殺事件」をひき起こした。……また理不尽にも国民政府山東省交渉員蔡公時らを強制連行した。蔡公時は日本軍に抗議をした。日本軍はまず彼の耳と鼻を切り取って目をえぐり、それから彼を殺害した。』

昭和3(1928)年、日本軍が蒋介石の北伐軍から邦人を守るため出兵した際(第二次山東出兵)、日本軍と北伐軍が衝突する済南事件が起こりましたが、事実は全くの逆で、虐殺されたのは日本人の方でした。
敵の残兵掃討のため日本軍が交渉公署の建物を探索中、不意に発砲されたのでこれに応酬し、建物の中で殺害されたなかに交渉員の蔡がいたため国民党の宣伝材料に利用されたというのが事実です。そもそも常識から言っても、日本軍が敵とはいえ、相手の交渉責任者の「耳と鼻を切り取って目をえぐり」といった残忍な手口で殺害するなどということはあり得ません。
逆に、蒋介石軍によって、このような残忍な手口で虐殺されたのは日本人居留民の方であり、外務省が国際連盟に提出した覚書には、「支那兵が日本人居留民男女に加へたる蛮行は、その残虐云ふに忍びざる程度のものあり」とあります。

また、中国教科書には、中国共産党による作り話ということが既に明らかになっている「万人坑」や「三光作戦」も残虐に記述されています。

1950年10月突然、人民解放軍が独立状態にあったチベットに侵攻、占領し、占領後の抵抗運動に対しては徹底した弾圧を加え、老人と女性子供しか残っていない村落への爆撃、何千もの公開処刑という大虐殺を各地で行なったという事実を、中国教科書では、人民解放軍が帝国主義者と結託した上層反動分子からチベットを平和的に開放したとし、進軍する人民解放軍の写真の下には「チベットの平和解放後、…人民解放軍先遣隊はラサに進駐し、チベット地方政府と市民の熱烈な歓迎を受けた」と全く事実とはかけ離れた説明をしています。

1989年6月、胡耀邦元総書記追悼集会に集結したデモを鎮圧するために人民解放軍が北京天安門広場に進軍し、数千人の犠牲者を出した「天安門事件」を中国教科書は記述しません。

1972年の日中共同声明で中国側が賠償を放棄したことも1978年に日中平和友好条約が締結されたことも中国教科書には一切書かれていません。
日本からのODA(政府開発援助)のことは、その金額はもとよりあることすら全く出てきません。

中国の教科書は都合の悪い事実は隠し、都合のよいように事実を歪めたもので、日本の方こそ中国に対して正しく歴史を認識するように猛烈に抗議するべきではありませんか。

<以上>

「中国の中学校歴史教科書」の真実 その一

2005年04月20日 17時15分56秒 | 歴史のこと
中国は日本の中学校歴史教科書に対して「正しい歴史認識が書かれていない。日本は正しく歴史を認識するべきである」と非難し、検定合格を取消せとまで内政干渉しています。
それでは中国の中学歴史教科書には、どのように「正しい歴史認識」が書かれているというのでしょうか。
先日、日本政策研究センターから「ここがおかしい中国・韓国歴史教科書」という冊子が発刊されました。
その中の一部を記しておこうと思います。

中国歴史教科書の近現代史に日本が最初に出てくるのは「台湾出兵」の記述で、次のように書かれています。
『19世紀の1870年代、日本は軍隊を派遣し……わが台湾を侵略する戦争を起こした。……イギリス、アメリカ、フランスなどの国々が「調停」に乗り出し、日本が中国から銀50万両巻き上げることを、日本軍撤退の条件とした。』

「台湾出兵」は、明治7(1874)年、宮古島の住民66人が台湾に漂着し、その内の54人が台湾先住民によって殺害されたことが発端で、日本がその責任を清国に問うたところ、清は台湾を「化外の民、化外の地」(中華文明に浴さない人や地域)であるとして責任を回避した為、日本が台湾に出兵したというものである。
なにも台湾を侵略する目的で戦争を起こしたのではありませんし、また台湾を「化外の民、化外の地」としておきながら「わが台湾」と書くとは、呆れるばかりです。

また、中国教科書はあの日露戦争について一行も触れていないのです。
日露戦争の日本の勝利によって満州など中国大陸からロシアの影響力が後退したのですし、なによりも世界各地の民族独立運動に多大な影響を与えた世界的重要史実にもかかわらず中国教科書は全く無視しているわけです。
孫文は、日露戦争での日本の勝利を次のように述べています。
「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、アジア全体の民族は非常に歓喜し、そして極めて大きな希望を抱くに至った」
中国の教科書は、これを全く教えない。

正しく歴史を認識すべきは中国の方ではないでしょうか。

<続く>

中国反日デモに思う

2005年04月12日 21時59分22秒 | 報道のこと
「歴史問題で不満表明」 反日デモで中国外務省 (共同通信) - goo ニュース

この件(中国の反日行動)に関しては敢えて触れないでおこうと思っていましたが(あまりに馬鹿馬鹿しすぎて)、こうも連日、過激に、となるとひとつ記しておくことにしましょう。

中国は日本に対して「歴史を歪曲して教えようとしている」とヒステリックに喚きますが、では中国の教科書は近現代史をどう教えているのでしょうか。ほんの一例を見てみましょう。

①中国は自衛以外の戦争はしたことがないと教科書で教えています。中国軍がチベットやベトナムに侵攻したことは一切教えません。
②第二次世界大戦において日本を敗北させたのは中国共産党軍によると教えています。日本はアメリカに敗北させられました。
③毛沢東の失政により三千万人以上が餓死させられた事実は全く教えません。
④朝鮮戦争はアメリカと韓国が北朝鮮に攻め込んだことで始まったと教えています。
⑤天安門事件は一部の撥ね返り騒乱分子が国家転覆を図った犯罪行為であったとしています。

以上のように、中国の教科書は歴史をゆがめ共産党一党独裁政治の都合のいいように捻じ曲げられているのが真実です。
反日デモに参加した中国人(特に若者)は、ある意味では嘘の歴史を教えられた不幸な人々と言えなくもありません。
真実とは反対のことを教え込まれ、それを信じて疑うことでもきず、その結果として反日デモに加わり、日本製品不買を叫び、その様子をキャノンのデジカメやソニーのビデオで撮影している人々。
それにしても世界中の誰もが知っている歴史的事実を歪曲して教えられているとは、世界中からの笑い者とは言いながらあまりにも悲惨且つ哀れすぎると言わざるを得ません。

<以上>

「名張毒ブドウ酒事件」で思い出す「免田事件」の…

2005年04月08日 22時48分26秒 | 報道のこと
再審開始決定で異議申し立て 毒ブドウ酒事件で高検 (朝日新聞) - goo ニュース

「名張毒ブドウ酒事件」再審開始の報道を知り、ひとつ思い出したことがあります。
昭和58年7月15日、死刑囚免田栄に熊本地裁が再審無罪判決を下した日。
その報道の中で、両親を惨殺され自身は重傷を負いながらかろうじて命を取り留めた娘さん(長女か次女かは忘れましたが)のコメントを。
「忘れようとしても私は決して忘れることなどできません。あの瞬間のあの犯人の顔を。今でもはっきりと覚えています。その顔は間違いなく今日無罪となった…その顔でした」こんなふうな内容だったと記憶しています。
「無実を勝ち取るのに34年と6ヶ月を要した」とほとんどのマスコミが免田栄をヒーロー扱いしていた中で、小さく報じられた助かった娘さんの声。強烈に頭の中に染み込んだのを思い出します。
「疑わしくは被告人の利益に」という概念で無罪放免となっしまう。
さて、奥西勝死刑囚はどうなのか…。

-免田事件-
昭和23年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市の白福角蔵氏(当時76歳)、妻のトキエさん(当時52歳)、長女(当時14歳)、次女(当時12歳)の一家4人が就寝中に、鉈でメッタ切りにされたうえ、包丁で喉を突かれて両親が即死、娘二人が重傷を負った。

<以上>





日本の朝鮮統治の真実 六、「敗戦でともに流した涙」

2005年04月07日 13時25分59秒 | 歴史のこと
今岡さんが内地に引揚げたのは昭和20(1945)年の暮れのことだというが、終戦直後の朝鮮はどのような様子だったのだろうか。

「終戦の時は京城帝大理科教養の学生で、満20歳でした。1年前に繰り上げ召集があって、19歳で徴兵検査を受けましたが、私は理科系だったので召集延期になった。文科系の学生は皆学徒出陣で行きましたが…。
 結局、私は軍隊に行かずに終戦を迎えましたが、日が経つにつれて、京城の駅頭は、流民のような人達で溢れるようになった。着ているものがボロボロで疲弊しきっていたので、一目で北朝鮮や満州から逃げてきた人だということが分かりました。
 今の若い人は知らないかもしれませんが、終戦間際にソ連は不戦条約を破って満洲に侵攻し、虐殺、略奪、暴行などの悪逆の限りを尽くした。特にご婦人方はソ連兵に集団的な暴行を受け、大方はその場で舌を噛み切って死んだんです。でも、どうしても生きなきゃならない人は、恥を忍んで38度線を越えてきた。それはもう本当に悲惨でしたよ。私ら学生は附属病院の看護婦さんや大学の教授陣とともに、そういう方々の手当てをしたり、『死んではいけない、生きて内地に帰ろう』と励ましたりしていました。
 ついでに言えば、酷かったのはソ連軍だけではなく連合軍も同じです。
 釜山で引揚船が来るのを待っている間、埠頭で皆野宿しなければならなかったんですが、その時進駐していた豪州兵はたちが悪くて、腕時計や金目の貴重品はほとんど奪っていきました。夜も、巡回だと言っては『オジョウサンオランカ、ガールイナイカ』と、銃剣を持ってうろうろする。しょうがないから、私らはリュックなどの荷物を積上げて、その下に女の人を押し込んで『おらん、おらん』と言って追い返しました。戦後は日本ばかりを悪者にしていますが、ソ連軍や連合軍の方が余程酷いことをしたと思いますね。
 そんな中でも嬉しかったのは、引揚船が入ってきた時でしたね。興安丸という船でしたけど、釜山の埠頭の向こうから煙を上げて港に入ってくるときに、船尾に日の丸が見えたんです。それで皆一斉に『あーっ、日の丸だ』と目を見張った。とにかく終戦の次の日から『日没と同時に日の丸を降納せよ。以後再び揚ぐることを禁ず』という状況でしたからね。
 でも、よく目を凝らして見ると、旗の三分の一くらいが千切れていて、どす黒く灰色になっていた。日の丸の赤も色があせてね。それを見て、皆抱き合って泣きましたよ…。」

今岡さんは、最後にこんな想い出を話してくれました。

「今、韓国人の書く歴史では、日本の敗戦で朝鮮が解放され独立を喜ぶ『万歳』の声が全土に響いたことになっています。しかし、実際は敗戦の報を聞いて半島の人は日本人の手を取って一緒に泣いたんです。もう身も心も日本人になっていましたから、『何で負けたんだ』と皆涙を流して悔しがりましたよ。私らが内地に引揚げるときも、『連れて行ってくれ』と泣いてすがりつく半島人がたくさんいました。内地は滅茶苦茶で内乱状態だというデマが飛んでいましたから、『ついて来ても苦労するだけだ。私らも飢え死にするかもしれないし、乞食するかもしれないから』と言って断るのですが、『いや、そう言わないで』と…。
 戦後の韓国では、そういうことは一切言えないようになりましたから、公の場にはそういう話は出てきません。しかし、今でも京城大学の同窓会をやると、そんな当時の想い出を赤裸々に語り合うこともあります。それこそ、歴史の真実というものではないでしょうか。」

嘘の歴史ばかりを教えられ、そしてそれを信じて疑わず、決して真実を知ることなく一生を終えていく韓国・朝鮮の人々。本当に悲しく哀れな民族と言わざるを得ません。

<以上>

鬱陵島について(補足)

2005年04月07日 11時05分15秒 | 歴史のこと
李氏朝鮮が鬱陵島に対して行なった空島政策は、1438年から1881年までの実に440年間以上に亘る。
犯罪人や流浪者など朝鮮人民を鬱陵島に逃入させないために、謂わば国内向けに朝鮮の領有にあらずと表明したものといえる。対馬藩の宗氏との交渉で、日本に対して(外向け)は朝鮮の所属と主張している。
しかしながら、元禄9年に日本側が譲歩して鬱陵島を李氏朝鮮に譲った形となって以降も空島政策は実施され、官吏も常駐させないという状態が続き、これは国際法上の「無主地」であり、朝鮮は事実上鬱陵島を放棄していた。
それ故実際は、その後も日本人の漁民は鬱陵島を訪れ、上陸もしていた。国際法上「無主地の先占」が行なわれていたと解釈すれば、鬱陵島も日本の領土であると主張できはしないか。

<以上>



日本の朝鮮統治の真実 五、「日本人への逆差別?」

2005年04月06日 13時29分14秒 | 歴史のこと
さらに、今岡さんは「差別と言えば、むしろ日本人の方が…」と以下のような話をしてくれた。

「”差別”の話を聞くと、私らが実際向こうで体験したこととは違うじゃないか、と言いたくなるんです。例えば、36年間の朝鮮統治のうち、最初の10年間は朝鮮人は経済的な負担能力ができるまで免税されていた。つまり、26年間しか税金を納めていない。また、徴兵の義務は35年目の昭和19(1944)年から1年間だけです。そういう意味での逆の差別は確かにあった。だから、私らも時たま『おい、朝鮮人のほうがええなぁ』とつぶやいたもんです。結局、我々日本人から見ると、『内地人は我慢しろ辛抱しろ、半島人(朝鮮人)はお客さんだから大切にせないかん』という空気があった。
 私らがその”差別”を一番感じたのは、戦時中の配給です。内地が物資不足で配給制になってから、外地にいる内地人にも配給制度を適用しなければならないということで、朝鮮半島の全人口の3%にあたる日本人にも、物資の配給が行なわれました。しかし、日本人だけで朝鮮人には適用しなくてもいいのかという議論が出てきて、結局、朝鮮総督府は日本人にも朝鮮人にも全く同等に配給を行なったのです。
 例えば、砂糖の配給は、3%の日本人も97%の朝鮮人も同じように行なわれました。ところが、朝鮮料理というのは砂糖を使わないのです。甘味料は何かと言えば、蜂蜜と干柿をすりつぶしたものなんですね。だから、朝鮮人は使わずに日本人にあげたりしたし、京城の街角では砂糖の袋が山積みになって売られていた。
 お米も同じです。だいたい朝鮮人は昔はアワやヒエ、或いはそれにアヅキを乗せて食べて、白米は貴重品でした。だけど配給だから、皆白いお米がもらえる。しかも、日本人はだんだん配給量が減っていったのに、朝鮮人は最初から最後まで同じ量をもらえました。
 配給が始まった当初、一人当たりの配給量は一日三合三勺だったんです。それが二合三勺になって、最後は一合七勺になりましたよ。ところが、朝鮮人は最後までずっと三合三勺です。これを食べないから、『奥さん買って』と街角で売られることもあった。
 おそらく、朝鮮総督府としては戦時中のことですから少しでも物資の節約はしたかったと思います。しかし、それでも総督府は敢えてそういうふうに努力した。朝鮮には朝鮮の風俗習慣があるのだから、実情に合わぬ無理な配給はしなくてもよかったと思うんですがね。
 日韓併合というのは、日本が一方的に朝鮮を侵略したという話ではなくて、朝鮮の民衆を救うために行なわれたんですよ。当時韓国政府は財政破綻していて、役人、軍人の給与も半年以上も支払われず、人民の苦しみは極限に達していました。
 大韓帝国最後の皇帝となった純宗皇帝の勅諭には、色々やってはみたが万策尽きた。もう日本の天皇陛下の御仁慈にすがるしか生きる道はない。しかし、決してお前達民衆を見捨てるわけではない。お前達の為なのだと、民衆に親しく語りかけておられます。少なくとも、朝鮮統治は純宗皇帝のその思いを裏切りはしなかったと思います。
 ちなみに、併合後は同じ日本国民になったので、朝鮮人を半島人、台湾人を本島人、日本人は内地人と呼ぶようになりました。」

明治43年8月29日の「韓国を帝国に併合する詔書(韓国併合の詔)」には、朝鮮の民衆が安らぎと幸福に満ちた生活ができるようにしたいということが謳われている。
また、大正8年8月19日の「朝鮮総督府官制改革に関する詔書」には、朝鮮が平和で安らかなことを念じ、日本人と朝鮮人をいささかも差別することなく、各人がその能力に応じた地位を得て充実した人生が送れるようにしたい、という願いが謳われている。

それにしても、韓国の恩を仇で返すがごとき態度、言動にはただただ呆れ返るのみというほかはない。

<続く>



日本の朝鮮統治の真実 四、「日本による善政のお陰」

2005年04月05日 17時22分49秒 | 歴史のこと
今岡さんは他にも、徴用や賃金格差といった差別について、それは誤りで差別がなかったことを指摘された。

「今お話したように、統治時代のことについては戦後誇張されている嘘がいっぱいあるわけですが、実際には”一視同仁”を実現するために、朝鮮総督府は本当によくやったと思います。
 例えば、併合直後に朝鮮に渡った私の大叔父の話によると、釜山港に上陸したら道らしい道がないことに驚いたそうです。なかには、道の真ん中に家が建っているところもあった。なぜかと言ったら、とにかく千三百年間支那の属国でしたから、道路を作ったら侵略されるということで、道らしい道がなかったのだそうです。
 それから、家にトイレもなかったから、臭いがものすごかったそうです。朝鮮人は部屋の中で用を足し、その大小便を朝、窓から捨てるから、もう臭くてプンプンしていた。伊藤博文が仁川で上陸してソウルの王宮まで行くのに、臭くてとてもかなわんということを書いてますけれども、当時の朝鮮の人に言わせるとそれがいいと言うんだ。異民族が侵入してこない為にもこれがいいんだと。そういう非衛生的な状態が蔓延していたから、コレラ、チフスがすぐ出る。それに、病院がないから人がバタバタ倒れて、その辺にゴロゴロしていた。大叔父はそのような話をしていました。
 日本人はそういう所に行って、街路をきれいに整備した。そのお陰で朝鮮は36年間で近代都市に生まれ変わることができたんです。また、病院を次々と作って衛生思想を普及した結果、コレラ、チフスといった伝染病が根絶され、餓死者が一人も出なくなった。餓死者というのは、栄養失調だけでなくて、病気もありますからね。この功績はいくら強調してもし過ぎることはないと思います。そういう朝鮮総督府の善政は、朝鮮の民衆がよく知っていたはずなんですよ。
 それに、併合以前は身分差別がひどかったんです。特に人口の四割を占めていた奴隷(奴婢)階級の人は、それまでは戸籍もなければ、姓も許されていなかった。それが、日韓併合によって戸籍ができて姓を持つことを許された。当時、朝鮮の奴隷は家畜同然で、売買の対象でもあり、結婚もできなければ、一般の人と同席することさえ許されなかったほどです。
 身分は上から、両班、中人、常民(良民)、という序列になるわけですが、の中にさえ階級が五つくらいあるほど厳しく酷い階級差別があった。これが朝鮮総督府の”四民平等””門閥廃止”という政策によって、全く身分差別がなくなった。ものすごい大福音です。だから戦後、日本人は日帝36年の間、朝鮮人を奴隷のように扱い徹底的に差別したなどとまことしやかに言われるけれど、もしかしたらそう言っているのは身分差別の撤廃によって威張れなくなった7%の両班階級の人達が恨んで言い出したのかもしれません。」

本当のことを知っている韓国人は、もうそろそろ勇気を出して真実を明らかにするべきではありませんか。

<続く>

日本の朝鮮統治の真実 三、「創氏改名の強制?」

2005年04月04日 15時10分51秒 | 歴史のこと
「”創氏改名”ですが、これはもともと朝鮮総督府の意思で始めたわけではなく、朝鮮人が熱烈に望んで始まったんです。
 どういうことかと言いますと、当時日本は列強の一つだったので、海外に出たら白人並みの待遇を受けていた。けれども、朝鮮人は相手にもされなかった。満洲で朝鮮人が支那人から馬鹿にされていたというのはよく知られている話です。
 そういう背景があって、『名前だけでも日本人の名前を使わせてくれ』という陳情が当時朝鮮総督だった南次郎大将のもとに殺到したわけです。それがあまりにも頻繁に続くので、昭和15(1940)年、皇紀二千六百年の記念事業で創氏改名が許されたんです。
 昭和14(1939)年10月22日付の総督府官報をみると、半年に限って希望する者は創氏改名を許可する。半年経っても届け出ない者は従来通り。つまり、希望者だけの申告制であることがはっきりと明記されています。
 当時の朝日新聞を見ると、法令が出るともう喜んで喜んで一門を集めて会議を開いて、うちはひとつこういう姓にしようじゃないか、一門は一門で統一しておこう、というふうな様子が書かれている。
 結局、創氏改名したのは八割弱で、二割ぐらいは以前のままで通した。もし本当に強制だったら二割も残るわけがない。
 それからもう一つ、神社参拝を強制したという話がありますが、これは学校で集団参拝に行っていたことだと思います。集団参拝は支那事変が始まってから行なわれたんですが、何を祈るかというと、戦勝祈願や軍人さんの無事です。
 今ではちょっと想像もつかないと思いますが、支那事変以降は本当に朝鮮全土で対日感情が好転し、愛国的な雰囲気で沸き返った。”米英のアジア侵略を阻止し東洋平和を確立する”という日本の国家目標の実現が朝鮮の将来の独立と繋がっていると理解していたんでしょう、出征軍人の歓送迎なんかはそれはもう熱烈なものでした。日満豪以外は白人に侵略されていたんですから、朝鮮人の中にも、結局日本がいなかったら白人の植民地にされていたということが判っている人がたくさんいたんだと思います。
 私のいた京城では、京城神社が建てられましたが、その氏子総代は朝鮮人でした。また御祭神はというと、天照大神、明治天皇、プラス朝鮮国魂神です。国魂神というのは国土の神様のことで、そういう御神名をつけて朝鮮の国土神をお祭りしたんですね。これは大和朝廷が出雲を支配下においたら、出雲の神様を祭ったのと同じで、朝鮮には朝鮮の国土神があるのだから、朝鮮人は檀君や朝鮮の神々を祭って、それでよろしいということなんです。お神楽をあげるときも、日本風のピーヒャラヒャラというもののほかに、朝鮮式のドンジャラーというのがあった。
 神道は宗教を超えた存在でしたから、それぞれが信仰する仏教をやめて神社を拝めとか、儒教をやめて神社を拝めというように強制したわけはありませんでした。もちろん、総督府がおふれを出して、そんなことやらせたことは一切ありません。」

日本人が朝鮮人に創氏改名や神社参拝を強制したことなどありはしなかった。

<続く>

日本の朝鮮統治の真実 二、「日本語の強制?」

2005年04月03日 13時39分54秒 | 歴史のこと
「さて、戦後は、総督府が学校で朝鮮語を使用することを一切禁止して、日本語を強制したというふうに言われます。また、ひどいのになると、家に帰っても朝鮮語を話すことは禁止で、日常生活が全て日本語でなきぁいけなかったという人がいる。しかし、そんなのは不可能ですよ。終戦当時でさえ日本人は朝鮮の全人口の3%です。その3%の日本人が97%の朝鮮人に朝鮮語を使ったらいかんと強制するなんて、常識で考えてもそんなことできるわけがない。
 私も中学校では英語の時間に、ある程度レベルが上がってきたら、英語の先生から『英語の授業中はオール英語。日本語は一言もしゃべるな』というルールで授業が行なわれたことがあった。これは英語が上達するために必要な勉強方法であって、同じように日本語を教える場合でも『今から朝鮮語は使っちゃいけない。この時間は日本語の時間だ』というのはあったでしょうけれども、家に帰ってまで使ってはいけないなんて馬鹿な話はありません。実際、朝鮮総督府から”本日限り朝鮮語は禁止する”という法令なんか出ていません。」

朝鮮総督府が出した教育関連の法令を調べてみると、朝鮮語は統治期間のほとんどにあたる明治44(1911)年から昭和12(1937)年まで、国語(日本語)とともに正課、つまり必修科目になっている。
翌年に正課からは外れたが、加設(選択)科目として教えられていた。
それどころか、今岡さんは、「日本人の方が朝鮮語を一生懸命勉強した」と言う。

「当時は皆朝鮮に渡ったら、とにかく朝鮮語を覚えろということを言われました。朝鮮語を覚えなければ、役人は朝鮮の実情を知ることもできないし、教師は授業もできないからです。
 ですから、その習熟度に応じて試験があったんです。いくつかの段階が設けられていたんですが、まず挨拶や簡単な日常会話ができる程度。その上が、歴史教育などの授業ができる程度。そして完全に朝鮮人に指導できる程度。そういう段階に応じて手当ても付いたんですね。そういうことがきちんと法令で定められています。事実、私の父の周りの人も皆朝鮮語を覚えて試験を受け、手当てをもらっていました。」

日本人が朝鮮人に朝鮮語を禁止し日本語を強制したことなどありはしなかった。

<続く>

日本の朝鮮統治の真実 一、「学校と教育」

2005年04月03日 12時18分36秒 | 歴史のこと
日本の統治時代を悪逆非道の「日帝36年」とする韓国の主張は果たして誠なのか嘘なのか。
当時の体験者の証言を記しておこうと思います。
証言者の今岡祐一さんは、大正13(1924)年に京城(現在のソウル)で生まれ、終戦まで京城で生活されました。

「そもそも私の一族が朝鮮に渡ったのは、明治43(1910)年の日韓併合後、内地で出された教員募集がきっかけでした。日本の朝鮮統治というのは、欧米列強がやったような、植民地から徹底的に収奪するというのではなくて、明治天皇、大正天皇の御詔勅にもあります”一視同仁”の理想に基づいて、朝鮮を内地並みの生活レベル、文化レベルに引き上げようということを基本政策にしました。その為には、学校をつくって教育しなければならないということで、教育に非常に力を入れたわけです。
 けれども、当初は朝鮮に学校というものがほとんどなかった。当然、教員の資格のある者もいなかった。それで併合の翌年に、内地にすごい勢いで教員の募集がかけられたのです。ちょうど私の父の叔父が郷里の米子(鳥取県)の隣村で、小学校の教師をしており、その募集に応じて朝鮮に渡った。それが縁で私の郷里では一族のうち六人が朝鮮に渡ったのですが、そのなかに私の父もいたわけです。
 父は地元の米子中学校を卒業後、大正7(1918)年に朝鮮に渡って、朝鮮総督府の教員養成所に入り、小学校の教師となりました。以来、小学校教師を二校、普通学校という朝鮮人の子供が通う小学校の教頭を二校務め、最後は国民学校の校長をしていたところで終戦を迎えたのです。最初から最後までずっと京城勤務でしたから、私も小学校から大学までずっと京城の学校に通いました。
 ちなみに、統治下の初等教育制度がどうなっていたかというと、最初の頃は日本人の子供と朝鮮人の子供は別々の学校に通っていました。
 日本人は六年制の小学校で、日本の文部省が作った教科書をそのまま使っていた。一方、朝鮮人は修業年限四年の”普通学校”に通っていました。これを”差別”と批判する向きもありますが、先ほども言いましたように、そもそも朝鮮には学校というものがなかった為、ほとんどの人が無学文盲でしたから、日本の子供と一緒に勉強などできるわけがない。だから、きちんとハングルの教科書を作り、それを使って別枠で教育したわけです。
 また、大正期に始まった三面一校増設計画やその後の一面一校増設計画に見られるように、総督府は朝鮮の人々の教育水準を上げる為に、各面(村)に次々と学校を建てていきました。これは大変な投資です。その甲斐あって、昭和13(1938)年には普通学校も六年制になりましたし、昭和18(1943)年には、内地と同様に国民学校となり、日本人の子供と朝鮮人の子供が同じ教科内容で勉強するようになった。30年間教育を積み重ねた結果、日本語も使えるようになったから、もう別枠にする必要はなくなったわけです。」

<続く>