テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

大学生たちの脱洗脳ドキュメント Ⅳ

2005年05月21日 20時27分54秒 | 教育のこと
 以上のレポートには、学生たちが韓国や中国の教科書が一種類だったことを発見し、初歩的な覚醒をしている。
 「この程度のことを大学生になって初めて知ったのか」と驚愕されるだろうが、我々にとってはこれらの事実は常識であっても、大学生たちはこんなことも知らなかったのである。
 ここで一般的日本国民に目を転じてみたい。栗原先生は「圧倒的多数の無関心層」という言葉を使っておられるが、一般国民はこの学生レベルと変わらないと見ていいのではなかろうか。
 「圧倒的多数の無関心層」がいる。「圧倒的多数の無関心層」は、何となく新聞などマスコミの言うことをそのまま信じている。この本はこういった事実を改めて認識させ、考えさせるのである。
 栗原教授は「正論より脱洗脳」といった言葉を使われている。誤解を招くかもしれない言葉だが、圧倒的多数の無関心派の国民は、自ら情報を求め、「正論」や「諸君」を読むわけではない。本当に情報を与えねばならない人には必要な情報が集まらない、届いていないのである。
 栗原教授は授業を通じて学生たちを覚醒させた。このことは非常にありがたいと思う。一人でもまっとうな歴史観を持つ若者が増えたことが嬉しい。教授に感謝したい。

 以上が届いたメールの概要です。ところでしかし、これから先の時代、日本という国家も国民も本当に大丈夫なのでしょうか。淡い期待を抱きつつも、不安感の方を強く感じた次第です。

<以上>

大学生たちの脱洗脳ドキュメント Ⅲ

2005年05月20日 20時37分41秒 | 教育のこと
 無知・無関心を恥じる学生のレポート
「”新しい歴史教科書をつくる会”が支持を受けなかった理由のひとつとして考えられる、9割近くの”無関心層”にとても恥ずかしさを感じてしまいました。私自身がそうだったし、私の周りがそうだったからです。
 そして”無関心層”がこんなにもたくさんいるのなら、日本人が洗脳されやすいのも当然だと思いました。無関心で興味もないから、知識は乏しく、もちろん自分の考えなんて持っているはずもない。
 そこに何らかの情報が入ってきたなら、生真面目で頭の固い日本人は、そのこと(情報)でいっぱいになってしまう。例えばそれが少しでも衝撃的な情報だとすれば、それだけで”洗脳”は完成してしまうでしょう。
 日本人は長所も短所もひっくるめて、洗脳されやすさに繋がっていると思います。それに加えての”無知・無関心””自己の不確立”。変えていくべきは教科書だけではない。」

 教科書に洗脳される人は後を絶たないと嘆く学生のレポート
「”洗脳”は私達の生活に深く根付いているものだと思います。私の父親や母親に戦争の話題を振ると、『日本人は悪いことをした。最低だと言われても仕方がない。償いをしなくてはならない』と言い、さらには『米国とマッカーサーのおかげでいまの日本があるんだ』と続きます。これも洗脳なのでしょう。
 ”新しい歴史教科書”に賛同の人は歴史知識がある人、反対の人は乏しいとレポートにありましたが、確かにそうなのかもしれません。自分で調べようとしたことがない人は、長年教えられてきた教育を払拭することは難しいと思います。
 私自身もそうなんだと思います。試験のために詰め込んだ知識はたくさんありますが、その行為がまた洗脳に拍車をかけていると思うとやりきれない思いです。
 歴史が好きで教科書や資料を読むのが楽しかったのに、あの本たちの中に”嘘”が存在していたのかと思うと悲しくなります。教科書は絶対に正しいと思っている以上、教科書に洗脳される人は後を絶たないと思います。もっと自分で調べ、自分で考える力を持たなければならないと思いました。」

<続く>


大学生たちの脱洗脳ドキュメント Ⅱ

2005年05月19日 20時13分25秒 | 教育のこと
 中・韓の教科書は国定1種しかないことを知らなかった学生のレポート
「韓国や中国の歴史教科書は日本のようにたくさんあるのではなく、一種類ということを初めて知りました。これは韓国や中国の人が政府のつくる教科書に記載されていることが全て正しいという、愛国心を持たせるための表れでしょうか。
 どこの国も、自分の国のしたことを正当化して書いてあることを初めて知りました。中国では国の方針に沿った教科書しか使われていなくて、国の批判なんかするのはもってのほかという感じだそうです。日本のように過去に自分の国がやったことで、悪いことさえ客観的に書かれている教科書はないというのには、びっくりした。」

 偏向教育を嘆く学生のレポート
「私自身、中学生の頃は日本は恥じるべき歴史を持っていると思っていた。
 私の実家は広島県の福山市だが、広島では他県よりも日本の歴史は恥ずべきものという教育がかなり激しく行なわれているのではないかと思う。それが最も端的に表れているのは、日の丸・君が代問題だと思う。私は、君が代を歌えといわれても歌えない。小・中学生のときの入学式や卒業式で君が代が歌われることは一度もなかったからだ。
 日の丸も私が中学3年生のときに入学式などで国旗を掲揚しなければならなくなったようだが、先生たちは何とかして日の丸を式に持ち込むまいと躍起になっていた。
 そして先生たちは、『日本は昔、日の丸を掲げて韓国や中国を侵略した。日の丸を見るたびに韓国や中国の人たちは悲しい思いをする』と言っていた。
 私が疑問に思うのは、その先生の意見にほとんど全ての生徒が賛成で、日の丸は見たくないという内容の作文を書いたり、君が代が式で流れると先生を含め8割くらいの人が着席していたことだ。これがまさに洗脳だと思う。」

<続く>

大学生たちの脱洗脳ドキュメント Ⅰ

2005年05月18日 16時47分29秒 | 教育のこと
 昨日の受信メールの中に興味深いものがありましたので記しておきます。
 それは、栗原宏文著「歴史洗脳を解く-ネット授業で大学生はどう変わったか-」(扶桑社)という一冊の本を紹介するものです。

 愛媛大学法文学部総合政策学科の栗原宏文教授がインターネット掲示板を使ったメディアリテラシーの授業で、中学校歴史教科書問題を取り上げ、学生達との双方向対話や学生達同士の意見交換等を重ねていったところ、多くの学生が「高校までの歴史教育で自分は洗脳されていた」との結論にたどり着き、自虐史観の洗脳が解けていったという。
 いまの大学生はイデオロギーがないため、事実をきちんと教えることによって、東京裁判史観の呪縛から脱することができることを具体的に実証したものといえる。
 概略内容は以下のとおり。

 「この授業を受けるまで、扶桑社の教科書は戦争賛美の教科書だと思っていました…」これは、ある学生のレポートの一部である。

 栗原教授は、まず学生たちに問いかけた。「君たちが習った歴史、そして新聞やテレビが言っていることは本当に正しいのか?」

 栗原教授は、学生たちに実際に扶桑社の教科書を読ませ、教科書問題を扱ったテレビの報道や討論番組を鑑賞させたり、新聞や文献を読ませたりして考えさせた。
 そして、学生たちにレポートをインターネット掲示板に書き込ませた。
 こうして、メディアリテラシー能力の向上で学生たちは徐々に洗脳から目覚めていった。

 「戦犯の人たちの死を悼む人はいない」と思っていた学生は、「巣鴨プリズンのビデオは色々考えさせられました。私は特に処刑された人たちの奥さんや家族がお焼香している場面が印象に残りました。私は戦犯の人々を無意識に悪い人と決めつけ、その死を悼む人はいないと思っていたのかもしれないと思うと恥ずかしいです」とレポートした。

 反日教科書、左翼教師、左翼マスコミによって日本の青少年がマルクス史観と極東軍事裁判史観にいかに汚染されているか、がよく分かります。

 先生が洗脳されている危険性に気づいた学生のレポート
「学生がメディアによって洗脳されていれば、教員も洗脳されている、ということを聞き、はっとしました。
 私たちは先生から教育を受けているのであって、その先生が洗脳されていれば学生も洗脳されていることに気づかないのではないか、と。
 でも、いま私たちはこの授業でその洗脳に気づくことができ、たくさんの人の正直な意見を聞いたりすることによって、自分の気づかなかったことや、自分の考えを持つことの大切さを学びました。現代において最も必要とされているのはこのようなことではないでしょうか。」

<続く>

命の重さ~言行一致の特攻志願~

2005年03月26日 12時05分59秒 | 教育のこと
ファイルの整理をしていましたら、古い新聞の切抜きが出てきました。
日付は分かりませんが、たぶん十年前頃のものではないかと思います。
その記事を読んで感動して切り抜いた記憶が確かに残っています。
全文は長くなりますので主たる部分のみをここに残しておくことにします。

寒風がしみる昭和19年12月15日の早朝、埼玉県深谷の南を流れる荒川の岸辺で、お互いの体を紐で結びつけた母子三人の遺体が見つかった。
駆けつけた熊谷陸軍飛行学校第二中隊長、藤井一中尉は、冷たくなった妻子の足にまとい付いた砂を丁寧に払い落とした。
24歳だった妻、福子さんは前夜、晴れ着を着せた3歳間近の長女の一子ちゃん、生後4ヶ月の次女の千恵子ちゃんを連れ、入水自殺を遂げた。
自宅の机上には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」との遺書があった。
当時29歳、少年飛行兵の訓育を受け持っていた藤井中尉の座右の銘は『言行一致』。
生徒には「事あらば敵陣に、或いは敵艦に自爆せよ。中隊長も必ず行く」と言っていた。
それだけに「教え子だけを死なすわけにはいかない」と、特攻を志願する。
しかし、中尉はもともと歩兵科機関銃隊出身のうえ、昭和12年頃中国戦線で迫撃砲の破片を被弾、左手指が内側に湾曲していて操縦桿はうまく握れない。
また、少年飛行兵を指導する中隊長という立場から特攻は許可されないでいた。
それが、妻子の死後、小指を切って再度の血書嘆願を行なうと、遂に特攻隊員に任命された。
そして、妻子の心中から5ヵ月後の昭和20年5月28日、藤井中尉は第45振武隊の隊長として、隊員10人と共に鹿児島県知覧基地を飛び立ち、沖縄西方洋上で米艦隊に突入した。
出撃と同時に二階級特進、少佐となった。
そのころの沖縄の海は、地元で「海の七割が米艦で埋まっていた」といわれるほど敵艦が多かった。
お昼のラジオで「ただ今、第45振武隊の藤井隊長が突入しました」と流れた。
藤井中尉は出撃一週間前の5月21日、移動途中の下関から高崎の福子さんの父親宛に手紙を出し、こう報告している。
「近く立派に出撃します。福子、一子、千恵子と逢える事を楽しみにしております」
飛行学校の教え子で現在駒澤大学教授、鈴木格全さんは、中尉を「熱血の人。"誠"を絵に描いて、火達磨にしたような方だった」と振り返る。
「命の重さを伝えよう」と、大学の講義でもよく中尉夫妻のエピソードを紹介するという。
「日本のために亡くなった人のことを語り継ぐのは、私たちの義務だと思うのです。学生には涙を流す者もいて、皆私語一つせず、真剣に聞いています。誠は通じるものです」

<以上>