テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

真実の歴史講座 -34-

2005年08月28日 10時40分14秒 | 歴史のこと
  【南京大虐殺事件は全くの虚構①】

 南京城内はそれほど広くはありません。だいたい鎌倉市か大田区くらいの広さです。この南京の真ん中に国際安全区(難民区)といって、アメリカ人7人、イギリス人5人、ドイツ人2人、デンマーク人1人の計15人の外国人が国際安全区委員会を設け、市民の避難場所として管理していました。
 昭和12年12月7日から8日の2日間に、南京にいた蒋介石や何応欣将軍ら政府と軍首脳は全部逃げ出してしまいます。12月9日に松井軍司令官は唐生智将軍に「ここを明け渡しなさい。ここには女・子供もいるだろうし、外国施設もたくさんあるから、平和に開城したらどうか。」とビラを散布して降伏を勧告します。翌10日の正午まで待ちましたが、唐生智から返事はありません。そこで11日から攻撃が開始され、昭和12年12月12日に南京城の一角が崩れます。13日に中華門、中山門が破れます。守城していた中国軍は一斉に下関(シャーカン)方面に逃走します。
 その前に、12月1日、南京市の馬市長が市民に次のように布告します。「南京城はいよいよ危ないので、出られる者は出なさい。残る市民は全員安全区に入りなさい。」金持ちは出られますが、そうでなく逃げる車などもない者は残ります。その数を松井石根大将は12~13万人と言っていますが、記録では20万人となっています。そして馬市長は、安全区を管理している国際安全区委員の15人に残留市民の食糧である米・麦・塩と現金を預け、巡査を何人か残して自分も逃げます。かくして市民は全て安全区内に移り、食糧の配給を受けます。ここには金陵大学や日本を始め各国の領事館や裁判所、病院などもある官庁街です。このような状況下に日本軍は入城するのです。
 支那の敗残兵は、便衣兵(軍服・軍靴を脱ぎ市民を装ったゲリラ兵)になって、この安全区内に逃げ込みます。もちろん便衣兵は国際法違反です。7~8千人は遁入したと言われています。唐生智は、兵隊が勝手に逃亡しないように城門を塞いでしまいました。その為に逃げる兵隊はパニック状態で、巻脚絆や上着を繋いで城の外から飛び降りたらしく、2~3百人の死体があったそうです。ここの北方の揚子江への出口(下関)を佐々木支隊が包囲します。機関銃による銃撃で多くの敗残兵が死にます。多くの死体が散乱しますが、勿論これは戦闘行為です。揚子江の第三艦隊が13日に入って来て、こちらからも攻撃しますので、完全に敗残兵は挟み撃ちになったわけです。
 
<続く>

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