テンキチのブログ「誠」

忘れてはならない誠=真実を記しておきます。テンキチが気づいた其の度に。

テンキチ死す

2010年11月19日 19時58分52秒 | 無分類
平成22年11月5日(金)午前7時10分突然倒れる。

平成22年11月11日(木)午後5時6分心肺停止永眠。

平成22年11月14日(日)午後0時火葬。

ありがとうございました。合掌。

朝鮮総連関連施設への固定資産税を免除している自治体

2010年08月13日 16時09分43秒 | 社会のこと
 朝鮮総連関連施設への固定資産税を全額免除する自治体が漸く0になりました。
 「北朝鮮に拉致された日本人を救う会・熊本」が熊本市に対して総連関連施設への減免を違法として訴えた裁判で、平成19年11月に最高裁で違法判決が確定したことが大きく影響しているものと思われます。
 しかしながら、減少してはいるものの未だに一部減税し違法状態を続けている自治体があります。
 一部減免税している自治体は以下のとおりです。

 北海道…札幌市・帯広市・北見市・苫小牧市
 群馬県…桐生市・前橋市
 千葉県…千葉市
 東京都…調布市
 新潟県…新潟市
 石川県…金沢市
 福井県…福井市
 愛知県…岡崎市・瀬戸市・西尾市・東海市
 滋賀県…大津市
 京都府…京都市
 大阪府…大阪市・堺市
 兵庫県…神戸市・尼崎市・西宮市・明石市
 鳥取県…米子市
 島根県…出雲市
 岡山県…岡山市・倉敷市・備前市・津山市
 山口県…下関市・宇部市・周南市
 高知県…高知市
 福岡県…飯塚市・水巻町・苅田町
 

朝鮮総連関連施設への固定資産税全額免除している自治体

2006年11月12日 13時38分34秒 | 社会のこと
テンキチです。日本という国家が余りにもフニャフニャしているのに嫌気が差し、せめて自分という人間だけはそうはなるまいと、俗界を離れある所に篭り仙人生活をしておりました。
久方ぶりに電気、瓦斯、水道のある生活に戻りました。心身ともにハレーションのようなものを起こしております。ゆっくりと時間を無視して回りを見渡していこうと思っております。

さて先日、ある方とお話ししている中で驚いたことがあり、これは是非とも把握しておかなければと思い、以下に記しておきます。
現在においてもなお、朝鮮総連関連施設への固定資産税を100%免除している市や町が数多くあるそうです。

北海道…札幌、釧路、帯広、北見、苫小牧
青森県…青森
福島県…会津若松、いわき、
群馬県…前橋、桐生
栃木県…宇都宮
埼玉県…さいたま、熊谷、越谷
千葉県…茂原
長野県…上田
岐阜県…土岐、各務原
三重県…津、桑名
愛知県…一宮、春日井、豊田
福井県…福井
奈良県…奈良
大阪府…高槻、岸和田、吹田、守口、和泉
兵庫県…尼崎、明石、宝塚、高砂
鳥取県…米子
岡山県…岡山、倉敷、備前、津山
広島県…福山、大竹
山口県…周南、下関
香川県…高松
福岡県…福岡、飯塚、水巻、苅田
佐賀県…佐賀
長崎県…佐世保

間違い、追加等ございましたらお教えいただければ幸いに存じます。
-以上-

韓民族に 呆れ果て過ぎ 情けなく 怒る気もせず 興味すら湧く

2005年12月16日 19時09分13秒 | 政治のこと
 【日韓基本条約発効から40年にして…】

今から40年前、昭和40年12月11日、日韓基本条約の批准案が参議院において社会党等の激しい抵抗の中可決され、18日にソウルで批准書が交換され発効しました。日韓の国交が正常化したわけです。
 6月22日には「日韓請求権並びに経済協力協定」を締結し、日本は約8億ドルの経済協力金を支払い、両国の政府・国民間の請求権が完全且つ最終的に解決されたことが両国で確認されました。この交渉過程において次のようなこともありました。韓国は日本の個人補償案を拒否し、政府が一括して受け取ることとしてしまったのです。
 韓国内でこのような事実はほとんど知らされることはなく、なんと今年1月の正常化交渉関連文書公開においてようやく明確となったのです。
 にもかかわらずこの国では相も変わらずの「日本糾弾反日世論」一辺倒の一年間のようでした。
 それにしてもこの国の国民の民度というより脳度はどこまで底なしなのでしょうか。その奥深さに全く呆れ果てた次第です。
<以上>

しかし、まぁ、あぁあ…

2005年11月27日 20時48分02秒 | 社会のこと
 ノンフィクション作家の上坂冬子氏が次のように述べておられます。

 風評で固めあげられた事件をあげればきりがない。
 そういえば十年前、例の福井県・敦賀でのもんじゅのナトリウム漏れについても同じことがいえる。ああいう事象は、外国の発電所でもよくあることで、例えばロシアで同じようなナトリウム漏れを27回起こしたと、私はロシアの発電所で直接聞いた。もともと、ナトリウム漏れは事故とはいわない。事故の国際基準は七段階あって、ナトリウム漏れは最低基準の一つであり、事故とはいわず事象といわれる。
 この場合のナトリウムとは液体金属といわれるもので、冷却用配管の中を一方に向かって流れている。その流れの中に配管の外から温度計が差し込まれていた。その棒状の温度計が液体金属の流れに抗し切れず折れてしまったという、かなり初歩的な技術ミスではあった。
 だがこの技術ミスによって、もんじゅが以後、10年間の長きにわたって手付かずのまま運転停止となったと聞けば、誰しも驚くだろう。確かに流れ出た銀色の液体金属は、当初おどろおどろしい様相となってテレビで放送されたりしたが、実際には放射能漏れとは無縁の事象だったし、まもなく国の安全審査機関としての保安院から工事再開可能のお墨つきももらった。もちろん地元福井県の安全基準も満たした。にもかかわらず一向に温度計の付け直しその他の工事が始まらぬまま、10年が経過したのである。10年間放置しただけならいい。停止している間の経費が年間70億円かかっている。
 なぜ、こんな法外な無駄が認められたのかを一言でいうなら、泣く子と地頭には勝てなかったからということになろう。国家と県とが如何に安全を保証しようが、地元の不安が消えない限り原子力施設は動かせない仕組みになっているからである。いわば国策をになって建設されたもんじゅだが、肝心なところで地元の知事の判断がキメ手となっており、知事がゴーサインを出さねば動かない。
 これはおかしい。
 たとえば、地元の知事が選挙をかかえて世論に土下座したい時期だったとすれば、どうだろう。あるいは、地元の要求として新幹線を引き込みたいと考えている時期だったらどうだろう。知らず知らずのうちに、知事は地元民の世論におもねって公正な判断を下せなくなるだろう。つまり、発電施設と無関係な要因によって、工事再開の可能性が左右しかねない結果となる。
 原子力発電所は日本の国策にそってすすめられてきた。にもかかわらず肝心なところで、住民が一人残らず納得するまでコンセンサスを待つという、シマリのない民主主義によって結論がおあずけになった例がどれほどあったことか。これまで私たちは、この種のバカ丁寧な民主主義まがいの理屈にどれほどの回り道と二度手間を強いられてきたことか。口に出さずとも、いい加減にせいと腹に据えかねる思いで、住民本位という名の悪しき民主主義を慨嘆してきた人々は決して少なくない。

 しかしまぁ…、という感じですね。

「本当にすごい人たち」

2005年11月18日 23時19分43秒 | 報道のこと
本日は東京出張でした。
朝早くに家を出て新幹線に乗りました。
車内で新聞(朝刊)を読みました。
ある小さなコラム記事に釘付けとなり、何度も読み返しました。
"本当にすごい人たち"というタイトルでした。
朝一から涙が流れかけつつ何とか堪えました。
こんなことはめったにないことです。
この事件(ニュース)のことは全く知りませんでした。
是非とも、この記事を記しておきたく思います。

 成田空港の検問所で、34歳の男が免許不携帯で逃走しナイフで警察官二人を死傷させた事件、また劇薬を自分の母親に投与した16歳の女子高生の事件の陰で、ある老夫婦の心中事件が報じられた。
 福井県大野市。80歳の夫と、認知症で糖尿病だった82歳の妻。夫は行政にも親戚にも近隣にも助けを求めることなく、一人で妻の介護を続けた。施設入りを勧められても、最後まで自分が面倒を見ると、断った。
 二人で使われていなかった市の旧火葬場の焼却炉に入り、焼死した。白骨になって発見された。自分たちで体の始末までしたのである。合意の上での死だったと思いたい。車内に残されたメモには、家を出る時間、死への準備、「午前0時40分ごろ点火」など、細かく計画が書かれていた。市役所に「財産は自治体に寄付する」と遺書を送っていた。子供はなかった。焼却炉近くに止められていた車からはクラシック音楽が流れていた。
 あるテレビ解説者は「偕老同穴」と言ったまではさすがだったが、「悲惨」と言ったところで、微かな違和感があった。しかたのない一言とはいえ、いつもの決まり文句だ。はたしてこの夫婦の死は「悲惨」だろうか。むしろ立派な死ではないだろうか。見事な夫婦ではないか。
 以下省略

車から流れていたクラシック音楽の曲名は何だったんでしょうか。
二人の白骨は抱き合っていたそうです。
今こう書き終わって、また少しばかり鼻水が出かかっている次第です。


真実の歴史講座 -36-

2005年09月02日 22時04分00秒 | 歴史のこと
  【南京大虐殺は全くの虚構③】

 同盟通信の本部はこの安全区にありました。後にプレスセンターの会長もされた前田雄二は「我々は常にここの数名の記者と共に常駐していた。もし殺人事件があったとしたら、すぐに駆けつけて写真も撮り、記事にもします。しかし、そんなことは何一つとしてありませんでした。」と証言しています。南京では、逃げ込んだ兵員は別にして、市民は全くもって安全だったのです。
 とにかく、南京で大虐殺があったというのは完全なるデマゴーグなのです。支那人得意の白髪三千丈式の宣伝なのです。要するに作り話なのです。外国人記者も含めて150人程のプレスマンが南京市内で取材に当たっていましたが、誰一人として虐殺など目撃してはいないのです。評論家の阿羅健一が調べたところによりますと、その当時に南京で取材した知識人の中には、林芙美子、石川達三、西条八十、草野心平、大宅壮一といった有名な方々がいましたが、これらの人たち誰もが見たことも聞いたもないと言っています。東京裁判で南京において大きな虐殺事件があったと聞き、まさか信じられないと驚いたというのが多くの人々の所感です。このことを阿羅健一氏は『聞き書き南京事件』の中で詳しく書いています。
 朝日新聞の記者が一人亡くなっていますが、おそらく命懸けの取材をしたのでしょう。読売も毎日も報道していますが、当時朝日が一番詳しく、12月13日から31日までの間に5回にわたって写真特集をしているのです。日本軍が入った1週間後の写真を見ると、実に平和な光景、日支親善風景が映し出されています。畑を耕している光景、街中で散髪している光景、少女が集まって賛美歌を歌っている光景、日本の兵隊が中国人の子供と遊ぶ光景、乳の出ない母親に代わってミルクをあげている光景、支那人捕虜に給食したり看病したりしている光景等々です。プレスマンたちは虐殺など誰一人として目撃していません。虐殺などないのですから見るわけもありません。実にのどかな日支親善の有り様が写し出されています。
 戦争に負けて、昭和46年頃から朝日新聞は掌を返したように「南京で大虐殺があった、あった!」とでたらめを書き続けます。朝日新聞は本多勝一記者の『中国の旅』を40日間連載しますが、その内容は全て中国側の宣伝通り、中国人が言ったままに書いています。ウラを取るとか、証拠を求めるとか、日本側の証言を照らし合わせるとかは一切せずに、ただただ中国共産党のプロパガンダの言うがままに、日本の悪虐ぶりを「これでもか、これでもか」と書き綴ったのです。これにより、本当にあったことと信じ込まされてしまった日本人も大勢いて、教科書にまで載るようになってしまいました。
 つまり要するに、南京で虐殺事件など全くなかったのでした。

<以上>

真実の歴史講座 -35-

2005年08月30日 20時07分10秒 | 歴史のこと
  【南京大虐殺事件は全くの虚構②】

 松井大将は占領後すぐに安全区の各出入口に歩哨を立たせて、無用の者の出入を禁じ、銃撃や砲撃をしないように厳命しました。文字通りの「安全区」としたのです。ただし、当然のことながら便衣兵については、国際法に則って厳しく処刑しました。きちんと軍服を着用し、武器を隠さず所持し、指揮官の下に行動してこそ軍隊であり、軍隊には降伏する権利があります。しかし、軍服を脱いで民間の服を着て武器を隠し持って攻撃してくる便衣兵というのはその悪質さ故、即時射殺されても国際法上何ら構わないのです。日本軍はこの便衣兵には相当やられました。安全区に入った便衣兵の2~3千人は引っ張り出されて揚子江岸で処刑されています。勿論これは国際法上の正当な処罰であります。
 安全区には婦女子を含めて約20万人の市民がおりましたが、12月13日から翌年2月9日まで、この安全区の委員たちは車で全市を走り回り、中国人青年を使って情報収集させ、日本軍の悪事を記録して、日本の外務省に毎日その情報を通知して取り締まるよう要求しました。その情報の集計は、日本軍兵士による殺人事件は49件、傷害事件は44件でした。それも噂を含めての数字です。つまり、南京での不当とされる殺人事件は最大でも49人ということです。
 そして、1月中旬には南京の人口は25万人に増えています。さらに2月には治安も安定し、皆が自分の家に帰りたくなり、安全区も解散になります。このようなことから、安全区国際委員長のラーベは次のような感謝状を日本軍に提示しています。「安全区においては一件の火事もありませんでした。銃撃もされませんでした。爆撃も砲撃もありませんでした。至極安全でした。有難うございました。」
 
<続く>

真実の歴史講座 -34-

2005年08月28日 10時40分14秒 | 歴史のこと
  【南京大虐殺事件は全くの虚構①】

 南京城内はそれほど広くはありません。だいたい鎌倉市か大田区くらいの広さです。この南京の真ん中に国際安全区(難民区)といって、アメリカ人7人、イギリス人5人、ドイツ人2人、デンマーク人1人の計15人の外国人が国際安全区委員会を設け、市民の避難場所として管理していました。
 昭和12年12月7日から8日の2日間に、南京にいた蒋介石や何応欣将軍ら政府と軍首脳は全部逃げ出してしまいます。12月9日に松井軍司令官は唐生智将軍に「ここを明け渡しなさい。ここには女・子供もいるだろうし、外国施設もたくさんあるから、平和に開城したらどうか。」とビラを散布して降伏を勧告します。翌10日の正午まで待ちましたが、唐生智から返事はありません。そこで11日から攻撃が開始され、昭和12年12月12日に南京城の一角が崩れます。13日に中華門、中山門が破れます。守城していた中国軍は一斉に下関(シャーカン)方面に逃走します。
 その前に、12月1日、南京市の馬市長が市民に次のように布告します。「南京城はいよいよ危ないので、出られる者は出なさい。残る市民は全員安全区に入りなさい。」金持ちは出られますが、そうでなく逃げる車などもない者は残ります。その数を松井石根大将は12~13万人と言っていますが、記録では20万人となっています。そして馬市長は、安全区を管理している国際安全区委員の15人に残留市民の食糧である米・麦・塩と現金を預け、巡査を何人か残して自分も逃げます。かくして市民は全て安全区内に移り、食糧の配給を受けます。ここには金陵大学や日本を始め各国の領事館や裁判所、病院などもある官庁街です。このような状況下に日本軍は入城するのです。
 支那の敗残兵は、便衣兵(軍服・軍靴を脱ぎ市民を装ったゲリラ兵)になって、この安全区内に逃げ込みます。もちろん便衣兵は国際法違反です。7~8千人は遁入したと言われています。唐生智は、兵隊が勝手に逃亡しないように城門を塞いでしまいました。その為に逃げる兵隊はパニック状態で、巻脚絆や上着を繋いで城の外から飛び降りたらしく、2~3百人の死体があったそうです。ここの北方の揚子江への出口(下関)を佐々木支隊が包囲します。機関銃による銃撃で多くの敗残兵が死にます。多くの死体が散乱しますが、勿論これは戦闘行為です。揚子江の第三艦隊が13日に入って来て、こちらからも攻撃しますので、完全に敗残兵は挟み撃ちになったわけです。
 
<続く>

真実の歴史講座 -33-

2005年08月20日 09時17分02秒 | 歴史のこと
  【大東亜戦争と東南アジアの国々(ビルマ)】

 おもしろいことに、ビルマ(現ミャンマー)にもインドネシアと同じような伝説があるのです。「ボウモウジョ伝説」と言い、「雷帝伝説」と書きます。「ビルマが最後に英国に負けたときの王子が行方不明になったままで、その王子が白いガウンを着て、白い馬に乗って、ボウモウジョと名乗り、東の方からやって来て、イギリス人を追い払ってくれる」という伝説です。
 大東亜戦争の始まる前年の昭和15年、陸軍省は、援蒋ルートの一つであるビルマルートを断つために、ビルマに独立運動が起き、ビルマ人自身がこのビルマルートを押さえる方法を考えました。その謀略機関として作ったのが南機関で、その機関長が鈴木敬司大佐です。ビルマにはタキン党という立派な青年組織があり、その中から鈴木大佐らは30人を選んで出国させ、海南島で徹底した軍事訓練を施します。そして、開戦の時にタイの首都バンコクに集まり、ビルマ独立義勇軍(BIA)の旗を掲げます。タイやその近隣にいるビルマ人にも呼びかけて、約200人が堂々とビルマに入場するのです。鈴木大佐はボウモウジョの伝説を聞いて、自ら白いガウンを着て、白い馬に乗って指揮しました。「ボウモウジョが来た!雷帝来る!」とビルマの民衆は勢いづき、「独立だ!これで独立できるぞ!」と歓呼してBIAを迎えたのです。
 その時の30人組の一人が有名なアウン・サンです。アウン・サンやネ・ウィンといった30人組の人たちが後に軍司令官になり、首相になり、大臣になり、独立後もビルマの中核になるのです。日本軍も歓呼に迎えられ、3月10日には首都ラングーンに入城します。
 前述したようにインドネシアにおいては、最高勲章「ナラリア勲章」を7人の日本人が受章していますが、同じようにビルマ独立の最高勲章「アウン・サン旗章」を亡くなられた鈴木大佐(死後に少将)のセツ子夫人と7名の南機関の日本人が受章しています。ビルマの独立の勲功を称えた最高勲章です。侵略者に与えるわけなどありません。それだけ日本人がビルマやインドネシアの独立に心底尽くしたという証拠です。マレーシアでは、コタバルというところに山下兵団が上陸したという記念碑が建てられています。日本の新聞はこういうことを書きません。学校でも教えません。日本の国民は真実を知らされていないのです。

<続く>