lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

「〈私〉時代のデモクラシー」を読む

2011-02-14 15:09:14 | Weblog
昨今、急速に個人化とか個別化が進んでいる。多くの人がしばりのない生活に快楽を感じ、人間の最少単位の社会=家族をおざなりにしていく過程が進むことを私は憂える。国家の福祉を充実させることは必要だとは思うけど、税金を払っているのだから親の面倒を国が見るのは当然という意識が制度を作っていくことには、刹那的な利己のようにも思え、戸惑いを感じる。また秋葉原やら取手やらで殺傷事件が起きていることと個人化・個別化というのは無縁ではないだろう。
「〈私〉時代のデモクラシー」を読むと、こんなふうに個人化・個別化が進むからこそ、個人が社会を抱え込んでいるのではないかと考えさせられる。個人というのは、社会の矛盾や問題を投影するスクリーンのような存在だ。人が声をあげるとき(それは例え一人であっても)、社会の声だ。社会の声に耳を傾けるとは、一人の人間が抱える問題や矛盾を単なる「私的な」問題として片づけるのではなく、社会の矛盾や問題として一緒に考えていくことだと感じた。
〈私〉こそが社会の映し出されるものであり、〈私〉同士(あるいは〈私たち〉)こそが矛盾や問題を解決する社会となるのだ。
これは言語教育の場でもできることであり、この社会で共に生活しようとする者同士でシェアできることである。(あるいは私とママ友とでもできることなのだ。)

「〈私〉時代のデモクラシー」宇野重規(岩波新書)

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