ことばを話し手と話す相手とが共有する領土だと言ったバフチーンは「どんなに遠い過去の対話から生まれた意味も、最終的・決定的に捉えることはできない。なぜならそれはその後の対話の中でたえず更新されてゆくからである。」と述べている。
発せられたことばは対話の中で形を成そうとしては、更新され、また形をかえようとしては、新たな息が吹きかけられる。ことばというのは永劫性のあるもので、完成された状態で存在するものはない。
また、「ミハイール・バフチーンの世界」という本の中で「バフチーンのいう自己とは決して1つの全体ではない。それは対話的にしか存在しえない。それは独立した実態でも本質でもなく、他者的なものすべてとの、とくに他の自己たちとの、伸縮性のある関係のなかにしか存在しない。」とある。
自己は自己として存在しない。他者の中にあって、他者とともにあって、そして自己も他者も永遠に完結しない。そうなると自己とか他者とかという境界が必要なのかも疑問になってくる。
私達はそういう世界に生き、そのためにことばを紡ぐのだということを私は教室の中でも外でも一瞬たりとも忘れない。
ここでも、完成することのないことばを紡ぐことになろう。
発せられたことばは対話の中で形を成そうとしては、更新され、また形をかえようとしては、新たな息が吹きかけられる。ことばというのは永劫性のあるもので、完成された状態で存在するものはない。
また、「ミハイール・バフチーンの世界」という本の中で「バフチーンのいう自己とは決して1つの全体ではない。それは対話的にしか存在しえない。それは独立した実態でも本質でもなく、他者的なものすべてとの、とくに他の自己たちとの、伸縮性のある関係のなかにしか存在しない。」とある。
自己は自己として存在しない。他者の中にあって、他者とともにあって、そして自己も他者も永遠に完結しない。そうなると自己とか他者とかという境界が必要なのかも疑問になってくる。
私達はそういう世界に生き、そのためにことばを紡ぐのだということを私は教室の中でも外でも一瞬たりとも忘れない。
ここでも、完成することのないことばを紡ぐことになろう。
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