lunas rotas

いつまでも、完成しないことばを紡いでいこう

浮遊するagentからその先へ

2006-10-15 01:05:10 | Weblog
 「リテラシーズ2」は興味深い論考がぎゅっと詰まっている。このシリーズは「21世紀の日本事情」のときから毎号毎号充実度が増し、新しい号を読むたびに次の号の発刊への期待感が強くなるのを感じることができる。誌自体が力をつけてきていて、号を重ねるごとに読み応えのある論考が増えている。 そのため「リテラシーブ2」に収載された論考はどれもひきつけられる議論が展開されているが、特に「『欧州共通参照枠』におけるagent/acterurの概念について」(姫田)が、新たに議論の俎上が作られ、論争の準備がされたような興奮を感じた。 この論考が参考にするIbid(1999)のようにagentを「構造の要求に組み込まれた役割とあらかじめ植え付けられた意思の担い手を意味する語」で、auteurをそれとは「反対に、個々人に自由な余地を強調したい」時に使用する語とした場合、agentを学習者かそうでないかは、もうここでは問題にされないのではないだろうか。学習者という面だけでなく、生きていく上でもagent性とauteur性は私自身に常に混沌とある。それを戦略的に選択したり無意識に選択したり、時には強要されたりしながら、ふわふわとさまよっている。 呼び起こされるのは、春原先生の「学習ストラテジーとネットワーキング」(1999)。そこでは「自分の多様な属性の1つを強調されるような、周囲からのアイデンティティーの押しつけをすり抜けていくストラテジーが求められる。すり抜けるためには、特定のアイデンティティーを拒否するというより、複数のアイデンティティーのあいまをただようほうがよい。」と述べている。 姫田論文で大事なのは、「学習者は自分自身が恣意的に規定する社会の枠組みに気付いた時―その時、各個人の恣意によるいくつもの社会の規定があることに同時に気付くだろう―、そしてその社会のagentである自分を知る時、はじめてauteurへの一歩を踏み出す」ということだ。つまり、規定されている社会は自分自身の恣意によるものであること、かわしたりすり抜ける必要があるのは他ならぬ自分の恣意性であることが説かれ、それ故「その観察ができるのは彼/彼女自身だけだ」と姫田は主張するのだ。 先日、別ブログに書いた「ENDO」と[TSUKADA」のあいまをさまよう私は、未だagentであったと言える。しかし自己の恣意的規定があるとすれば、そしてそれに気付きつつある私は「auteurへの一歩を踏み出」そうとしている。 あえて言語教育の場に戻して考えれば、学習者に彼ら自身の恣意的な規定に気付く権利を「返す」(姫田)とは、如何に実現できるか。教師が学習者に社会の恣意性に気付かせるというのはもはや不十分なのだ。すなわち、学習者自身の混沌性や更新性を可視的にすることであり、これは過程をもってこそ可能になる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿