歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「プロセス思想」創刊号の巻頭言を読むー二十一世紀の文明の構築に向けて

2021-01-09 | 哲学 Philosophy

 南山大学で第二回国際ホワイトヘッド学会が開催されたのは1985年でしたが、その翌年に日本ホワイトヘッド・プロセス学会(創設は1979年)の学会誌『プロセス思想』が創刊されました。巻頭言として初代会長の山崎正一先生の「創刊に寄す」が掲載されています。 

 山崎先生は、日本哲学会の会長を勤められましたが、ホワイトヘッド学会の初代会長でもありました。東京谷中の(臨済宗)興禅寺の住職でもあった先生は、大学院でカントの「純粋理性批判」講読と、道元の「正法眼蔵」講読の二つの演習を担当されていました。先生が1973年に退官されるまで、私もこの二つの演習に参加していましたが、当初は、イギリス哲学とカント哲学の専門家として知られていた山崎先生がなぜ道元を演習のテキストに使われていたのか、理由がよく分かりませんでした。しかし、先生が、東京谷中にある由緒ある古刹、興禅寺の住職であることをあとになってから知りました。

 仏教的な智は近代西洋哲学とは違って、死を免れない人間の生き方を直接に問題とすること、近代人が忘却した人間存在の有限性の自覚、僧堂生活の中で伝承された「戒・定・慧」の「三学」による全人的な教育、とくに道元の「修証一等」の修道論の意味の再発見ということを、私は山崎先生の演習から学んだと思っています。

 山崎先生の『プロセス思想』巻頭言は、36年前に書かれましたが、現在でも古さを全く感じさせません。とくに近代産業社会が姿を現した一九世紀以来の文明社会を特徴付ける三つの対立関係が、「錯乱の人間(homo demens)」ともいうべき偏頗な人間像を輩出し、それが二〇世紀の文明の危機的状況を生み出したという認識は手厳しい。それは、大学で専門分化した学問を学ぶだけで、社会倫理と宗教を忘却した人間に対する警鐘ともなりましょう。

 現代文明の危機を克服するために、二十一世紀以降の人類に求められているのは、第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和であるということを山崎先生は巻頭言で説かれています。そのような観点から、「古代以来の人類の正統的な知恵の探究」に棹さすホワイトヘッド哲学の意義とその歴史的社会的使命をとくあたり、まことにホワイトヘッド学会の創立の理念に相応しい内容であると思いました。

 プロセス思想創刊号は、まだ電子化されていないので、以下にその全文を再録します。 

ーーーーーーーーー創刊に寄す(山崎正一)ーーーーーーーーーーー          

 近代産業社会が姿を現した一九世紀初頭以来、現代の文明社会は、三つの対立関係を基本的枠組( パラダイム) --fundamental presuppositional scheme(framework)--として運営せられている。
 第一は、自然と人間との対立である。人聞は、自然の内に、自然の一部として生れた存在でありながら、自然界から自己を引きはなし、自己を自然界から自立させ、そして、自然界を征服し管理し統御すべきものとせられる。人間は自然を開発し、自然界の力を、統制し運営する。そこに人間存在の意義を、人間の人間たる所以を、見出そうとする。
 第二は、人間相互の対立である。個性を重んじ、個的主体性・人格性を尊重する。相互に競争することによって、個人にとっても、社会にとっても、よりよき進歩が得られると考える。相互に相手を、自己と同様に尊重することを理想とし建て前とする。個人と個人との相克を調停するのは、正義公正の原則である。こうして、階級対立のない差別なき平等な民主的社会が実現せられると考える。
 第三は、人間における「知性」と「感情」(情念)との対立である。合理的知性は、非合理的感情(情念)を、規制し制御すべきものとせられる。これによって、人間生活を合理的に開明化し、社会生活における非合理的な人間関係と呪術信仰を排除すべきものと考える。
 以上、三つの対立関係を抜本的枠組(パラダイム)として、人間は、自然を征服し、人間世界をたえず拡大して前進してゆくべきものとせられ、相互に個性を尊重し正義公正の原則に基いて民主的社会を運営し、非合理を排して合理的に整序せられた理性的人間の社会をめぎして進歩しゆくべきものとせられた。
 しかしながら、結果において、もたらされたものは何であったか 。 二十世紀において明らかとなったことは、第一に、大規模な自然環境の破壊の進行であった。またそれは、人間の生理的身体を破壊し、さらに遺伝子に影響を与えて、将来の子孫の存在までも危うくすることが明らかになったことである。
 第二に、人間は、相互に相手を尊重することを建て前としながら、実状においては、相互に相手を圧服し征服し統御しようとする。個人では力が弱いということになれば、徒党を組み、団結し、組織を作り、こうして徒党や組織体が互いに対抗し争い合う。それは相互不信と相互抗争の世界である。個人にとって国家は敵であるが、国家にとっても他の国家は敵である。
 第三、人間存在は、理性的であるのみではなく、依然として情念的存在であるから、理性によって抑圧された情念は、様々な精神障害を惹き起す。それは内攻して内圧力を高め、吐け口を求めて一挙に噴出する。それは暴動ともなり、あるいは組織的なる反抗運動ともなる。この場合に、情念を鼓舞激励するのは「力は正義なり」という理念である。
 以上、一連の事象の意味するところは何か。それは、人間存在が主体的な理性的存在であるという点を一面的に強調することによってもたらされた「逸脱」--diviation--の世界であるということである。それはホワイトヘッドの言葉を借りれば、「具体者置き違いの誤謬」---fallacy of misplaced concreteness---ということになるであろう。即ち、それは、人間存在の在るべき姿の或抽象的な一面を描き出し、これを具体的なものと思い錯覚した誤謬である。このような誤謬に陥った人間が、(錯乱の人間)に他ならない。思うに、それは主体的合理主義の<<近代的>>誤謬であって、人間存在が存在するための必要条件にのみ注目しその充分条件を見失った誤謬ということができよう。
 人間存在の充分条件は、「対立」ではなく、むしろ「調和」(harmonia)である。人間存在のあるべき姿として、二十一世紀以降の人類に求められているのは、
第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和である。
 ホワイトヘッドの「有機体の哲学」が目指しているのは、このような新しい世界を開く基本的スキームであるということができよう。それはまた、前一千年紀以来、地中海域から、オリエント、インド、中国シナの古代文明の知性か求めた「知恵」(wisdom)の探究の伝統につながるものである。私の考えでは、このような知恵の探究は、実のところ、根源的には、石器時代以来、人類が、世海と人間とに対して抱いた基本的想念を手がかりとし、これに基づくものである。
 正義公正の原則は、人間の共同存在のための必要条件を示すものにすぎない。人間間共同存在の充分条件となるものは信愛である。そして何よりも、人類はみづからが有限な存在であることを思い、謙虚にみづからを省みるところがなければならない。そのときに、はじめて人々は、現代文明社会において見失った善美なる価値の世界をふたたび見出すことができ、近代科学も、在るべき価値秩序の中に、自己の在るべき位置を見出すことができるであろう。
 今回創刊の機関誌が、古代以来の人類の正統的な知恵の探究に棹さすものであることを想い、ここに、その出立を祝うものである。

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ちなみに、『プロセス思想』創刊号の目次は以下の通りです。

創刊に寄す    
山﨑正一  -------1

大乗仏教とホワイトヘッド哲学ー特に中観と瑜伽行唯識の基本的問題について--------5  
武田龍精

ハヤトロギアとホワイトヘッドのプロセス思想-------19  
田中裕

ホワイトヘッド形而上学における神の観念について-------33  
京屋憲治

バルト神学とホワイトヘッド哲学-------43  
大島末男

出来事・有機体・現実的実質とシステムーホワイトヘッド哲学とシステム哲学の概念比較------55  
伊藤重行

ギリシャ教父に見る万有在神論ーエイレナイオス、マキシモス、パラマスの場合------65      
木鎌安雄

ホワイトヘッド国際シンポジウム回想 relevancy and genius------79  
松延慶二

Japanese Universities and their Function in National Development ------86 
Keiji Matsunobu

 

 

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